第11話:黒蔡一家

春海チュンハイ。聞いておくけど、本当に迷宮の中まで着いてくるんだね」


 門から少し離れた壁沿いに、雨風を防ぐ天幕が張られた。護兵の休憩所といったところだ。

 なぜか破浪ポーランはそこへ向かう。追い越しざま、問いを投げて。


「もちろんよ。あなたに逃げられたら、私は使命を果たせなくなるもの」


 天幕の入り口で、破浪ポーランは立ち止まる。細長い机が置かれ、その向こうへ椅子にかける護兵の姿があった。

 領主の兵士であり、治安を守る役目の護兵を前に、早く死んでほしいとは言えない。


 声を潜め、使命という言葉を強く発した。

 (そうよ。遥々、そのために来たの)

 自分の目的を、濃く思い描いた。年の初め、願いを墨で書くがごとく。胸の奥にしっかりと掲げる。


「分かった。使える物があったら買っておいて」


 破浪ポーランも淡々と、平たい口調で答えた。迷宮へ近づくと、この男はこうなるのだろうか。最初に顔を合わせた時の、死を背負った風を感じる。


 しかしそんな破浪ポーランも、役人の手続きからは逃れられないのかと思う。迷宮へ入るのに、いちいち申請が必要とは手間なことだ。


 そう考えたのは、細かく文字の書かれた布を護兵が取り出し、彼に渡したから。

 だが、違った。思いがけない品がそこにあって、春海チュンハイは悲鳴にも似て声を高くする。


祝符ツゥフゥじゃない!」


 僧が神に語りかける言葉は、人間同士で語らうのと異なる。祝符はそれを文字に起こしたものだが、特殊な作り方が必要で、そうそう見かける代物でなかった。


 修練を積んだ僧は祈りによって、現実に傷を癒やしたり、怯える人から恐怖を取り除いたりできる。

 その補助に用いると聞くが、春海チュンハイは使う場面を見たことがない。


「よく知ってるね」


 応じたのは、破浪ポーランに祝符を渡した護兵。三十過ぎと見えるが、手入れをしないだけの髭がだらしない。他の同僚は揃いの胸鎧を着こむ中、この護兵だけが地面へ放り投げている。


