余聞

第6話:出立の前

 皇都において、春海チュンハイは父と母と暮らした。

 僧院という環境で、父母は春海チュンハイよりも僧を優先した。たとえ突然に訪ねてきた、物乞い同然の修行僧であっても。


 ではその次かと言えば、違う。

 僧院を訪ねてくる門徒があり、近所の世話になっている大人たちがあり、皇都の民全員があり、春海チュンハイへの配慮はその最後に回る。


 ただし不満を言ったことはない。子が自分一人でも、遊び相手に困らなかった。僧院に住む百人以上の僧の全員が、親戚のようなものだ。


「ねえねえ。あの屍は、どうしてあんなに苦しそうにしているの」


 ある時、祭壇に横たわった屍を見て問うた。

 安らかに眠るよう祈る僧たちの末席に、春海チュンハイも勝手に加わっていた。まだ七、八歳のころだ。


「飢えて死んだからだよ」

「飢えって何?」

「腹が減っても食べ物がなくて、身体が動かなくなるんだよ」


 今にして思えば罰当たりで、祈りを行うにも単純に邪魔だったろう。

 父か母に見つかれば大目玉だったが、祈りの真似ごとをする春海チュンハイに僧たちは優しかった。


 ましてあの時は、泣いてしまった。

 死してなお緊張した、首すじや腕の筋肉。何かをつかみ、毟り取ろうとする形で固まった手。

 苦痛に食いしばった歯。細く睨む眼。


 そういうものが、腹の減った先にあるという事実を恐ろしく思った。

 さすがに連れ出されたものの、やはり僧たちは叱らなかった。むしろ「飢えて死ぬ者を少なくできるような、きっと立派な人間になる」と褒めた。


 今の春海チュンハイは知っている。幼かったから優しくしてもらえ、おだてられただけだ。

 だが立派な僧になる、という気持ちの束石には十分だった。


 なぜ飢えるのか、なぜ不作や戦が起きるのか。僧院に住む限り、少なくとも春海チュンハイに関わりないのも知った。

 それは僧の最高位に就いた父のおかげで、街の平穏を守る皇帝陛下のおかげなのだと。


 ◆◆◆


 春海チュンハイの父は、名を義海イーハイという。決まりごとに厳格だが、その他に娘の望みを損ねることはしない。

 女の身で僧になると決めた時も、区別はしないとしか言われなかった。


 唯一の楽しみは、起床後すぐに飲む茶。ここ二年ほど、淹れる役目を春海チュンハイが担っていた。

 義海イーハイは日の出と共に起きるので、ちょうどに湯を沸かす。

 二人分の茶葉を入れた茶壺へ湯を溢れさせ、手桶にいっぱいの湯がなくなるまで茶壺の蓋へ浴びせ続ける。


 顔を洗い終わった義海イーハイの下へ、濃く抽出された茶を運ぶ。同時に母が、じっくりと炙った乳餅チーズを出す。

 それが毎朝の日課だ。


「父上、今日は神宣の日ですね」


 破浪ポーランの名を聞いた日も同じだった。うまそうに乳餅チーズを食う義海イーハイを前に、母と二人並んで立つ。

 ただ待つのも気まずく、あの日は父の仕事について問うた。毎月の最初は、神様にその月のお告げをもらえる日だ。


「そうだ。いつも通り、奥の間に誰も通さぬように」

「承知しています。心置きなくお勤めを」


 最拝礼で答えつつ、春海チュンハイは心躍るのをひた隠した。

 僧院の最奥に、神宣を受けるための部屋がある。義海イーハイの弟子でも数人と、母しか入室を許されない。

 這って入るしかない小さな木戸以外に、窓を含めた出入り口を持たない部屋。


 神宣の日。いつも義海イーハイは、正午から日没までを一人で部屋に篭もった。その間、出入りを許された弟子と母で入り口の戸を見張る。

 そこに春海チュンハイも、見学の名目で同席を許されるようになったのが、やはりここ二年。


 義海イーハイには極めて珍しい、春海チュンハイへの特別扱いだ。それが嬉しく、何があろうと父の勤めを疎かにさせまいと誓っていた。

 とは言え僧院の奥へなど、無関係の者はそもそも入れない。義海イーハイの弟子たる僧たちが邪魔をするはずもなく、何ごとも起こったことがなかった。

 だのにあの日、何ごとかは起きた。


「父上、お疲れさまでござい——」


 小さな木戸が横に滑って開く。幼い子どもを抱くように重い僧正の僧服を整えた義海イーハイが、這い出てくるのを待つ。

 面子はいつも同じ。入室を許された弟子と母、すぐに茶を飲めるよう準備した春海チュンハイ


 しかし出てこない。誰もがほぼ同時に、室内を覗こうと屈む。と、僧服が床へ広がっていた。

 木戸を開いたところで、義海イーハイは意識をなくしていた。壁にもたれる格好で。


旦那様あなた!」


 絶叫した母が飛び込み、弟子が二人続く。

 春海チュンハイは動けなかった。こんな時にも義海イーハイの言いつけが手足を縛る。

 しかし部屋の外で引っ張る役目も必要だ。残った僧と一緒に、父の手を取った。


 じっとり。いや、ずぶ濡れと言っていいほどに汗をかいていた。真夏でもそんなことは初めてだ。

 数多く見てきた屍の苦悶の表情が、目を閉じた父と重なる。腹の底から込み上げたつかえが喉を塞ぎ、胸を苦しくした。


 が、引きずり出す途中で義海イーハイは目を覚ました。母は床にへたり込み、切れた息で目尻を拭っていた。

 春海チュンハイは今さらに動悸がし始め、しばらく声も出せない。母娘揃って、僧たちが義海イーハイを介抱するのを眺めるしかできなかった。


 義海イーハイの身に、取り立ててのことはなさそうだった。

 傷があるでなく、春海チュンハイにもそう思えたが、念のために薬師を呼んだ。しかしやはり、ひどく疲れているだけに見えると。

