第14話:迷宮の洗礼

「冥土って?」


 偉浪ウェイランに追いつくと、破浪ポーラン春海チュンハイの後ろへ戻る。

 どうやらこの順番を守って進むようだ。


「護兵に言わせると、月に百人くらいは新しい人が来るらしいよ。でも新しい人だ、って俺が思うのは二、三人かな」


 挑戦者の数を水増ししても、護兵に益はないはず。すると九割以上の者は、破浪ポーランと顔を合わせる前に姿を消すらしい。それはたまたま、出くわさないだけの可能性もあるが。


「――故郷へ戻ったのかも」

「だね。何カ月か経って、続いてるなって人は一人居るかどうか。それくらいになれば、帰ったって聞くこともあるよ」


 諦めたのなら、それがいいと思った。迷宮へ入るのは、銭稼ぎのためのはず。ならば、絶対にここでなければ、という話でない。

 (他に方法はいくらでもあるわ。私と違って)

 ただし今も、死んだ者のところへ向かっている。死者の数が途方もないのは、おそらく現実だ。


「入り口まで戻れた人が書いた。にしては、おかしいか」


 もうこんな場所から逃げ出そう。その前に後から来る誰かに警告をしよう。ということかと考えたが、それならようこそとは書くまい。

 春海チュンハイなら、命のあるうちに家へ帰れとか、無謀は勇気でないとか。そんなことを書く気がした。


「ある程度まで進めた人が書いたんだろうね。探索者タンソウには多いよ、自分はお前らみたいに弱くないって考える人」

「勲章ってこと?」

「そんな感じ」


 (どうしてそういう思考になるんだろう)

 長幼、軍敬、礼尊を心構えとするのがジンの民だ。

 歳上の人を、国や民に尽くして戦う人を、周り全ての人を。礼節を持って敬い、言葉に耳を傾ける。


 仮にその気持ちがないとしても。危険極まりない場所なら、どんな人とも友好的に接したほうが得なはずだ。

 荒々しくも猛々しい文字を思い返し、気が重くなる。


「まさか私を脅かそうとしてる? 危険だから帰れって」


 どんな顔で答えるか、少しだけ振り返ってみた。

 出会って間もないが、表情の豊かでないほうとは分かった。それだけに腹芸をしたとしても、顔をごまかす技術は持たないと思う。


「ん? ああ、せっかく綺麗な肌をしてるのにとは思うよ。きみだけは死なせない、とか白々しすぎて冗談にもならないし」


 まさかこの脈絡で、世辞を言われるとは思わなかった。それならそれで、脅し文句と混ぜるのはやめてほしいが。


 しかしどちらにせよ、愛だの恋だのの対象でない相手から言われても、特に感じることはない。

 愛だの恋だのの対象を持った経験もなかったけれど。


「そ、そう。ありがとう。でも私、諦める選択肢はないから」

「うん、俺は諦めた」


 街の一区画分も進んだろうか。破浪ポーランに表情と呼べるものは既になかった。

 最初に見かけた時の、しかめた顔に近しい。迷宮での時間が積もれば、彼自身が屍のような、屍運びの面構えになるのか。


 油断なく四方八方へ視線を向けつつ世辞を吐くなど、どういう神経だろう。他者を見下すのとは違った意味で、理解が及ばない。


 やがて歩き方も、あの時のものに変わった。一歩ずつを探るように地面へ置き、さらに前へ滑らすことで前進する。

 普通に歩く倍。いやさ四倍ほども時間をかける動きを、破浪ポーラン偉浪ウェイランはそっくりに繰り返す。


「あの。私もそうしたほうがいい?」

「いや、いい。下手にやると振動や音で魔物を呼び寄せる。でも父さんか俺の進んだところだけを歩いて」


 なるほど。と頷いたと同時、次の疑問が浮かぶ。いまだ魔物の気配はないが、春海チュンハイに気づけないだけかもしれない。

 何に気を配るべきか、分からないことも分からないのが付け入られる隙に感じる。


「声は?」


 今さらに潜めて問う。急な落差に聞きそびれたか、破浪ポーランは「うん?」と目を向けた。

 しかし彼の声は、いつもより僅か小さいかなという程度。聞き取りにくさはない。


「声よ」

「声? ああ、声の大きさか。普通に喋る分には大丈夫。なんでかって言われると、説明が難しい」

「そう、分かった」


 春海チュンハイが魔物を呼べば、当然に破浪ポーランたちにも危険だ。それを嘘や冗談で答えはしまい。安心して声量を元に戻す。


 しかしいつ、魔物と出遭うのだろう。皇都で聞いた噂には、地面も見えないほど魔物で埋め尽くされている、というのもあった。

 さすがに信じなかったが、逆にこれほどないものとも思わなかった。


 (出るなら早く出て。怖いじゃない)

