第5話:子は親に

 怪訝に、破浪ポーランは首を傾げ、目を細めた。ついでに耳へ指を突っ込み、通りを良くもした。


 小さな波頭を蹴立てて遊んでいた足が、透明な水底の砂に埋まっていく。

 よく盛り上がった足の甲が、すっかり見えなくなった。それでようやく、破浪ポーランは次の声を発した。


「……え?」


 と、戸惑っていることだけが分かる声を。

 さもありなん。まだ春海チュンハイは、叶えるべき要求しか言っていない。

 こんな無茶を言うからには、当然に理由もあるのだ。


「たしかきみは、危害を加えないと言ったよね」

「言ったわ」

「じゃあ死んでもらうって、俺の聞き間違いだね?」


 誤解と考えるからか、春海チュンハイなどどうとでもなると見積もったのか、破浪ポーランはもう警戒する素振りを見せない。


 どれも誤解でなかったが、すぐに受け入れられないのは分かる。

 (冷静に、じっくりと。誠意を持って言葉を尽くせば、きっと分かってくれる。父上が言っていたわ)

 そう、春海チュンハイは信じて疑わなかった。


「聞き間違いではないの。私は何もしない、と言うよりできない。でもあなたには、死んでもらわなければいけないの。つまり自害してほしい」


 いつの間にか、春海チュンハイは拝礼の姿勢をとっていた。重大な頼みごとだ、これで正しいとも思う。


「ええとそれは、たとえばこの斧で首を掻っ切るとか?」

「方法は任せるわ、そのまま水底へ沈むのでもいいし。とにかくあなたの手であなたの命を絶ってほしい」


 さっそく方法論とは、理解が早い。苦笑混じりながら「なるほどね」とも。

 話の通じる相手で良かった。気が早いと知りつつも、春海チュンハイは安堵の息を堪えられない。


「看板にさ、銀銭十枚で請け負うと書いてあるよ。でもそれは、こっちにも事前の想定ってものがある。きみの頼みは、その中にない」


 ざざ、とおもむろに。破浪ポーランは水を分け、浜に上がる。手近な舟の縁に尻を乗せ、足の厚布を解いて水を絞った。


「それは——」

「うん、そんなことを言うだけの理由があるんだろう。俺の勘だと、きみは他人に無謀を強いて愉しむような人じゃない」


 理由を聞いてほしい。言いかけた春海チュンハイの言葉を手で遮った破浪ポーランは、改めて「聞かせてくれる?」と頼む。


 勢いに任せてでも言わねばならないと思っていたのに、こうも聞く姿勢を見せられると、春海チュンハイの喉は急に咳払いを要求した。


「その……詳しいことは言えないの。だけど信じてほしいのは、これは国のためということ」

「国って?」

「それはこの国よ。皇帝陛下の治める、ジンというこの国のすべて。あなたが死ぬことで、ジンの民の全員が救われる。宮殿の偉い人たちも感謝するわ、皇帝陛下だって」


 胸の高さの両腕が震え始めた。けれど話す中身を思い、春海チュンハイは唇を噛んで強引に震えを抑え込んだ。


「とても大ごとなのは分かった。だけど今、きみの言ったのは理由じゃない。偉い人の感謝と言われたってね、俺にはどうでもいい。まだしもきみが呪いでもかけられて、俺が死ねば解けると言われたほうが納得できる」


 (どうでもいい?)

 耳を疑った。おかげで春海チュンハイは、自分が両腕を下ろしたことも気づかなかった。


 わなわなと唇を震わせ、あり得ないと漏らしつつ首を横に振る。それも無意識のことだ。


「なにを言ってるの。皇帝陛下よ、天子様よ。この世で一番偉いお方が、あなたの力を必要としてるのよ」

「会ったことないし」

「私だってないわ」


 春海チュンハイの父は会ったことがあるはずだ。宮殿の中には詳しくないが、重臣と呼ばれても顔を見ぬままの人も居ると聞いていた。


 そんな相手と、会ったことがないからどうでもいい。この文章の前後が繋がること自体、春海チュンハイにはとんでもないことだった。


「いえ、うん。それだけじゃないわ、この国のすべての人。つまりあなたのお父上も救われるの」

「父さんを助けて感謝される、か。それはこの上ないくらい魅力的だね」


 家族とか友人とか、自分の身近な相手が当事者でなければ、想像力の及ばない人は居る。

 それは仕方のないことだし、使命の達せられるほうが先決だ。


「そうよ。報奨だってあるわ、残念ながらあなたには渡せないけど。たとえばお父上が死ぬまで困らないだけのお金だって望める」


 (私が無事に、務めを果たしたと報告すればだけど)

 ただし、の部分は告げなかった。邪な解釈をして、春海チュンハイに襲いかかるならそれでも良かった。


 父親への孝行。それも莫大な金額と聞けば、さすがに考えるところはあるらしい。破浪ポーランは父のいびきが漏れる木戸を眺め、感慨深げに頷いた。


「子は親に。親は国に。国は神に従うものよ。だから見返りというわけじゃないけど、親は子を可愛がって育てられる。お父上の一生の不安をなくすなんて、素晴らしい尽くし方と思うわ」


