余聞
第6話:出立の前
皇都において、
僧院という環境で、父母は
ではその次かと言えば、違う。
僧院を訪ねてくる門徒があり、近所の世話になっている大人たちがあり、皇都の民全員があり、
ただし不満を言ったことはない。子が自分一人でも、遊び相手に困らなかった。僧院に住む百人以上の僧の全員が、親戚のようなものだ。
「ねえねえ。あの屍は、どうしてあんなに苦しそうにしているの」
ある時、祭壇に横たわった屍を見て問うた。
安らかに眠るよう祈る僧たちの末席に、
「飢えて死んだからだよ」
「飢えって何?」
「腹が減っても食べ物がなくて、身体が動かなくなるんだよ」
今にして思えば罰当たりで、祈りを行うにも単純に邪魔だったろう。
父か母に見つかれば大目玉だったが、祈りの真似ごとをする
ましてあの時は、泣いてしまった。
死してなお緊張した、首すじや腕の筋肉。何かをつかみ、毟り取ろうとする形で固まった手。
苦痛に食いしばった歯。細く睨む眼。
そういうものが、腹の減った先にあるという事実を恐ろしく思った。
さすがに連れ出されたものの、やはり僧たちは叱らなかった。むしろ「飢えて死ぬ者を少なくできるような、きっと立派な人間になる」と褒めた。
今の
だが立派な僧になる、という気持ちの束石には十分だった。
なぜ飢えるのか、なぜ不作や戦が起きるのか。僧院に住む限り、少なくとも
それは僧の最高位に就いた父のおかげで、街の平穏を守る皇帝陛下のおかげなのだと。
◆◆◆
女の身で僧になると決めた時も、区別はしないとしか言われなかった。
唯一の楽しみは、起床後すぐに飲む茶。ここ二年ほど、淹れる役目を
二人分の茶葉を入れた茶壺へ湯を溢れさせ、手桶にいっぱいの湯がなくなるまで茶壺の蓋へ浴びせ続ける。
顔を洗い終わった
それが毎朝の日課だ。
「父上、今日は神宣の日ですね」
ただ待つのも気まずく、あの日は父の仕事について問うた。毎月の最初は、神様にその月のお告げをもらえる日だ。
「そうだ。いつも通り、奥の間に誰も通さぬように」
「承知しています。心置きなくお勤めを」
最拝礼で答えつつ、
僧院の最奥に、神宣を受けるための部屋がある。
這って入るしかない小さな木戸以外に、窓を含めた出入り口を持たない部屋。
神宣の日。いつも
そこに
とは言え僧院の奥へなど、無関係の者はそもそも入れない。
だのにあの日、何ごとかは起きた。
「父上、お疲れさまでござい——」
小さな木戸が横に滑って開く。幼い子どもを抱くように重い僧正の僧服を整えた
面子はいつも同じ。入室を許された弟子と母、すぐに茶を飲めるよう準備した
しかし出てこない。誰もがほぼ同時に、室内を覗こうと屈む。と、僧服が床へ広がっていた。
木戸を開いたところで、
「
絶叫した母が飛び込み、弟子が二人続く。
しかし部屋の外で引っ張る役目も必要だ。残った僧と一緒に、父の手を取った。
じっとり。いや、ずぶ濡れと言っていいほどに汗をかいていた。真夏でもそんなことは初めてだ。
数多く見てきた屍の苦悶の表情が、目を閉じた父と重なる。腹の底から込み上げたつかえが喉を塞ぎ、胸を苦しくした。
が、引きずり出す途中で
傷があるでなく、
それでようやく母ともども胸を撫でおろし、眠った父をそっとしておいた。
だが真夜中。鎮静の薬が切れたのだろう、
「父上!」
駆けつけると、
何かに怯えていると思えた。どんな時もしっかりと、自分という形を崩さない父のそんな姿を見たのは初めてだ。
伸ばせば届く手を、どうしていいか分からなかった。
母はどう見たのか。何も言わず、父を抱きしめていた。泣く子を宥めるように、豊かな胸へ顔を埋めさせていた。
「神宣があった……」
声を震わせた父を前に、立っているのも良くないだろう。母が言って、
どうしたのかと聞くことはしなかったが、
「——ええ。神宣の日ですものね」
それを今さら、悲痛とも言える顔で、声を絞り出して言うことか。
不思議に思い、母も首を傾げて返した。が、そうではないと考え直す。
重要な、うろたえずにいられないほどの神宣があった。きっと父は、そう言いたかったのだ。
「あ、ああ。そうだ、神宣はある。いつも私が、神のご意志をいただいている。私の勤めだ」
「そうね、あなたのおかげで安心して暮らせます」
それほど念を押さずとも、誰も父を責めてはいない。やはり弱気にさせるような、すると良くない神宣があったらしい。
母が礼を言ったのに合わせ、
「このままでは滅ぶ」
おかげか、
「滅ぶ? まさか……皇都が」
母の声も震えた。
何万人も暮らす皇都が滅ぶ事態とは、どんなものか。想像もつかなかったが、たしかに怯えるには十分すぎる。
けれども
では? と問う四つの目から顔を背け、切れ切れの息をどうにか整える。
「この国すべてだ。
「そんな——!」
仰け反った母の尻が椅子を離れ、またすぐに落ちた。勢い余って後ろへ転びそうになったのを、
「父上、なぜそんなことに。神様は理由もなく、人間に罰を与えるのですか」
母が
「理由も聞いた。皇都の南東、海沿いに
「そこまで細かく」
これまでの神宣は、もっと大まかなものだった。南で疫病が流行るとか、北で反乱の兆しがあるとか。
町や人の名前まではっきりしていたことなど、一度もない。それだけ神の怒りは深刻なのかと、背すじが寒くなる。
「な、何か方法はないのでしょうか。神様のお怒りを鎮め、滅びずに済む方法は」
問う自分の言葉の裏に、あるわけがないと絶望を感じていた。そこまで怒らせる前に、手を打たなければいけなかったはずだ。
見つめ合った
「ある」
滅びの時まで、どうしていよう。祈り続けるか、それとも親しい人たちと別れを済ませるか。
そんなことを考え始めたところへ、意外な言葉が聞こえた。
「ある? あると仰いましたか、父上」
「言った。それはお前だ、
殺せと言ったのか。
神に仕える僧の父が、同じく僧を志す娘に。耳を疑ったが、取り違えようもない。
だがすぐさま、分かりましたとも言えなかった。
「あの。私が? その
「いや殺してはならん。その男の穢れた命運を、殺した者が引き継いでしまうそうだ。喉を突くのでも、崖から飛び降りるのでも、自害させねばならない」
それはただ殺すより難しくないか。いややはりそれ以前に、僧たる身で人の生き死にに口出しして良いのか。
僧正の
けれど、
「他の誰にも話してはいかん。話せば神々の怒りが溢れる。しかし
達せなければ、国が滅ぶ。もはや選ぶ余地はないのだと、
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