第17話:天界の門

「ふっ! ふぅっ!」


 途切れることなく、偉浪ウェイランの息遣いの一つひとつが弾け散る。

 背丈の倍ほども長い百足は、主に大顎を使う。しかし噛みつくだけでなく、突き、薙ぎ払う選択肢も織り交ぜた。


 偉浪ウェイランはその全てに大鉈を叩きつけ、力尽くで制する。あれは扇子か菜箸か、そう見誤るほど軽やかに、分厚い黒刃は閃く。


「きえぇぇぇ」


 百足が啼いた。

 いや啼かないはずだが、春海チュンハイには啼き声と聞こえた。

 (人の——顔を持っているから?)


 尋常の百足とは違う。迷宮ここでは啼くのだと言われれば、そうですかと頷くしかない。

 けれどやはり、気になった。


 百足の頭にある女の顔は、目を剥き怒りの形相をする。

 食事の邪魔をされたから。とも思えるが、そうではないと感じてならない。


「あの女性ひと、苦しんでる」


 ただの思い込みかも。あれは魔物で、たまたまあの姿に生まれただけで、不憫と思うほうがおかしいのかも。


 かも、かも、と否定の根拠はいくらでもあった。だが血走った眼を遠目に覗き、追いかけていると、春海チュンハイの首は無意識に左右へ振れた。


「私が楽にしてあげる」


 呟くと、手の震えが止まった。もう怖くはなかった。

 あれは恐ろしい敵でなく、神の導きを求める迷った魂だ。


 それなら手を差し伸べる。道に迷い、不安で泣きじゃくるのは子どもの特権ではない。そんな相手に、何を恐れる必要があるものか。


「覇っ!」


 偉浪ウェイランと瓜二つの雄叫びが上がった。頭部を相手にする父親と離れ、息子は尻尾の側に立つ。

 振り下ろした手斧が、いとも簡単に百足の腹を捉えた。


 草色の飛沫が撥ね、百足の前半身は急旋回を行った。するとまた「きえぇぇ」と、悲しげに啼く。


 春海チュンハイは背負い袋から、持参した道具を取り出した。背中いっぱいの袋を必要とした、大きな祈りの道具だ。

 階段と回り縁と、左右へ開く表扉を備えた門。

 ジンではこれを、天界の門シャンタンと呼ぶ。


 言ってしまえば、僧院の建物の入り口を小さくした模型だ。聞くところでは皇帝の館も同じ造りらしいが。

 そっと、素早く、掛け金を外して扉を開く。


 中には何もない。扉しかないのだから、当たり前に向こう側が見えるだけ。

 今は百足が門へ収まるように向けた。両手を合わせ、祈り、その時を待つ。


「相手は俺だ!」


 大鉈が百足の後ろ頭を殴りつけた。腹に風穴を空けた破浪ポーランに気づき、巻きつこうとしたところを。


「きえぇぇ」


 百足も目を回すのだろうか。ふらふらと前半身の揺れる姿が、まるで酔っ払いだ。

 それでも偉浪ウェイランの手は緩められない。今度は横面を引っ叩き、破浪ポーランから遠い壁ぎわへ誘う。


 明らかに動作を鈍くし百足が、大顎を翳して襲いかかる。

 長い長い胴体を存分に縮め、一気に伸ばした刺突。最初の俊敏性があれば届いたかもしれない。


 だが偉浪ウェイランはもう三歩離れ、無防備な百足の胴を切りつけた。

 傷つけるより、誘導が狙いのようだ。追いつこうとする百足を、反対の壁ぎわへ誘う。


 すると後ろから近づいた破浪ポーランに、殻の薄い腹が晒される。思いきり振りかぶった手斧が、彼の胸の高さで叩き込まれた。


「きえっきえぇぇ」


 桶に何杯分も、体液が溢れる。痛みで腹を抱える人間のごとく、百足は自身へ絡みついた。

 傷口を結べば流血が止まる。まさかそんな治療法でもあるまいが、見た目には結び目を作ろうとして思えた。


 渾身の力で悶え、のたうつ。それが傷口を広げ、後ろ半身を千切れさせた。

 半分ほどももげた頃合いで、別の意思を持ったように暴れ始めたが、完全に分かれてしばらくすると動かなくなった。


 前半身は、生きることを諦めない。偉浪ウェイランが挑発し、破浪ポーランが百足の体長を短くしていく。

 やがて元の五分の一に刻まれ、前進さえままならなくなっても。百足の大顎は偉浪ウェイランを切り裂こうとし続けた。


「もういい。やめよう?」


 春海チュンハイは高く声を上げ、安らかに眠る祈りを捧げた。


「生まれ出づるは始徳神サイドの定め。生きる道は生徳神シィドの導き。道の終わりは終徳神スゥドの慈しみ。眠る時が来たのです、しがらみを解き、身を任せなさい」


 最期の足掻きに、百足は暴れた。何をどう、と明確な意志は感じられない。ただただ大顎を振り回し、残った体躯をうねらせ、何に触れることもない脚を掻く。


 啼き声は聞こえなかった。しかし女が、百足の頭が涙を流す。

 顎の動きとまた別に、泣き喚く形で口が動いた。


 (何? 言って、伝えたいことがあるなら)

 祈りの言葉を繰り返し、胸の内で願った。女の気持ちを知りたいと。


 けれども叶わなかった。

 少しずつ、百足は動きを止めていった。後ろのほうの脚から、一本ずつ。連れて節の一つずつが、おもりとなって地面へ落ちる。


 残るは頭部のみとなり、ようやく大顎も止まった。

 声なく叫ぶ女の口と、怒りの冷めぬ眼と。それだけが恨みを訴え続けた。


 (天に昇るのか、冥土で地に還るのか。私には分からないけど、もう休んで)

 死者の行く世界は二つ。どちらであれ、もう苦しむ必要はない。父に教わった死後の光景を思い浮かべ、春海チュンハイは祈りを終えた。


安息アンジィを」


 女は泣いた。春海チュンハイには聞こえた。空耳だったかもしれないが、「ありがとう」と。


 女の目が閉じ、持ち上がっていた百足の頭部が地に落ちる。と、天界の門シャンタンに向け帯が伸びた。


 白一色の虹が架かった。そう言うのが、おそらく事実に近い。

 繋がった白い帯は、すぐに百足の側から離れ、門へと吸い込まれて消えた。

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