第三幕:地の底へ

第12話:偉浪の悪夢

「なんで俺の言うことを聞かねえ!」


 ボロ小屋へ戻った途端、偉浪ウェイランが叫んだ。木戸を開けた破浪ポーランの後ろで、春海チュンハイはビクッと目を見張る。


 酒瓶でも飛んでくるか。巨大な背中からはみ出ぬよう、身を縮めた。

 が、それ以上はなかった。先より格段におとなしくなった、いびきが聞こえるだけだ。


「まだ寝てらっしゃるの?」

「ああ、うん。たぶん夢の中で、俺がやらかしたんだよ。夢じゃなくても叱られてばかりさ」


 入った奥に、背負い袋が放ってあった。破浪ポーランは父親に構わず、苦笑でそちらへ向かう。買った物を整理し、出かける準備が優先のようだ。


「ねえ。うなされてる」


 やけに抑揚のあるいびきと思った。気になって聞いてみれば、半分は呻き声だ。

 しかめた表情は、安眠と程遠い。春海チュンハイの母が偏頭痛に苦しむ姿を思い出す。


「それもいつもさ。心配だけどね、準備の済む前に起こすと怒るんだ。すぐだよ」

「そうなの?」


 いつも一緒の息子が言うのだ、それが良いのだろう。

 事情を知らぬ者が安易に手を出しては怪我のもと。と、これも母の言葉。夢の中のできごとを好転させる方法も知らなかった。


 すると春海チュンハイには、やることがない。そもそも旅姿で、改めて用意をする何ごともないのだから。

 木戸を入ったところに突っ立ち、苦しげな偉浪ウェイランを、はらはら見つめる。


 破浪ポーランはと言えば、背負い袋の中身を筵へぶち撒けた。てきぱき、と評して良い動きだが、持ち物の一つずつを点検しようというらしい。


 魔物ばかりの世界へ乗り込むのだ、それは必要と思う。けれども偉浪ウェイランの呻きは続き、何かつかみかかるように腕も暴れ始めた。


「——うん」


 誰にともなく、春海チュンハイは頷く。歩み寄り、偉浪ウェイランの傍へ両膝を突いたのは、そうしようと意識してのことでなかった。


 おかで跳ねる魚を追うように、筋骨逞しい腕をつかむ。指は猛禽の足のごとく、頑強に強張っていた。

 無理に解こうとはしない。自身の両手に挟み、指の一本ずつを優しく撫でた。


 厚く張った氷を叩き割れば、己が濡れる。赤子を抱くように、手水の氷を持ち上げた母の姿を思い出しつつ。


「ん……」


 血の気の引いた氷細工が、人の肌に立ち戻る。少しずつ、一方の手が柔らかくなったころ、偉浪ウェイランの全身から力が抜けた。


「お目覚めですか」


 ゆっくり、まぶたが開いていく。光を嫌い、時に後戻りしつつ。やがて明るい茶の瞳が、春海チュンハイの目にはっきりと映った。


「お前!」


 さすが、と言うべきだろう。跳ね起きた偉浪ウェイランの動作を、春海チュンハイはまるで追えなかった。

 気づいた時には両の肩を押さえられ、何だか詰問されていた。


「生きて——」


 血走った眼を、怖いと思わない。春海チュンハイを、いや別の誰かに向けられた、強い感情の篭もった視線を。


「あ」


 二度ほど揺すぶり、夢の世界から抜け出たらしい。幻を追い払いたいのか、しきりに目を瞬かせた。

 しかし現実の春海チュンハイが、消えてやることはできない。


「誰だ」


 呂律の回った口から、低い旋律が落ちた。遊山に連れられた大滝の、水面を打つ様を思わせる。


「あの、私、春海チュンハイです」

春海チュンハイ?」


 それはまず、何者か聞くに決まっている。当たり前の答えに詰まり、拝礼でごまかした。

 偉浪ウェイランの目が訝しく睨む。同時に、肩へ触れた手が力なく垂れた。


「お客さんだよ。俺が頼んだんだ、起こしてくれって」

「客だァ?」


 息子に振り返り、偉浪ウェイランの声に棘が生えた。

 (破浪ポーランを叱るの?)

 聞いていたが、彼に矛先が向いて驚いた。起こしたのは私なのに、と。


「あと、別にもう一つ。三階層だよ」

「三階か。素人が油断しやがって」


 続けて、今度は本当の依頼について。偉浪ウェイランは気に入らぬ風でありながら、まともな返答をする。


 破浪ポーランの言った怒るとは、これくらいのことか。

 彼を見ると、信じられないという目で父親を凝視した。やはり異例のようだが、波風穏やかなら越したことはない。


「女」

「あっ。は、はいっ」


 話す相手は破浪ポーランに移った。油断した春海チュンハイは、呼びかけに心臓を跳ねさせた。


「着いてくるのは構わねェ。だが怪我も命も、お前の持ち分だ。助けてもらおうなんて、考えるんじゃねェ」


 それが嫌なら、おとなしく地上で待っていろ。偉浪ウェイランの目に、脅しの色が滲む。

 けれど春海チュンハイは怯まない。怯む理由がなかった。


「私、大丈夫です。自分を守るだけなら」


 共に迷宮へ入ると言って、魔物の存在を忘れてはいない。それなりの旅をしてきたのだ、危険に対する術は用意している。


 この町へ来て、まだ一度も降ろしていない背負い袋。春海チュンハイの背をまるきり見えなくする大きな物だが、それを指さして微笑んで見せた。

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