第10話:馴れ合い

「さてそろそろ、買い物を済ませないと」


 前置きなく言い、破浪ポーランの足も人混みへ向いた。

 すぐに追いかけようとして、春海チュンハイは福饅頭を思い出した。その質量に屈服した三分の二が、長椅子へ置いたままだ。


「ねえ待って」


 進もうとする美丈夫の手を、ぎゅっとつかむ。双龍兄弟とはまた違う、ごつごつした感触に覚えのある気がした。

 間違いなく初めてのはずだが、なんだろうと考えても正体が分からない。


「えっ。ど、どうした?」


 握った手を見つめていると、そのうち破浪ポーランが戸惑う声を上げた。


「ううん、別に。でもまたはぐれたら困るわ、手を繋いでいてもいいでしょ?」

「このまま? いやそれは。うん、構わないけど、どうかな」


 それは「どっち?」と、少しばかり語気を強めた。すると今度は破浪ポーランが、重なり合う互いの手を見つめた。

 しかしそうしながらも、彼の手がすり抜けようとする。逃さないよう、反対の手も加えた。


「……うん、分かった」

「ありがとう。福饅頭をしまうから待って」


 何か諦めたような、投げやりな首肯。さっきは腕の痺れるほど握ってくれたじゃないか、と非難したくなったが、同時にその気遣いに免じて言わずにおいた。


 背負い袋から畳んだズタ袋を取り出し、福饅頭を回収する。当然に手を離すこととなったが、感心にも彼の手は再びおとなしく握られた。


 人の形をした波へ、破浪ポーランは飛び込んだ。

 進むのも引く手も、いかにも力任せ。いかんせんこの船頭は、草原を前にした馬並み。いやさ馬そのものの気性を持つらしい。


 それで買う物と言えば、魚介の乾物や干し肉がほとんどだった。

 他にロープや灯明用の油。なんとも生活感に溢れる物ばかりだ。ただ迷宮へ入るのに必要と聞き、春海チュンハイも同じ物を買い揃える。


「これで終わり?」

「うん、後は迷宮の入り口だね」

「もう入るの?」


 通りの外れで見上げると、空は紺色に変わっていた。天道の後ろ髪が僅か、西の空に引っかかっている。

 時刻もそうだし、偉浪ウェイランがいない。今回は置いていくのかと思えば、破浪ポーランは首を横に振った。


「そこでしか買えないんだよ」

「へえ、そんな物が」


 迷宮へ入る者専用というらしい。

 鉈や斧、刀、それらの研ぎ師。鎧職人までも屋台を出すこの通りに、足らない物とは何か想像もつかなかった。


 牽かれるまま着いていくと、見覚えのある大通りへ出た。広場から僧院へ向かう道だ。

 カッカッ、と。髪に紛れたファンが、口を鳴らす。

 この蛇と二人、到着した時には、早ければ今日じゅうにも使命を果たすと意気込んでいた。


 それがなぜ、彼と共に買い物をしているのか。

 (私、良くない?)

 突然、罪悪感に襲われた。見知らぬ景色、これから何が起きるか、わくわくと心踊らせたのを否定できない。


 力強く、引きずっていく手。じっと眺め、十歩ほど進んだ。

 (駄目)

 何が。なぜ。

 春海チュンハイ自身、説明をできなかったが、おそらく直感と考えた。このままでは使命を果たせない。ゆえに握った手を引き剥がした。


「あれ?」


 一歩。行き過ぎた破浪ポーランが、振り返る。急いた動作は、春海チュンハイを案じたのだろう。

 彼の視線と気遣いから、目を逸らした。


「あの。そう、もうはぐれる心配はないから。手も痺れてきたし」

「ああ、そうなんだ。ごめんよ」


 空っぽの手を握って開いて、破浪ポーランは笑った。きっと自嘲に属するもので、彼にこの表情をする責任はない。

 だがこれをうまく話す自信もなかった。


「ごめんなさい。私の都合だから」


 と、謝罪でごまかすのが精一杯だ。


「ええ?」


 頭を掻く手と、声で。破浪ポーランは説明を求めた。しかし春海チュンハイは気づかぬふりで、彼の脇を追い越して進む。


「こっちでしょ?」


 と、振り返らず問いもした。

 破浪ポーランの返事はない。否定もされなかったので、構わず歩いた。

 (違ってたら言うはずよね)

 そう思うのも馴れ合いだろうか。自分で自分の思考に先回りするのは、どうにも疲れた。


 間もなく広場へ達したが、迷宮の入り口とやらは見当たらなかった。整然と三列に並んだ屋台が、奥へ向けてどれだけ続くやら。


 先の通りは毎日の買い物という雰囲気だったが、こちらは飯屋が多勢を占めた。香辛料や醤油の匂いが複雑に絡み合い、満腹のはずの食欲を揺り起こそうとする。


 客も地元の人間より、旅姿が多い。それに迷宮へ入ると思われる、屈強そうな男ども。

 後者はこの町へ長く滞在すると聞いたが、地元のうちに入るのか。疑問を覚えて、振り返った。


 破浪ポーランに問おうとしたのだ、実際に住む者としてどういう感覚かと。

 彼は二歩後ろに居た。春海チュンハイを一人にすることなく。逃げられないように監視の意味もあると、どこの阿呆が考えたのだったか。


「どうかした?」

「いえ、何も。こっちでいいのよね」

「もうすぐだよ」


 破浪ポーランの顔に、感情の偏りは読み取れなかった。何も考えていないのか、あえて無表情を作っているのか。

 どちらにせよ、春海チュンハイに好意的とは言えない。


 死んでもらう相手だが、嫌われて嬉しいとは思えなかった。

 しかし彼からすると、後腐れがないのかも。などと考え、巨大なため息を堪える間なく吐く羽目になる。


 そうして進むうち、屋台が途切れた。歩く人の姿も、背中の側ばかりに。

 さらにその先。視界の端から端を、石壁が塞いだ。春海チュンハイを十人ばかり重ねたほども高い。


 通り越す唯一の入り口は、護兵の目を光らす鉄門に違いない。

 破浪ポーランの腕ほども太い鉄柱と、春海チュンハイの腕ほどの鉄柵で拵えた門。


 (あれから先が、魔物の世界)

 思わず飲み込んだ唾が、喉を鳴らした。

 人の世界の常識が通用しない。と聞いてはいるものの、目の前にしてはただただ不気味としか思えなかった。

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