第16話:屍を喰らう者

 我が身を以て体感させるため、と破浪ポーランは言った。荒療治だが、必要分の緊張感を得るのに有効だったと春海チュンハイも認めざるを得ない。

 しかしそれならば、最初の一度だけで良いはずだ。


 あれから後、これから先、どこにどんな危険があるか。破浪ポーラン親子を巻き込むような、重大なものは教わっておくべきだろう。

 慣れなければ見分けられない。他ならぬ彼が、そう言ったのだから。


「無理だよ。どこに罠があるか、俺たちも知らない」


 (やっぱり)

 数え切れぬほど迷宮に潜ってきた者が、罠の位置も把握していない。おかしな話だが、春海チュンハイには頷けた。


 おそらく破浪ポーランは、次にこんなことを言うはずだ。潜るごと、どんな罠も新しく設置し直されている。


「入るたびに、位置も種類も違うんだ。矢を射るのだって、弓のへたれてたことはない」

「それは屍や、持ち物もってことよね。誰かが片付けてなきゃ、こんなに綺麗なはずないもの」


 形のある物ならまだいい。血液を含む体液が付着した時、すぐに洗い流さないと痕跡が残る。

 見てきた限り、染みの一つ、着物の端切れさえ見かけなかった。定期的に、しかも恐ろしく完璧な手腕と潔癖さを発揮する、管理人が居るとしか思えない。


 進むにつれ、腐臭が強くなっていく。それは人が屍となって、直ちに消え失せるのでないと示している。

 そも、そうでなければ破浪ポーランの生業も成立しないが。


「誰か、ね」


 苦笑混じりの鼻息が、春海チュンハイの後ろ数歩から聞こえた。振り返らずとも、腰から手斧を抜いたのも分かる。


 行く先から届くものが、臭いだけでなくなった。かちかちと、鉄のような硬い物の音が聞こえ始める。

 どこかで聞き覚えのある気もした。

 (鎌?)


 そう。草刈りをした時、刃先を誤って石にぶつけたのと似ている。

 だがそれなら、絡み合って聞こえるもう一つの音は何か。


 みぢみぢ。みぢみぢ。

 たとえば締めた魚のような、水気を含んだ物体が臼で潰されている。音から素直に妄想されるのは、そういう光景だった。


 迷宮の暗がり。そんな行為を見かけるのも、ある意味で怖いと春海チュンハイは思う。

 妄想の通りなら、後で話の種くらいにはなったろう。言ってしまえば、笑い話にもだ。


 それなら良かった。面白いことを考える娘と、酔客から褒められたかもしれない。

 事実が妄想に勝るとは思わなかった。


「ねえ、あれが……?」

「あれさ」


 まだはっきりと、細部までは見分けられない。たしかなのは、そこに何かが居ること。

 長い帯の風に舞うがごとく、なめらかにうねる胴体が、通路の上から下までを埋め尽くした。


 屍を喰らっているのだろう。長大な体躯の端が、地面に向けて何度も突き入れられる。

 衝突の音はほとんどなく、みぢと咀嚼音が春海チュンハイの耳を穢した。


 先頭の偉浪ウェイランが足を止める。腰に提げていた大鉈は既に抜かれ、仕上げとばかり、握りに唾を吐きかけた。


 春海チュンハイも焚き付けを割るのに鉈を使う。手のひら一つ分のそれに比べ、偉浪ウェイランの鉈は倍の長さと倍の厚さを備えた。


 黒々した鉄の塊が、軽々振り上げられる。「おい」と父親のひと声。間髪入れず、息子は「いつでも」と。

 準備万端。春海チュンハイも、同じくあろうとした。


 だが、そうはいかなかった。

 まずは背負い袋を肩から外し、地面に降ろす。たったそれだけのことに、いくらも時間がかかる。

 言うことを聞かないのだ。手が震え、まったく思い通りに動かない。


「ふっ!」


 鋭く気合いを吐き、偉浪ウェイランが足を踏み出す。頭上へ大鉈を掲げたまま、普通に歩く速度で間合いを縮める。

 と、長くうねる魔物の動きが止まった。


 まだ判然としない頭がこちらを向き、きっと偉浪ウェイランを敵と見定めた。

 ぎちぎちと威嚇するのは、身体のどこを鳴らしているやら。蛇であるなら、ファンと同じ仲間か。


ぁっ!」


 雄叫びが上がる。偉浪ウェイランの挑発に、魔物が地を這う。叩きつけた尻尾は、確実に地面へ罅を入れた。


 右へ左へ蛇行し、飛びかかった魔物の姿が春海チュンハイの目にも映る。

 咀嚼と威嚇。おぞましい音を立てたのは、口腔から伸びる湾曲した顎だろう。左右一対、偉浪ウェイランの命を刈り取ろうと開いては閉じを繰り返す。


 偉浪ウェイランを取り囲もうとする胴体は、いくつもの節が繋がった。僅かな灯りが漆黒の艶を生み、それは金属の光沢と酷似した。

 さらには節の一つずつへ二本、やはり節くれだった脚が蠢く。総数を知るのは難しい、無数と言って苦情もなかろう。


「なにこれ。なんなの!」

「見ての通りさ。俺も父さんを手伝うから、きみは無理をしないで」


 破浪ポーランが脇を抜けて進む。棺桶を牽いたまま。

 春海チュンハイの背負い袋は、ようやく地面で口を開いたところだ。


「見ての、ってどこを見てよ!」


 昂ぶった自分の叫喚に苛々とする。乱れた感情をどうして治すか、破浪ポーランに八つ当たりするしかないことも。


 見て。

 十人が十人、この魔物を巨大な百足むかでと断じるはずだ。ただし見てくれの、九割までを。


 残りが違えば、これは何になるのか。分量を以て、単純に九割を主として良いとは思えなかった。

 百足の胴体、百足の大顎。それらを備えた頭は、長い黒髪を振り乱す人間の女だ。

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