 それでようやく母ともども胸を撫でおろし、眠った父をそっとしておいた。


 だが真夜中。鎮静の薬が切れたのだろう、義海イーハイは飛び起きた。一つ壁の向こうで話していた春海チュンハイと母が、撥ね飛んだ枕の物音に驚く勢いで。


「父上!」


 駆けつけると、義海イーハイは立ち尽くし、両手で顔を覆った。泣いているように息を乱し、全身が小刻みに震える。

 何かに怯えていると思えた。どんな時もしっかりと、自分という形を崩さない父のそんな姿を見たのは初めてだ。


 伸ばせば届く手を、どうしていいか分からなかった。

 母はどう見たのか。何も言わず、父を抱きしめていた。泣く子を宥めるように、豊かな胸へ顔を埋めさせていた。


 義海イーハイが問いかけに答えるには、それから随分な時間が必要だった。手近な椅子に腰かけたのは、おそらく日付けの変わる少し前。


「神宣があった……」


 声を震わせた父を前に、立っているのも良くないだろう。母が言って、春海チュンハイの持ってきた椅子に座った。

 どうしたのかと聞くことはしなかったが、義海イーハイは巨大なため息に続けて言った。


「——ええ。神宣の日ですものね」


 義海イーハイだけに託された、皇帝陛下が国を治めるのにも関わる勤め。ではあるが、毎月のことでもあった。

 それを今さら、悲痛とも言える顔で、声を絞り出して言うことか。


 不思議に思い、母も首を傾げて返した。が、そうではないと考え直す。

 重要な、うろたえずにいられないほどの神宣があった。きっと父は、そう言いたかったのだ。


「あ、ああ。そうだ、神宣はある。いつも私が、神のご意志をいただいている。私の勤めだ」

「そうね、あなたのおかげで安心して暮らせます」


 それほど念を押さずとも、誰も父を責めてはいない。やはり弱気にさせるような、すると良くない神宣があったらしい。

 母が礼を言ったのに合わせ、春海チュンハイも頷く。恐ろしい目に遭った父を励ましたかった。


「このままでは滅ぶ」


 おかげか、義海イーハイの声に張りが戻った。不吉な言葉を、はっきりと聞く羽目になりもしたが。


「滅ぶ? まさか……皇都が」


 母の声も震えた。

 何万人も暮らす皇都が滅ぶ事態とは、どんなものか。想像もつかなかったが、たしかに怯えるには十分すぎる。


 けれども義海イーハイは、否定の方向に首を振った。

 では? と問う四つの目から顔を背け、切れ切れの息をどうにか整える。


「この国すべてだ。ジンの国の至るところに、地震、大水、疫病、ありとあらゆる災厄が撒かれる」

「そんな——!」


 仰け反った母の尻が椅子を離れ、またすぐに落ちた。勢い余って後ろへ転びそうになったのを、春海チュンハイの手が支える。


「父上、なぜそんなことに。神様は理由もなく、人間に罰を与えるのですか」


 母が春海チュンハイの分まで驚いてくれて、冷静に問えた。義海イーハイもそんな娘の目をまっすぐに見て、いっそ縋るように答える。


「理由も聞いた。皇都の南東、海沿いに杭港ハンガンという町がある。そこでは死が商いの道具にされ、冒涜されているそうだ。中でも破浪ポーランという男が良くない」

「そこまで細かく」


 これまでの神宣は、もっと大まかなものだった。南で疫病が流行るとか、北で反乱の兆しがあるとか。

 町や人の名前まではっきりしていたことなど、一度もない。それだけ神の怒りは深刻なのかと、背すじが寒くなる。


「な、何か方法はないのでしょうか。神様のお怒りを鎮め、滅びずに済む方法は」


 問う自分の言葉の裏に、あるわけがないと絶望を感じていた。そこまで怒らせる前に、手を打たなければいけなかったはずだ。


 見つめ合った義海イーハイの目が閉じる。やはり、と春海チュンハイも視界を暗くさせた。


「ある」


 滅びの時まで、どうしていよう。祈り続けるか、それとも親しい人たちと別れを済ませるか。

 そんなことを考え始めたところへ、意外な言葉が聞こえた。


「ある? あると仰いましたか、父上」

「言った。それはお前だ、春海チュンハイ。お前がその男のところへ行き、命を絶たせるのだ」


 殺せと言ったのか。

 神に仕える僧の父が、同じく僧を志す娘に。耳を疑ったが、取り違えようもない。

 だがすぐさま、分かりましたとも言えなかった。


「あの。私が? その破浪ポーランを殺すのですか」

「いや殺してはならん。その男の穢れた命運を、殺した者が引き継いでしまうそうだ。喉を突くのでも、崖から飛び降りるのでも、自害させねばならない」


 それはただ殺すより難しくないか。いややはりそれ以前に、僧たる身で人の生き死にに口出しして良いのか。

 僧正の義海イーハイが受けた神宣だ。娘である春海チュンハイに、否と言う選択肢もない。


 いやではないのだ。本当にそんなことをしていいのか、自分の中の迷いに結論が出なかった。

 けれど、義海イーハイは力強くした声で続ける。


「他の誰にも話してはいかん。話せば神々の怒りが溢れる。しかし春海チュンハイ、お前が使命を果たしてくれれば、この国は救われる。陛下さえ、感謝の言葉をくださるだろう」


 春海チュンハイに与えられた使命。

 達せなければ、国が滅ぶ。もはや選ぶ余地はないのだと、春海チュンハイは知った。

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