第2話:国の大事

 やがて見送る春海チュンハイの目に、中年男と若者の姿は映らなくなった。広場から正面の大通りを、ずっと進んでいった。


「あれが屍運び……」


 呟いたのは無意識だ。そっと唇を押さえ、咳払いで次の声を呑み込む。

 しかし、おかげと言うべきか、ふと気づいた。

 (屍を運ぶ先が僧院じゃない?)


 となれば、すぐに足が動く。見失ったばかりの二人を追い、春海チュンハイは小走りに駆けた。

 荷車が十以上も並んで進めるような大通りを、まっすぐ。行き交う人々の合間を縫う。


 横道はまばらで、斜めに抜けたりもした。碁盤の目のごとき皇都とは、随分違う。

 それでも大通りだけはまっすぐ、息の切れ始めたころにどうやら辿り着いた。


 重々しい漆黒の瓦はさておき。丸太作りの門と壁は、一様に朱色。軒の先端や、梁を支える柱の腕などは金塗り。どちらも僧院、あるいは信仰の証。

 なにより門の両脇へ、大きく礼尊と墨書されている。誰の筆か、荒々しくも力強い、春海チュンハイには好みの文字だ。


 (だけどあの屍運びはどこへ行ったの?)

 目の前に正門があるのだから、途中で折れる必要はない。だとすれば間違いなく追いついているはず。


 まさか追い越した。振り返ったが、どうも後退る人々の様子はなかった。

 とは言え予想を半分外して残念というほかに拘る理由もなく、春海チュンハイは門を守る壮年の武僧に歩み寄る。


「院長さまはお出ででしょうか」


 まずは拝礼。右の拳を左の手に隠し、少しばかり腰を折る。

 そして問いつつ、襷を解く。武僧と揃いと言える長い袂が垂れ下がった。


 荷を背負い、役人と僧にしか許されない袖を括った旅姿。眺めていた武僧は、それで用向きを察したらしい。

 ノミで彫ったような、いかにも気力に満ちた造作を、僅かながら緩めてくれる。


「どちらから?」

「皇都より」

「ほう、それは大層な」


 若い僧の、広く土地を渡る修業は珍しくない。そう勘違い・・・してくれるのを願っていたが、騙したようで胸が痛んだ。

 (ごめんなさい。本当のことは言えないの)