 ジンという名のこの国で、年長者や目上に従うのは当然だ。生まれ育った場所や環境で、いくらかの差異はあるだろうが。


 ゆえに春海チュンハイは、最終的に破浪ポーランが理解しない結末を考えていなかった。

 死が怖ろしいのも当然で、そこのところを埋め合わせる時間が必要なだけだと。


春海チュンハイ、きみの言うことは正しいよ」

「でしょう? 嬉しいわ」

「でも俺は、きみの使命に協力できない」


 遠慮気味な微笑みだけを見ていると、請け負ったと聞き違えそうだった。

 いや春海チュンハイはそう思い込み、どうも違和感を覚えて問い返す。


「えっ。ごめんなさい、もう一度言ってもらえる? なんだか断られた気がして」

「そうだよ、俺は断ると答えた」


 涼やかな美丈夫が、「悪いね」と頭を掻く。贔屓と言われようが、醜男にされるよりも悪い気はしない。

 当然に、じゃあいいと答えられはしなかったけれど。


「なぜ……」

「さっき言った通りだよ。まだしもきみの命を救うとかなら、心が動いたかもしれない。だけどなんだか知らないことで、死ねばお金がもらえるなんて言われてもね」


 彼の死んだ後、報奨を惜しむと疑われたか。隠した事情はその通りだが、詐欺のように言われては心外だ。

 だがそれも、破浪ポーランは先んじて否定する。


「きみの話を疑ってはいないよ。全部丸ごと信じても、さ。育ててくれた父さんより先に、勝手には死ねないよ。それこそ親不孝だろ」


 一瞬、たしかにと納得した。しかしすぐに、「違う違う」とかぶりを振る。

 破浪ポーランの言い分も間違ってはいないが、問題はもっと大きいのだ。


 ただ。肝心のところを話さないでは、伝わらないのかもしれない。

 春海チュンハイは「分かった」と、引き下がることを告げた。


「良かった、分かってもらえて」


 ぐっと伸びをする破浪ポーラン。すっかり万事解決という風に。


 (諦めるわけにいかないのよ。でもどうすればいいのか……)

 返答は春海チュンハイの順番だが、破浪ポーランを見つめたまま黙った。


 彼も察したのだろう。苦笑と共に言おうとした何ごとかを呑み込み、首すじの汗を拭う。


 互いに口を開かずとも、細かな潮騒が沈黙を打ち消してくれる。

 そのまましばらく。波が一歩分も後退するほど、見つめ合った。


 カッカッと、短く尖った音がする。石を打ち付けるような、耳慣れているとは言い難い。

 どうすれば。と胸の内で繰り返す春海チュンハイには、思考の邪魔になった。


「なに?」


 と音の在り処を探し、自身のうっかりに呆れる。


「どうかした?」


 突然に背負い袋を下ろした春海チュンハイを、破浪ポーランは気遣う。

 屈んで袋の口を開けば、興味深げに覗き込む。


「この子のこと、忘れていたの」


 暑さ避けの手拭いを除けると、細い紐状の何かが袋から飛び出す。

 腕を這い上がり、首もとをぐるぐると何度も回る冷たい感触。


 蛇だ。

 べっ甲に似て透き通った紅色の。上下の牙が折れ、口を動かせば先のごとく音がする。


「へえ、可愛いじゃないか。きみが飼ってるの?」

「皇都からの道で拾ったの。飢えていたから」


 春海チュンハイよりもふた回り大きな、破浪ポーランの手で二つ分。たったそれだけの長さしかない幼い蛇に、彼の指が伸びる。


 頭を撫でてくれようというらしい。春海チュンハイの肩で鎌首をもたげ、威嚇する蛇の。


「俺にも触らせないなんて、きみはよほど気に入られてるらしい」


 言う通り、蛇は破浪ポーランの指を嫌がって噛みついた。

 彼も彼で、楽しげにしつこく繰り返す。折れた牙では、痛くも痒くもないと見える。


ファン、そうなの?」


 問いかけにファンは答えない。春海チュンハイの後ろ髪に隠れ、またカッカッと鳴らす。


「それ、この蛇の名前?」

「ええ、そう。お友だちになったの」


 皇都からの旅路で、早々に出会った。ファンのおかげで、寂しさや不安を乗り越えられたのも少なくなかった。


 ゆえに、だろう。心から迷いが退いていくのを、はっきりと春海チュンハイは感じた。


「決めたわ」

「え、何を?」

「私、しばらくあなたの傍から離れない」


 離れず、どうするのか。分かりきった問いを、破浪ポーランは口にしなかった。

 代わりに唸る声と表情で、存分に「困ったな」と。だがそれも、やめてくれとは言わない。


「いいけど、仕事があれば構わず迷宮に潜るよ」

「いいわ。それも着いていく」


 仕事の邪魔をするつもりはない。むしろ手伝いさえして、合間に説得を続ける。

 そうすれば必ず使命を果たせると、春海チュンハイは自信に満ちて頷いた。

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