「見ない顔だし、しかも女と思ったが。その袂は僧侶だね。杭港ハンガンの僧院からは出払ったと思ったけど、それとも出稼ぎかい?」


 言葉遣いは柔らかかった。双龍兄弟と比べれば、雲泥の差だ。けれどどうも耳触りが悪い。

 視線も春海チュンハイの顔を見たのは最初だけで、あとは胸から腰の辺りを上下した。


「いえ私は——」


 相手は歳上で、兵士。即ち、戦うことが職業の男。長幼を重んじるジンにあって、春海チュンハイは逆らう言葉を持たない。


 何となく、おかしな態度とは感じた。けれど父母にも厳しく育てられた春海チュンハイの心に、不快を覚える道すじはなかった。


「名前は?」

春海チュンハイです」


 当の春海チュンハイより先に、答えたのは破浪ポーランの声。突然、斑に黒い壁が視界を塞ぎ、目をどうかしたかと驚いた。


「言う通り、初めて迷宮に入ります。今ある祝符を全部、見せてやってください」

「ちょっと破浪ポーラン、失礼よ」


 彼こそが護兵の正面に立っていたのだ、春海チュンハイの前へ割り込む必然性はなかった。

 太い腕に触れ、力を篭めた。が、立ち木を押すようで微動だにしない。


「へえ。十二階層となると、偉くなるもんだな。護兵に楯突くのか」

「偉くなんか。オレは祝符を見せてほしいと頼んだだけです」


 声を低くした二人が、どんな顔を突きつけあっているか。見えない春海チュンハイは、慌てて破浪ポーランの隣へ動く。


「あの。私——」


 ちら、と護兵の目が春海チュンハイを舐める。

 破浪ポーランは先んじて受け取った祝符を握りしめ、見上げて睨む護兵を冷ややかに見下ろした。


「おいおい、こちとら待ってんだよ。あんたらいつまで乳繰りあってんだい?」


 すぐ後ろで。それも首すじの付近から、女の声がした。

 怖気に背を強張らせ、春海チュンハイは横飛びに逃げる。


 空いた地面に、背の低い女が進み出た。平均的な春海チュンハイより、頭一つもだ。長くうねった黒髪が、水草のごとく宙を泳ぐ。

 女のさらに後ろへ、背を丸めた男が立っていた。「ひひっ」と咳き込むように笑い、女の隣へ進む。短く刈った頭が、好勝負の碁盤に見える。


「おい、今のはオレに言ったのか。黒蔡ヘイツァイ、女房にどんな躾けをしてる」


 言い分が気に食わなかったのだろう。護兵は眉をひそめ、男のほうに文句を言った。もしかすると女が、護兵よりもかなりの歳上だからかもだ。


「ひひっ。旦那、そりゃ勘違いってもんです。あたしの女房は、そこんところをきっちり分かってますからね。この木偶の坊と、世間知らずのお嬢ちゃんにです」


 黒蔡ヘイツァイと呼ばれた男は、老人めいて皺だらけの顔を、さらにくしゃっと縮めた。

 どう見ても媚を売った愛想笑いだが、護兵はまんざらでもなさそうに「ふん」と鼻息で答える。


「まあまあ破浪ポーラン、見ればまだ偉浪ウェイランも居ない。すぐに迷宮へ入ろうってんじゃないだろう? あたしら、ちょっとでも暇が惜しいんだ。順番を譲ってくんな」


 背を丸めていても、黒蔡ヘイツァイの頭は春海チュンハイと同じくらいにある。腕や脚の太さは、破浪ポーランにも劣らない。

 胸を張れば十分に偉丈夫と呼べる身体を、小さく小さく縮めようとして見えた。


「構わないよ」


 迷宮へ入るには祝符が欠かせないようだ。あっさり譲った破浪ポーランに礼も言わず、黒蔡ヘイツァイは二十枚をさっさと選んだ。


 代金は銀銭二十枚。そもそも売っているのなど初めて見たが、皇都でなら一枚とて買えないはずの額。


破浪ポーラン。お前だけは、からかっても精がないな。そんな調子でやってちゃ、いつか足を掬われるに違いないよ」


 ひひひっ、と。ひときわ高く笑った声が、耳にへばりつく。こっそり指先でこそげ落とし、春海チュンハイ黒蔡ヘイツァイ夫婦の背を見送った。


 鉄門の手前に、胸と腹までを鉄で鎧った男が立つ。頭にも鉄兜を載せ、どれだけの重量か想像するだけで肩が凝りそうだ。

 夫婦の連れらしく、合流すると何やら話し始めた。時折、こちらを向く視線が煩わしい。早く用件を済ませ、立ち去りたくなった。


黒蔡ヘイツァイ一家だよ。見ての通りの人たちさ」


 褒めてはいまいが、破浪ポーランは良し悪しの評価を口にしない。

 人として正しい、と春海チュンハイは頷く。


「ねえ破浪ポーラン。私、祝符を使ったことがないの。必要って言うなら、私に使えそうなのを選んでくれる?」

「えっ、そうなの?」


 またあれこれと、問いたいことが増えた。だがここ以外の場所がいい。

 だから祝符の選択を、破浪ポーランに頼んだ。早く済ませるためと、言った通りに選びようがなかった。


 意外そうな破浪ポーランの問い返しこそ、春海チュンハイには意外だ。しかしともかく、この場を離れよう。そういう意味で「お願い」と頼む。

 破浪ポーランも拒むことはない。いくらか迷う素振りを見せつつ、十枚を選び出す。


 銀銭十枚を払い、護兵の天幕に背を向ける。迷宮を隔てる鉄門に、黒蔡ヘイツァイ一家の姿はもはやなかった。

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