第13話:金魚

 再び、迷宮へ至る鉄門の前に立つ。

 広場には屋台の姿が消え、人の姿は迷宮に出入りする者か、飲んだくれた者か。


 春海チュンハイを丸ごとくべられそうな篝火が、左右から門を照らす。その先には一本の炬火たいまつさえなく、照らされた足元と闇に染まった地面とがくっきり分かれた。

 どこまでも永遠に底のない落とし穴。

 あるいは侵入を拒む、漆黒の壁。


 門の向こうへ続く景色を、春海チュンハイはそう感じた。三人が横並びで、ちょうどゆったり進めるほどの通路。それが同じ幅で続く様は、誰がこんな物を拵えたか考えずにいられない。


 はたまた、と最後に妄想したものが、最も春海チュンハイをぞっとさせた。

 (迷宮って名前の化け物の口に、入っていくみたい)

 目を、逸らした。天幕を見たが、中を窺えない。門の脇に立つ数人の護兵にも、祝符を買った護兵の姿は見えなかった。


 国や民のために戦う者を敬うべし。軍敬ジュンジンの精神は長幼と並び、ジンでは当然の心構えだ。

 春海チュンハイもその通り異論はない。しかし返答や態度に困らなくて良いことに、自然と和らいだ息が漏れた。


偉浪ウェイランだ」


 槍を交叉させた護兵に名乗る。偉浪ウェイランに酔っ払いの気配はなくなり、息子とよく似た背格好が、後ろからでは見誤りそうだ。


 少しだけ父親が細身に見えるのは、破浪ポーランの怠惰ではないだろう。聞けば四十八という年齢が、肉を付けにくくしていると見えた。


 護兵が槍を引き、別の護兵がかんぬきを抜く。偉浪ウェイランは左右へ開く真ん中に両手をあてがい、押し開いた。

 無造作に、広場の続きをただ歩くがごとく、偉浪ウェイランは進む。事実としてそうだが、気構えや緊張をまるで感じさせない。


 溜まってもない唾を春海チュンハイは飲み込む。破浪ポーランに軽く背中を押され、用心深く見回しながら進んだ。

 門を抜けてすぐ、棺桶に付いた車輪の音が硬質に変わる。不思議に思い、足の下を蹴りつけてみた。


 硬い。門のあちらとこちら、見分けがつかないのに。砂粒を混ぜて焼いた、陶器のようだった。


「まだ迷宮に入ってないよ」

「えっ、まだ?」


 速まった胸の鼓動に感づいたか。破浪ポーランの声に振り向く。いつの間にか、彼は手に灯りを持っていた。

 鉄の筒が、口をこちらに向けている。筒の真ん中、炎が宙へ浮く形で燃え盛った。


「それ、私が持つ?」


 灯籠と呼んでいいものか、見たことのない形だ。しかしさておき、斧を振るう破浪ポーランより、自分が持つほうが良いだろう。

 そう思い、春海チュンハイは手を差し出す。けれど彼の首は、横に振られた。


「いや、大丈夫。迷宮に入るまでだよ」

「そうなの?」


 まだ迷宮に入っていない。告げられたばかりだが、するとここはどこか。

 左右に屹立する壁は、少なくとも灯籠の光より高くまで続く。だが真上に、星が見えた。


「夜、魔物が活発になると聞いたわ」


 なぜ迷宮が生まれたか。疑問に思わぬ人もないだろうが、真実に辿り着いた人も居ない。

 それより己らの安全に関わる問いを優先させた。


「今から入って大丈夫か? 迷宮の中は、いつも夜だよ」


 もたもたしていれば、偉浪ウェイランに置いていかれる。脚を早めながらも、破浪ポーランの答えは明快だった。


「昼を選んだとして、どうせ中で何日も過ごすしね」

「——うん、納得した」


 長く無精髭の伸びた双龍兄弟や、破浪ポーランの揃えた準備物を見て、数日をかける想像はついていた。今はうっかり忘れていたのを、知らぬふりでごまかす。


 それにしても、一つ覚悟するたびに飲んでいては、唾の分泌が間に合わない。妄想をして身構えるのは、もう十分だ。

 (早く現実を見せて)

 などと言ったところで、歩む距離が縮まりはしない——はずだが、行く先に灯りが見えた。


「誰か居る?」


 左右の壁と同じ物が、通路を塞いでいた。ただしその手前が、幅を倍に膨らませて広々としている。

 さらにここまでの通路と同じ幅の、今度は天井のある洞窟が、奥へ続いた。


 いよいよここが、迷宮の入り口らしい。

 そんな場所で茶屋でも営むのか。と思うほど艶やかな、紅色の着物が浮かび上がった。


 不思議なこともあるものだ。着物の女を照らすのは、その手に提げた灯籠の光。昔ながらの、布を張った胴体に蝋燭を仕込んだ物だが、やけに明るい。


 桃色の地に、やはり紅色の牡丹が描かれている。女はすらと背が高く、真白な頬、切れ長の目に青い瞳。

 灯籠一つで、これほどはっきり見えるものか。それにまっすぐな通路の途中、この女にも灯りにも、まったく気づかなかった。


「冥土の入り口へ、よくお越しになられました。二度と地上へ戻れぬ覚悟はおありでしょうか?」


 温く淀む夜風の中、凍えた声で女は口を利く。鉄の風鈴に似ていると思った。

 春海チュンハイと同年、いやもう少し上か。儚く笑う薄い唇だけが、いやに生々しく赤い。


 (この人、生きてる?)

 当人の言う通り、冥土の住人かもしれない。たしかめるのに手っ取り早く、女の手に触れてみた。


「何か?」


 笑みを深め、女は首を傾げた。そこへないかのように薄く透けた、しゃの生地で覆う纏め髪が淑やかで美しい。


「いえ、ごめんなさい。肌が綺麗だったから」

「あら、ありがとうございます。あなたもお若くて、とても可愛らしいわ。でも髪をきちんとすれば、もっといい」


 女の手は冷たかった。だがきっと冷え性なのだと思う程度、人の体温はそこにある。

 その手が、薄青の紗を差し出す。どうやら彼女と同じようにしろと、世話焼きらしい。


「ありがとう。余裕があったら使わせていただきます」

「ええ。いつも美しくあるのが女の誇りですものね」

 

 満足そうに頷く女。「そうですね」と、春海チュンハイも頷き返す。

 身だしなみ以上に着飾るのを、意識したことがなかった。しかし厭味を感じさせぬ言葉に、わざわざ反論する気持ちも起きない。


金魚ジンユ、行ってくるよ」


 ちょっと手を上げ、破浪ポーランが脇を抜けて行く。先を見れば、もう偉浪ウェイランが数十歩も先に見えた。「では」と金魚ジンユに声をかけ、春海チュンハイは走る。初の侵入が慌ただしくなったが、かしこまるものでもなかろう。


 それより、偉浪ウェイランの背を目指す横目に、書き殴られた文字が映った。

 それはこうだ。二度と帰れぬ冥土へようこそ、と。金魚ジンユの言葉と同じ文句が。

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