第17話:天界の門
「ふっ! ふぅっ!」
途切れることなく、
背丈の倍ほども長い百足は、主に大顎を使う。しかし噛みつくだけでなく、突き、薙ぎ払う選択肢も織り交ぜた。
「きえぇぇぇ」
百足が啼いた。
いや啼かないはずだが、
(人の——顔を持っているから?)
尋常の百足とは違う。
けれどやはり、気になった。
百足の頭にある女の顔は、目を剥き怒りの形相をする。
食事の邪魔をされたから。とも思えるが、そうではないと感じてならない。
「あの
ただの思い込みかも。あれは魔物で、たまたまあの姿に生まれただけで、不憫と思うほうがおかしいのかも。
かも、かも、と否定の根拠はいくらでもあった。だが血走った眼を遠目に覗き、追いかけていると、
「私が楽にしてあげる」
呟くと、手の震えが止まった。もう怖くはなかった。
あれは恐ろしい敵でなく、神の導きを求める迷った魂だ。
それなら手を差し伸べる。道に迷い、不安で泣きじゃくるのは子どもの特権ではない。そんな相手に、何を恐れる必要があるものか。
「覇っ!」
振り下ろした手斧が、いとも簡単に百足の腹を捉えた。
草色の飛沫が撥ね、百足の前半身は急旋回を行った。するとまた「きえぇぇ」と、悲しげに啼く。
階段と回り縁と、左右へ開く表扉を備えた門。
言ってしまえば、僧院の建物の入り口を小さくした模型だ。聞くところでは皇帝の館も同じ造りらしいが。
そっと、素早く、掛け金を外して扉を開く。
中には何もない。扉しかないのだから、当たり前に向こう側が見えるだけ。
今は百足が門へ収まるように向けた。両手を合わせ、祈り、その時を待つ。
「相手は俺だ!」
大鉈が百足の後ろ頭を殴りつけた。腹に風穴を空けた
「きえぇぇ」
百足も目を回すのだろうか。ふらふらと前半身の揺れる姿が、まるで酔っ払いだ。
それでも
明らかに動作を鈍くし百足が、大顎を翳して襲いかかる。
長い長い胴体を存分に縮め、一気に伸ばした刺突。最初の俊敏性があれば届いたかもしれない。
だが
傷つけるより、誘導が狙いのようだ。追いつこうとする百足を、反対の壁ぎわへ誘う。
すると後ろから近づいた
「きえっきえぇぇ」
桶に何杯分も、体液が溢れる。痛みで腹を抱える人間のごとく、百足は自身へ絡みついた。
傷口を結べば流血が止まる。まさかそんな治療法でもあるまいが、見た目には結び目を作ろうとして思えた。
渾身の力で悶え、のたうつ。それが傷口を広げ、後ろ半身を千切れさせた。
半分ほどももげた頃合いで、別の意思を持ったように暴れ始めたが、完全に分かれてしばらくすると動かなくなった。
前半身は、生きることを諦めない。
やがて元の五分の一に刻まれ、前進さえままならなくなっても。百足の大顎は
「もういい。やめよう?」
「生まれ出づるは
最期の足掻きに、百足は暴れた。何をどう、と明確な意志は感じられない。ただただ大顎を振り回し、残った体躯をうねらせ、何に触れることもない脚を掻く。
啼き声は聞こえなかった。しかし女が、百足の頭が涙を流す。
顎の動きとまた別に、泣き喚く形で口が動いた。
(何? 言って、伝えたいことがあるなら)
祈りの言葉を繰り返し、胸の内で願った。女の気持ちを知りたいと。
けれども叶わなかった。
少しずつ、百足は動きを止めていった。後ろのほうの脚から、一本ずつ。連れて節の一つずつが、
残るは頭部のみとなり、ようやく大顎も止まった。
声なく叫ぶ女の口と、怒りの冷めぬ眼と。それだけが恨みを訴え続けた。
(天に昇るのか、冥土で地に還るのか。私には分からないけど、もう休んで)
死者の行く世界は二つ。どちらであれ、もう苦しむ必要はない。父に教わった死後の光景を思い浮かべ、
「
女は泣いた。
女の目が閉じ、持ち上がっていた百足の頭部が地に落ちる。と、
白一色の虹が架かった。そう言うのが、おそらく事実に近い。
繋がった白い帯は、すぐに百足の側から離れ、門へと吸い込まれて消えた。
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