第5話:子は親に
怪訝に、
小さな波頭を蹴立てて遊んでいた足が、透明な水底の砂に埋まっていく。
よく盛り上がった足の甲が、すっかり見えなくなった。それでようやく、
「……え?」
と、戸惑っていることだけが分かる声を。
さもありなん。まだ
こんな無茶を言うからには、当然に理由もあるのだ。
「たしかきみは、危害を加えないと言ったよね」
「言ったわ」
「じゃあ死んでもらうって、俺の聞き間違いだね?」
誤解と考えるからか、
どれも誤解でなかったが、すぐに受け入れられないのは分かる。
(冷静に、じっくりと。誠意を持って言葉を尽くせば、きっと分かってくれる。父上が言っていたわ)
そう、
「聞き間違いではないの。私は何もしない、と言うよりできない。でもあなたには、死んでもらわなければいけないの。つまり自害してほしい」
いつの間にか、
「ええとそれは、たとえばこの斧で首を掻っ切るとか?」
「方法は任せるわ、そのまま水底へ沈むのでもいいし。とにかくあなたの手であなたの命を絶ってほしい」
さっそく方法論とは、理解が早い。苦笑混じりながら「なるほどね」とも。
話の通じる相手で良かった。気が早いと知りつつも、
「看板にさ、銀銭十枚で請け負うと書いてあるよ。でもそれは、こっちにも事前の想定ってものがある。きみの頼みは、その中にない」
ざざ、とおもむろに。
「それは——」
「うん、そんなことを言うだけの理由があるんだろう。俺の勘だと、きみは他人に無謀を強いて愉しむような人じゃない」
理由を聞いてほしい。言いかけた
勢いに任せてでも言わねばならないと思っていたのに、こうも聞く姿勢を見せられると、
「その……詳しいことは言えないの。だけど信じてほしいのは、これは国のためということ」
「国って?」
「それはこの国よ。皇帝陛下の治める、
胸の高さの両腕が震え始めた。けれど話す中身を思い、
「とても大ごとなのは分かった。だけど今、きみの言ったのは理由じゃない。偉い人の感謝と言われたってね、俺にはどうでもいい。まだしもきみが呪いでもかけられて、俺が死ねば解けると言われたほうが納得できる」
(どうでもいい?)
耳を疑った。おかげで
わなわなと唇を震わせ、あり得ないと漏らしつつ首を横に振る。それも無意識のことだ。
「なにを言ってるの。皇帝陛下よ、天子様よ。この世で一番偉いお方が、あなたの力を必要としてるのよ」
「会ったことないし」
「私だってないわ」
そんな相手と、会ったことがないからどうでもいい。この文章の前後が繋がること自体、
「いえ、うん。それだけじゃないわ、この国のすべての人。つまりあなたのお父上も救われるの」
「父さんを助けて感謝される、か。それはこの上ないくらい魅力的だね」
家族とか友人とか、自分の身近な相手が当事者でなければ、想像力の及ばない人は居る。
それは仕方のないことだし、使命の達せられるほうが先決だ。
「そうよ。報奨だってあるわ、残念ながらあなたには渡せないけど。たとえばお父上が死ぬまで困らないだけのお金だって望める」
(私が無事に、務めを果たしたと報告すればだけど)
ただし、の部分は告げなかった。邪な解釈をして、
父親への孝行。それも莫大な金額と聞けば、さすがに考えるところはあるらしい。
「子は親に。親は国に。国は神に従うものよ。だから見返りというわけじゃないけど、親は子を可愛がって育てられる。お父上の一生の不安をなくすなんて、素晴らしい尽くし方と思うわ」
ゆえに
死が怖ろしいのも当然で、そこのところを埋め合わせる時間が必要なだけだと。
「
「でしょう? 嬉しいわ」
「でも俺は、きみの使命に協力できない」
遠慮気味な微笑みだけを見ていると、請け負ったと聞き違えそうだった。
いや
「えっ。ごめんなさい、もう一度言ってもらえる? なんだか断られた気がして」
「そうだよ、俺は断ると答えた」
涼やかな美丈夫が、「悪いね」と頭を掻く。贔屓と言われようが、醜男にされるよりも悪い気はしない。
当然に、じゃあいいと答えられはしなかったけれど。
「なぜ……」
「さっき言った通りだよ。まだしもきみの命を救うとかなら、心が動いたかもしれない。だけどなんだか知らないことで、死ねばお金がもらえるなんて言われてもね」
彼の死んだ後、報奨を惜しむと疑われたか。隠した事情はその通りだが、詐欺のように言われては心外だ。
だがそれも、
「きみの話を疑ってはいないよ。全部丸ごと信じても、さ。育ててくれた父さんより先に、勝手には死ねないよ。それこそ親不孝だろ」
一瞬、たしかにと納得した。しかしすぐに、「違う違う」とかぶりを振る。
ただ。肝心のところを話さないでは、伝わらないのかもしれない。
「良かった、分かってもらえて」
ぐっと伸びをする
(諦めるわけにいかないのよ。でもどうすればいいのか……)
返答は
彼も察したのだろう。苦笑と共に言おうとした何ごとかを呑み込み、首すじの汗を拭う。
互いに口を開かずとも、細かな潮騒が沈黙を打ち消してくれる。
そのまましばらく。波が一歩分も後退するほど、見つめ合った。
カッカッと、短く尖った音がする。石を打ち付けるような、耳慣れているとは言い難い。
どうすれば。と胸の内で繰り返す
「なに?」
と音の在り処を探し、自身のうっかりに呆れる。
「どうかした?」
突然に背負い袋を下ろした
屈んで袋の口を開けば、興味深げに覗き込む。
「この子のこと、忘れていたの」
暑さ避けの手拭いを除けると、細い紐状の何かが袋から飛び出す。
腕を這い上がり、首もとをぐるぐると何度も回る冷たい感触。
蛇だ。
べっ甲に似て透き通った紅色の。上下の牙が折れ、口を動かせば先のごとく音がする。
「へえ、可愛いじゃないか。きみが飼ってるの?」
「皇都からの道で拾ったの。飢えていたから」
頭を撫でてくれようというらしい。
「俺にも触らせないなんて、きみはよほど気に入られてるらしい」
言う通り、蛇は
彼も彼で、楽しげにしつこく繰り返す。折れた牙では、痛くも痒くもないと見える。
「
問いかけに
「それ、この蛇の名前?」
「ええ、そう。お友だちになったの」
皇都からの旅路で、早々に出会った。
ゆえに、だろう。心から迷いが退いていくのを、はっきりと
「決めたわ」
「え、何を?」
「私、しばらくあなたの傍から離れない」
離れず、どうするのか。分かりきった問いを、
代わりに唸る声と表情で、存分に「困ったな」と。だがそれも、やめてくれとは言わない。
「いいけど、仕事があれば構わず迷宮に潜るよ」
「いいわ。それも着いていく」
仕事の邪魔をするつもりはない。むしろ手伝いさえして、合間に説得を続ける。
そうすれば必ず使命を果たせると、
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