第二幕:迷宮都市の荒くれども

第7話:気遣う気持ち

 ジンの民である以上、国のために尽くす義務がある。ひとり一人が好きなことだけをしていれば、街も国も立ち行かない。

 だから破浪ポーランが死ぬことも、必要であり必然なのだ。


 出立前に聞いた父の言葉が、俯きかけた春海チュンハイの気持ちを上向かせた。

 民が国に尽くし、神様が感心と思えば良い神宣がある。反対も然り。

 受け取った義海イーハイが皇帝陛下にお伝えし、陛下は民に政治を行う。そうやって世界は円を描く。


 おさらいして、いびきの続くボロ小屋を睨む。春海チュンハイの目に、破浪ポーランは我がままとしか映らない。

 一旦の会話を終え、彼は小屋の中へ戻った。父親の偉浪ウェイランが目覚めた時、食べる物がなくては申しわけないと。


 親を敬う気持ちは正しい。ならば国を敬う気持ちも分かるはず、と思えてならない。

 この町だけでなく、国じゅうの人々が感謝するだろう。皇帝陛下から、金銭とは別の褒美があるかもしれない。

 そうなれば偉浪ウェイランも、我が息子はよくやったと感激する。


 思い描いた筋書きは、創作でなかった。この国にいくらでもある、普通の話だ。国の存亡がかかる、という部分が大きなだけで。

 それなのになぜ。と春海チュンハイは、今日何度目かも分からず首を傾げた。


 (あっ。みんなが感謝するって、あまり言ってなかったかも)

 ふっ、と思いついた。これを天啓と言うのかもしれない。

 たしか破浪ポーランは、何のためか分からないと言っていた。だから皇帝陛下を始めとした、身近な人たちすべてのことを話さなければいけなかった。


 自分の粗忽が恥ずかしく、春海チュンハイは辺りを見回した。ファンの他に誰も居ないのは分かっていたが、見られている気がして。

 すると視界を、長い黒髪が侵した。そろそろ手入れをして、結わなければ。


 となると買い物が必要だが、破浪ポーランから離れるわけにいかなかった。

 頓着のない素振りで、実は逃げ出す機会を窺っている可能性もある。


 卵が欲しかった。南の都とまで呼ばれる杭港ハンガンなら、売っているはずだ。

 どこだろうかと、見通せるはずもない街の喧騒へ目を凝らす。と、誰かがこちらへやって来るのが見えた。


 僧院でなく、広場に近いほうから。砂浜と土の地面の境を、なぞるように。

 それは男で、胸の全体を覆う革鎧を着けていた。町を守る護兵とは違う物だ。


 きっと迷宮に潜るのを生業にしている。ただそれにしては武器が見えない。迷宮を出れば不要なのかもしれないが。

 近づいた男は、頭からずぶ濡れだった。けれども鎧は乾いている。


 風呂へ入って、ろくに拭わずに来た。くらいしか理由に思い当たらないが、それでもおかしな話だ

 だからと、わざわざ訊ねはしない。破浪ポーランの商売を邪魔すれば、少しは神様の怒りが鎮まるかもと思ったけれど。


 男がボロ小屋へ入るまでには、どうも気持ちが固まらなかった。

 直ちにいびきが止まり、話し声に変わった。破浪ポーランもだが、客の男は極めて物静かに喋って、内容までは分からない。


 大した時間もかけず、男は出てきた。湯呑みに三杯の湯を沸かすくらいだ。

 春海チュンハイと真正面に顔が見合った。しかし視線はぶつからない。男の目は、虚ろに曇っていた。


 両手を合わせても、男が気づいた様子はなかった。いかにも屈強な、春海チュンハイより頭一つも背の高い男は、足をふらつかせながら来た道を戻る。


 見送る春海チュンハイの耳に、木の器の音が聞こえた。どうやら偉浪ウェイランが起きたらしい。


「行ってくるよ父さん」


 食事の続く中、破浪ポーランの声と共に木戸が開いた。


「お仕事?」

「いや、うん。そうだけど、まだだよ」


 肯定と否定とをして、破浪ポーランは歩く。先ほどの男の後を追う格好だが、偶然だろう。


「お買い物?」

「そうだよ。迷宮へ入るのにね」


 男は、大切な何かを喪った絶望に感情を砕かれていた。

 春海チュンハイには見慣れた表情の一つだが、無味乾燥でも居られなかった。


 にも関わらず、破浪ポーランからは何の感慨も伝わってこない。少なくとも憂いや悲しみの方向へは、僅かの傾きもないと見える。


 何を買うか、まだ見ぬ品物を楽しみに——とも見えない。

 代金らしき銀銭を手の内に放り投げ、しつこく西の空へ残った天道を見上げる。それさえ気の抜けた鼻息で済ませ、ぶつぶつ呟き始めたのは、やはり買う物の候補のようだ。


 (この人、何も感じないの?)