 肩透かしと侮ってはいない。来ると分かっているものが、いつまでもないのは胸の重みになった。


 ゆっくり、着実に。五歩先を行く偉浪ウェイランの足元を見つめ、進み続ける。

 そうしていると、歩くだけが能の機巧からくりになったようで、いつ叩き壊されるか不安が膨れた。


 ——と。

 偉浪ウェイランの足が、突如として向きを変えた。

 通路は依然、まっすぐだ。ここまで真ん中を進んでいたものが、左の壁に寄り添う。


 (何かあった?)

 春海チュンハイの意識は、変化の理由を求めた。見た目、音、におい。

 なぜ進む場所を変えたか、原因を理解したかった。でなければ自分での対処が、いつまでも叶わない。


 赤黒い地面、壁。どこをどう切り取り、入れ替えたとしても、気づきようもないほど同じに見える。

 誰かがたった今、掃除したてのように塵一つ落ちてもいない。


 天井も同じ。どこが違うか、まるで分からなかった。それこそ貼り付いた砂粒の順序でも見分けたかと勘繰りたくなる。


 闇雲に視線を散らし、偉浪ウェイランがまた一歩を進むのと同時に春海チュンハイも足を踏み出す。

 歩き方を真似る必要はないと言われた。だから普通に、いつも通り。


 革のくつの底が地面に触れる。自然に歩く動作で、春海チュンハイの自重はそちらの足へ寄りかかる。

 陶器のごとく硬い地面——に見えた物は、ほんの一瞬も支えない。


 羽目板を破ったでもなく、土だけで作った板が脆く崩れた。

 (落ちる——!)

 咄嗟に手を伸ばしても、向こう岸へは一人分足らない。


 そうだ、偉浪ウェイランの後を着いていかなかった。理屈を知るより、怪我をしないほうが先だろうに。

 膝までの落ちる時間で、それだけが頭をよぎる。時の流れが粘っこく、落下の驚きと恐怖がいつまでも続きそうに思えた。


 足の下には暗い穴が深く広がる。ご丁寧にも、数え切れない鉄の針も備えられた。

 怪我では済まない。

 こんなところで死ぬわけにいかなかった。使命を果たせないにしても、これほど間抜けな死に方があるものか。


 後ろを向けば、つかまる地面はすぐそこだ。身体を捻ろうとしたが、宙にあってはうまくいかなかった。


「ひいっ!」


 己の悲鳴が耳に届き、時の流れが戻った。水へ入ったのとも違う浮遊感。臓腑の浮き上がる気色の悪さが、おののきに拍車をかけた。

 天を舞う鳥は、こんな心地だろうか。だとしたら御免こうむる。


「い?」


 願いが通じたやら、通じなかったやら。春海チュンハイの身体は落下の速度をゼロにした。

 (飛んで……)

 いるはずがない。首の後ろを、誰かが摘んでいた。それは破浪ポーラン以外にあるはずがなく、彼はゆっくり春海チュンハイを吊り上げた。


「気をつけないとこうなる」

「……ごめんなさい。お父様が何を避けたのか気になって」


 両足が着くように下ろしてもらったが、力が抜けた。膝から崩れ落ち、春海チュンハイは尻餅をつく。


「責めてないよ。死にかけたら一発で身に沁みると思って、分かってたけど言わなかった。見分けようなんて、すぐには無理だよ。慣れないとね」

「慣れ、ね」


 そういう問題か。

 慣れと言うなら、コツのようなものはあるはずだ。教えてほしかったがやめておいた。

 この体たらくで図々しいと思うのが理由の一つ。もう一つは、さらに喫緊の質問ができた。


 くすくす。

 けたけた。

 ふふふふふ。

 人の笑声が、そこらじゅうに響き渡る。男も女も、子どもも老人も、大勢がてんで勝手に笑っていた。


「この声、何?」


 どれだけ見回しても、ずっと続く通路に変化はなかった。いくらか湾曲した箇所もあったが、概ねまっすぐだった。これだけの人数が隠れ潜む場所はない。


「さあ、俺も正体は知らない。でも迷宮ここじゃ、よくあることさ」

「——あ。普通に喋るくらいはって」


 物音を立てれば魔物を呼ぶ。だのに話すのは構わない。その矛盾の答えがこれかと問うた。

 破浪ポーランは「その通り」と、なんでもないように頷いた。

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