屍運びは饅頭にも劣り

須能 雪羽

第一幕:死を背負った二人

第1話:死を曳く男

 唄が聞こえる。

 幼い子らの。

 よく揃って。


 ——命の重さは銀銭十枚

   たかが同じ、十日の飯と

   包丁十本、ふんどし百枚

   貧乏長屋の小倅こせがれ

   福饅頭にも足りはせん


 春海チュンハイにとって、楽しい旅ではあった。

 生まれ故郷の皇都おうとを出たのは、ひと月以上も前。同行を頼んだ行商人たちとの時間は、想像した以上に新たな発見の連続だった。


 けれども訪れたこの町の、丸太製の朱門をくぐった最初。元気そうな子どもの声に、久しく口もとが綻んだ。

 耳にかかる黒髪を分けてまで、よく聞こうともした。


 きろ、と見開いた目で、春海チュンハイは唄い手を探す。

 居た。さほど繕いも目立たぬ着物の五、六歳が、広い横道に十人ほど。

 ふた手に分かれ、地面に幾重も線を描き合う。規則ルールが分からなかったが、陣地取りの遊びらしい。


 子どもの楽しげな街はいい。

 ただ。繰り返される唄の文句を理解すると、口の上下を結び合わせ、目を背けたくなった。

 (誰が教えたの。あんな酷い詩)


「あんたたち。誰のことか知らないけど、そんな人を馬鹿にした唄を口にするもんじゃないわ」


 優しい声を意識して、子どもたちに歩み寄る。素直なものだ、彼ら彼女らはぴたりと唄をやめ、一斉に春海チュンハイを見つめた。


「——姐さんは金持ちかい?」


 数拍の間があって、子らの一人。おそらく一番の兄貴分が、尖った石を突きつける。

 遠慮のない態度と、脈絡の通じぬ問いに戸惑った。しかしすぐに思い直す。

 (相手が誰でも、見栄を張らない。自分を貶めない。ありのままを示すこと)


「えっ、お金? ええと、そうね。生きるのに困るほどじゃないわ」

「ふうん」


 快活そうな顔が曇る。つまらないと読み取れた次の瞬間には、元にも増して楽しげに仲間たちへ呼びかけていたが。


「善人気取りの貧乏人だ、逃げろ!」

「なっ、えっ?」


 わあっ、と子どもらは散る。四方八方へ。

 すぐに誰の姿も見えなくなった。壁や地面に潜る術でもあるかと思う素早さで。


 (見た目に豊かでも、人の心は酷い有り様ね)

 追いかけるまででない。それに悪いのは、子どもたちに良からぬ知識を植えつける大人だ。

 意識して息を吐き、自身の長い黒髪を撫でる。長旅では結うのも億劫で、布を巻くのが精々だった。


 手櫛を何度か通し、春海チュンハイはまた歩き始める。数日、雨の臭いもしなかったのに。濡れて湯気の立つ道を。

 慣れぬ潮の風味が腐臭に感じ、鼻と口を手で覆いながら。


 炎天下、両側に続く平屋は影を作ってくれなかった。

 皇都の何百年の街並みとは違う。新しい建物ばかりで、金塗りはおろか朱の柱の一本さえ見えない。


 やがて町の中央と見える広場へ差しかかると、ようやくちらほら、目に朱色が映る。建物の背丈は倍に伸び、長く張り出す二階の軒の下、壁のない外廊下が見えた。

 用向きは種々あろうが、宿屋が多い。客寄せが我先に、旅姿の通行人へ呼びかける。


 素直に従う者、値定めをする者。どうであれ、声をかけられたほうも黙ってはいない。

 誰も彼も忙しく、喧しい往来。一軒の宿前へ、しょぼくれた髭面が箒をつっかい棒に立っていた。


「もし。僧院へはどう行けば良いでしょう」


 前で襟を合わせる、腰下までのゆったりとした着物。同じく余裕のある長褲ズボン。どこへ行こうが、誰だろうが、この服装は変わらない。

 ただし男からは、ひと月ほども熟成した香り・・がする。


 客商売として清潔さに欠けた。が、道案内には問題なかろう。そういう判断で春海チュンハイは声をかけた。

 思った通り、男の手がすぐに動く。しかし行く方向のいずれかを示す、という予想は外れた。


「ええと——」


 手相でも見よと言うのか、男は手の平を春海チュンハイに差し出した。

 真似ごとくらいはできるが、それこそ寄進をしてもらわねば戒律に背く。だいいち男は、どうしてこの十六の小娘を僧の見習いと知っているのか。


 (僧服を着ているから?)

