第4話:春海の使命

「なんだァ? てめェ」


 地の底で燻るような声。焼けつく怒気に、春海チュンハイは踏み入る足を止めた。

 間口も奥行きも四歩分の部屋。砂の地面が剥き出しの床へ、申しわけ程度にむしろが敷かれる。


 真ん中に、肘をついて寝そべる男に見覚えがあった。広場で出会った屍運びの片割れ、中年のほうだ。

 外と内とで変わらず巻く潮風が、中年男のざんばらな黒髪をそよがせた。


「父さん、客だよ」


 別の声が壁ぎわでした。やはり見覚えのある若者が、勢いもつけずスッと立ち上がる。筵へあぐらをかいていたというのに。

 遅れて揺れた長い髪は、頭のてっぺんできりりと結われた。後ろ毛と纏めて束ね、清々しい艶を見せる。


 二人は親子と聞いたし、その通りの言葉を発した。しかし若者の髪は赤茶に寄った色で、母親似かもと思わせた。


「客だァ?」

「そうだよ。頼みごとをして、お金を払ってくれる。でないと次の酒が買えないよ」


 気勢だけは、今にも殴りかかってきそうな中年男。だが睨む目も今ひとつ焦点が合わず、重そうなまぶたを支えきれずに舟を漕ぐ。


「酒がないだァ? てめェ、誰がここまで育ててやったと——」


 (そこまで眠いなら、寝ればいいのに)

 乳離れをしない子がぐずるようで、荒ぶる声も口の中でもごもごと聞き取りづらい。


 これほどの酔っ払いを見たのは初めてだった。若者もさほど気鬱でなさそうな息を「ふう」と吐くのみ。

 来客と思うのなら、もっと取り繕うものと春海チュンハイは感じる。ただし息子が父親に尽くす姿と見れば、それは正しいと納得がいく。


「あの。お酒ならちょうど持ってきたわ」

「くれるの? 悪いね。用件がまだだけど、払いから引かせてもらうよ」


 それはいい、と答える前に。若者は酒瓶を引っつかみ、中年男の腕へ抱かせた。

 すると大きな赤子はどこからか、別の酒瓶を取り出して並べる。ご満悦に「シシッ」と笑い、前触れもなくいびきをかき始めた。


「寝ちゃったの?」

「うん、さっきまで迷宮に潜ってたから」


 若者は声を潜め、立てた人さし指を唇に当てた。外へ出るように手ぶりもあり、春海チュンハイは素直に従う。


「本当に悪いね。あれは俺の父親で、偉浪ウェイランという。睡眠とお酒が足りていれば、腕はたしかだから」


 後ろ手に木戸を閉め、若者は声量を戻した。指で突いても破れそうな板に、それだけの意味があるか疑問だが。

 しかし最初の印象とは異なる爽やかな苦笑で、驚かされたくらいはお釣りが出た。


 よくよく見れば鼻筋が通り、切れ長の眼は恐ろしげながらも涼やかで凛々しい。芝居小屋なら美丈夫の看板役者として十二分に通用する。

 未だ色恋の情を知らぬ春海チュンハイには、へえと感心するのが精々だったけれども。


「いえ、構わないわ。破浪ポーラン、私はあなたに会うために来たの。皇都からね」

「どこかで俺の名前を聞いてきた? 皇都にまでと言われたら、まさかと思うよ」


 破浪ポーランはわざとらしく首を伸ばし、辺りを見回した。本当の用件を持つのは春海チュンハイでなく、彼自身の知る誰かと疑ったのだろう。


「本当よ。私はわざわざ皇都から、あなたを訪ねたの。でも謝らないといけないのは、どうして名前を知ったか言えない。それにさっき、あなたが言ったようなお客でもない」

「へえ?」


 低く、破浪ポーランの声色が沈む。

 ただそれだけで、手を伸ばせば届く距離の若者が別の何かに変わった。腰を屈めたわけでも、重心を取ったわけでも、ましてや間合いを広げたわけでもない。

 だのにそこへ居るのが人間でさえなく、獲物を狩る野獣の殺気を感じた。


「ああ。信じなくてもいいけど、私から危害を加えるつもりはないの。それでは私の使命が達せられないから」


 野獣のしなやかな指は、腰の手斧に触れていた。

 留め革を外し、柄を握り、必殺の一撃を放つ。きっとその動作に失敗はなく、この距離では春海チュンハイに逃れる術がない。


 (それでも構わないわ)

 と覚悟を決めている春海チュンハイに、逃れる理由もなかった。


 向かい合う視線をわざと外し、警戒する破浪ポーランの手元をじっと眺める素振りをして、また目を合わす。

 おまけに愛想笑いまで付けてやると、野獣が人間へと立ち戻った。


「怖い女の子だ。見たところ僧院の人らしいけど、名前を聞いても?」

「ええ、まだ見習いだけど。春海チュンハイよ」


 右の拳を突き出し、胸元へ引き寄せ、左手の平に覆い隠す。故意に挑発的な拝礼をしてみせると、破浪ポーランも真似て同じようにした。


「面倒な用件みたいだけど、俺や父さんをどうこうしようって輩じゃなさそうだ。そこは信用するよ」

「ありがたいわ」


 おどけた笑顔の破浪ポーランに、春海チュンハイも笑って見せた。自然な笑みを作るのは苦手だったが、うまくいったはずだ。


「それで春海チュンハイ、きみの使命って?」


 木戸の向こう、偉浪ウェイランのいびきがけたたましい。破浪ポーランは耳を塞ぐ素振りで波打ち際を指さし、歩き始めた。

 春海チュンハイも従い、彼の大きな足跡に水溜まりのできる様を追う。


「冷たくて気持ちいい。濡れるのは嫌い?」

「さあ、海はあまり経験がなくて」


 厚布を巻いた破浪ポーランの足が、くるぶしまで浸かる。春海チュンハイも興味はあったが、優先すべきを措いてまでは正しくない。


 熱い天道、深く抜けた蒼天。疾く風は冷たく、水面はどこまでか果てしない。

 破浪ポーランに、夏の海はよく似合う。こんな景色で告げる言葉でないと遠慮の気持ちもある。

 しかし、迷わなかった。


破浪ポーラン。私の使命はね、あなたに死んでもらうこと」

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