 そう評するのが、最も相応しかった。

 最初に言葉を交わして、ほんの幾ばく。その間に怒り、怖れ、悲しみがあったはずだ。

 普通に当たり前の・・・・・人間なら。


「聞いていい?」

「今さら春海チュンハイに遠慮されてもね」

「さっきの人はお客さんでしょ? たぶん仲間を死なせたとか」

「よく分かったね、その通りだよ」


 話しかけても、大股でどんどん進む。頭二つも丈の低い春海チュンハイは、半ば駆ける心持ちだ。


「その。もらい泣きとかしたことないの?」

「もらい泣き? ないかな」

「だって同じ迷宮に入る仲間なんでしょ。同情とか、自分に置き換えて怖がるとか」


 自害を迫る者の発言ではない。しかし問わずにはおれなかった。まともな人間の感覚とは思えなくて。


「ああ、そういう。そうだね、仲間というとちょっと違うけど。これから困るだろうな、とは思うよ。新しく相棒を見つけるのか、諦めて故郷へ帰るのか、どうするんだろうね」

「そうじゃなくて」


 最初に出てくるのは、かわいそうとか、憐れむ言葉だろうに。なぜそうでないのか、春海チュンハイの喉にざらっと荒れた心地がした。


「そうじゃないの?」

「いえ、そうじゃなくはないけど」

「うん? 一緒に悲しめってことかな。それなら悲しんだよ。でも俺には、あの人の相棒を生き返らせてはあげられない。頼まれた通り、愛用の何かを拾ってくるのが精々」


 春海チュンハイを顧みないのは、押し殺した感情を読み取らせないため。と思いたかった。

 だがそれには、破浪ポーランの声が乾きすぎている。


「それも失敗したら申しわけないしね。父さんと俺と、無事に行って帰るのが俺の同情かな」

「そんなの……」


 何を言っているか、分かる。理屈の上では正しいことも。

 春海チュンハイが言いたいのは、人として正しい感情を持たないのかだ。自害の件と同じく、伝わらないにも程がある。


「あれ、泣いてる?」

「泣いてなんかいません」


 嘘ではない。危うく涙を零しそうになっただけで。

 震える声を咳払いで治し、作戦を変更した。


「愛用の何かなの? 屍じゃないのね」

「うん、あの人は戻ってくるのに時間をかけすぎた。たぶんもう残ってない」


 残っていれば連れ帰る。と付け加えはあったが、気休め以上の言葉ではなかった。

 (私に使う気持ちがあるなら、あの人が先でしょ)

 などと言ってもまた、どういうことかと問い返されるに違いない。そう予測するだけでも、胸にちくちくと刺さるものがあった。


 黙って着いていくと、破浪ポーランから話しかけもしない。いくつか路地を抜け、突然の人ごみに呑みこまれても。

 春海チュンハイが両腕を伸ばした幅に、人の流れる川ができている。


 川底に当たる地面を蹴り、置いていった薄情者の姿を探した。

 見回せば、破浪ポーランに負けず劣らずの偉丈夫も多い。野兎のごとく跳ねても、人の急流に押し流されるだけだった。


 (私、どこへ連れていかれるの)

 焦って逃れようとしても、思う方向へ進めない。息苦しくもなり、本物の川のように溺れるかと思った。

 自分の足が地に着いているか、もはやそれもあやふやだ。


 どうしようもない。諦めて流れの緩やかなところまで行こう。

 思った途端、誰かの胸に激突した。


「あっ、ご、ごめんなさい!」


 頭突きをしたくらいの勢いで、春海チュンハイ自身も目まいがした。相手の顔も分からず、まずは謝る。

 すると返ってきたのは、知った声だ。


「こっちは危ないよ」

破浪ポーラン!」

「うん。欲しい物があるなら、連れて行くから。知らずに歩かないほうがいい」


 (心配してくれたの?)

 大きな流れに逆らい、破浪ポーランは突き進む。今度は春海チュンハイの腕を取り、引っ張って。

 案じてくれたかは、当然に読み取れない。


 開けた横道に出て、そこにある長椅子に春海チュンハイは座らされた。

 手を離されると、つかまれていた腕に血流が戻る。痺れたそこをさすり、ふうっと息を吐いた。


「福饅頭、食べる?」


 いきなり、もみの色の饅頭が突き出された。春海チュンハイが押し流される中、買ったらしい。

 小さな子どもでなし、こんな物で機嫌を取るつもりか。


 しかし厭とも思わない。破浪ポーランにも気遣いらしきものはあるということだ。


「いただくわ。腕の痺れが取れてからね」


 冗談のつもりだったが、破浪ポーランは首をひねった。腕を痺れさせるような何があったかと。

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