「案内させよう」


 武僧も拝礼を返してくれ、門の内側に吊った板を木槌で打つ。禿頭を揺らし、ちょっと楽しげに、節良く。


 すぐさま、門の奥に見える建物から誰かが飛び出した。

 十歳前後の男の子だ。剃った頭がまだ青々しく、見るからに全力で駆ける。


「お待たせ致しました!」


 可愛らしい。見てくれでなく、自身に息を整える暇も与えないひたむきさが。

 実際のところ声も顔も、女の子と言って通じそうだったけれど。


 院長に会わすよう、武僧が言ってくれる。まだ見習いでもないはずの、おそらく小間使いの男の子は、恭しく拝礼を向けた。

 春海チュンハイにも。微笑んで拝礼を返し、門を後にした。


「ねえ、お願い」

「なんでしょうか」


 三十歩ほど進み、前を行く小間使いに声をかけた。律儀に足を止め、振り返る男の子。

 怪訝に待つ目の前へ、腰に巻いた布包みを外して示す。両手で受け取った彼は、おそるおそる布を捲った。


「……これは、絹でしょうか」

「ええ、そう」


 布包みの中には、また布があった。ただし言う通り、絹の生地を巻いた信書。解けないよう結んだ白い飾り紐を、赤い糸で縫ってある。


 麻の信書なら、この子も触れたことがあるだろう。しかし絹となると、それだけで大ごとと感じたに違いない。事実、小間使いは息を呑んだ。


「院長さまにお渡しすれば?」

「もちろん」


 両手に捧げ持ち、小間使いはまた歩く。先ほどの半分の速度で。

 玻璃ガラスや磁器でないのだ、仮に落としたとして、それだけでどうということもない。


 間違いなく渡してくれさえすればいい。

 気休めを言おうかと思ったが、言わなかった。少年の、張り詰めた気高い志を穢してしまうようで。


 それから通されたのは、神像を置く本殿だった。入って正面に、人の一生を見守る三柱の神々が見える。

 その左手に、また一柱。こちらは冥土を統べる神の姿。


 一人待つ春海チュンハイは、旅の危険がなかったことを感謝し、四柱それぞれに祈った。


僧正そうじょうさまに縁の者なれば、粗末に思うだろう」


 まだ、日常の言葉で礼を言っただけだった。これから経典を諳んじようとしたところで、背中の側から声がかかる。


「そのようなことは。大切なのは、敬う心と教わっております」


 本殿の入り口へ振り返る。そこには濃黄こさき色の僧服を纏う男が立つ。

 門番の武僧と親子か。そう妄想するくらい、ごつごつとした佇まいが似ている。


 こちらは明らかに老人で、位の高さを示す朱の房紐が胸に二本。

 要望通り。しかも思った以上に早く、院長と面会が叶ったようだ。


 春海チュンハイは拝礼の姿勢から、さらに頭を低くした。組み合わせた両手を捧げる格好となるこれを、最拝礼と言う。

 院長も頷き、その上で拝礼を返してくれた。


「そなたの身の上を問うても?」

「構いません。僧正が一人娘、ジャオ春海チュンハイにございます」


 父の書いた信書に、春海チュンハイの紹介はなかったらしい。

 六十をも超えていそうな院長は、風貌にそぐわぬ潑溂とした表情を見せる。しかし僧正の娘と聞いたこの瞬間に限り、険しくした視線を手もとへ落とした。


「娘——なるほど、それでこの書か。中身を知っているのかな」


 院長は、解いた絹の信書を片手に示す。が、春海チュンハイは首を横に振った。


「私自身に与えられた使命はあります。でもそこに何が書かれているかは存じません」

「そうか。ならば儂よりそなたのほうが、きっと事情を知っている。これには、国の大事としか書かれておらん。他にそなたの寝食の面倒を見よというくらいか」


 (わざわざ運んだのに、それだけ?)

 偽らざる感想は驚きだったが、院長の自嘲を見れば嘘とも思えない。


 つまり春海チュンハイの独力で成就させよと、そういうことだ。

 いや出立の前にそのままを言われていた。だが改めて突きつけられると、春海チュンハイの胸は苦しく締めつけられた。


「そのようです。ご厄介と存じますが」

「なんの、大概の騒動なら引き受けよう。いずれ時が来たならば、話してもらえるとありがたいが」

「お約束致します」


 最拝礼の手が震える。「楽に」と言ってもらえなければ、目まいを起こしたかもしれない。

 姿勢を直すと、院長の手に信書は見えなかった。眉間の皺も。


「ところで、街はどうだったかな。皇都と比較にならぬのは知っているが、若い娘の目で見るものがあったやら」


 固い話は終わり、世間話でもと。笑む院長の計らいだったろうが、それならそれで言わねばならないことがあった。


「子どもたちが、唄を」

「唄。はて」

「人の命が、銀銭十枚の価値しかないと。道を聞けば、銭が先と。幼い子の耳にそんな穢らわしい言葉が届くなんて、正しくありません」


 院長に訴えたとて、即刻どうにかなりはしない。しかし憂いていると伝えねば、いつまで経っても変わらない。

 これもまた父の、素を言うなら神の教えだ。


「清廉にして気高いな。そのような志を抱えては、この町に息苦しさを覚えるやもしれん。だが迷宮がなければ、この町は大きくならなかった」

「迷宮に潜る者の粗野が、蔓延はびこっているのですね」


 ためらい気味に、院長は頷く。喉のそこまで、仕方がないと言葉の出かかっているのが見えた。


「十八年前。あの地下迷宮は、突然に口を開けた。当初は魔物が溢れてな、抑えるには腕っぷしが必要だった」

「存じています」


 虚実は置いて、迷宮の噂話は皇都でも尽きなかった。皇都の子どもたちの中に、将来は迷宮へ潜ると言い出す声も少なくない。

 春海チュンハイに賛成の気持ちがあるはずもなく、どこか肯定的な院長の声にも抵抗を覚える。


「それまでは海賊に荒らされるばかりの、貧しい漁村だった。それが今では、南の都だのと呼ばれる。今も魔物を退治に、迷宮へ潜る荒くれ。彼らにかかずらう商人。迷宮がなくなれば、町が消える」


 院長は春海チュンハイに背を向けた。その姿勢の意図するところは分かる、が黙っていられなかった。


「経緯は必然だったのでしょう。でも正すことを諦めては、それこそ正しくありません」

「……その通りだ」


 (分かっていただけた)

 ほっ、と息を吐く。

 この場で直ちにでなくて良い。正そうと思い浮かべるところからだ。


「その迷宮に潜る、屍運びの破浪ポーランという男をご存知ですか」


 ところで春海チュンハイは、行政の在り方を指南に訪れたのでなかった。

 思い出し、赤らむ頬を無視して本題を問う。

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