 故郷の僧院を出るとき、春海チュンハイは生色の僧服を纏った。赤黒い泥はねを除けば、今も同じ。

 目の前の男や、通りの反対を急ぐ気風のいい女と変わらぬ仕立て。唯一、手を下ろせば地面に着いてしまう長い袂が特別だが、たすきで縛ってあった。


「可愛い嬢ちゃん、なにをぼんやりしてる。人にものを訊ねるなら、銭を出すんだよ」


 急かして、男の手の平が上下する。周囲に気を配る素振りもない。

 春海チュンハイは重くゆっくりとまばたきをし、胸に淀む息を吐いた。


「なんだ銭なしか。じゃあ祈るしかねえな、僧院へ着きますようにって。なあに、神様に好かれてりゃ迷いやしねえ。迷うのは、来るなってことさ」


 鼻で嗤い、男は箒を動かし始める。多少の落ち葉があろうと見向きもせず、でたらめに砂を撫でるだけだが。


「ありがとう」


 春海チュンハイは右の拳を胸の高さに、それをすぐさま左の手で隠す。

 (教えてくれて助かるわ。それがこの街の作法ということね)


 皮肉なく礼を言ったつもりだが、もはや男は春海チュンハイを見ていなかった。

 道を聞かれたのも忘れたように、ぼんやりと広場を眺める。おかげで背を向けても病まずに済む。


 と。

 聞き慣れた音が耳に這い入る。荷車のような、木造の車輪を回す音だ。

 どこから、と探す必要はなかった。振り向いたばかりの視界、ほぼ中央。


 車輪ごとき、なぜ気になるのか、と考えるまでもなかった。見える限り、一人残らず、同じ音に顔を向けている。

 今までなにをしていた者も、完全に手と口の動きを止めて。


 ガラ……

 音の根本に、黒い塊が二つ。人の形をして、歩く。

 手前が四十ほどの中年男。墨に浸けたがごとき着物と長褲ズボン。手には抜き身の大鉈。


 ガラ……

 ひと足ごと、そこに地面があるかたしかめるようにゆっくりと。中年男と歩調を合わせ、後ろの若者も足を動かす。

 二十歳に届いているか。斑に黒い着物の腰へ、春海チュンハイでも扱えそうな手斧。


 ガラ……

 音の正体は、若者が握った。

 文字通り、若者は手に綱を牽く。繋がるのは赤黒く土に汚れた木箱。これに両手を合わせた大きさの車輪が八つ。

 微かな軋みと土に噛みつく音を立て、二人とひと箱は春海チュンハイに向けて歩む。


「おい屍運かばねはこびだ——」


 近くに居た男たちが声をかけあい、後退って消えた。いつの間にか宿前の男も居ない。

 春海チュンハイだけが事情を呑み込めず、動けずに居る。


 (あの木箱、まるで棺桶)

 去った男どものしかめた顔、ちょうど人ひとりの入れそうな箱の大きさ。

 直感は、きっと誤りでない。そう感じた春海チュンハイが、どうするか迷うことはなかった。


 中年男も若者も、仮面を被いたように固い顔をした。苦悩面とでも名付ければふさわしい。

 二人を。正確には牽かれた棺桶を、合掌で迎える。


 なぜ死んだか。どこへ運ぶか。そんなことよりも前に、まずは死者への畏敬を示さねばならない。どんな事情があろうと、尊い命を使い果たした誰かを労わぬ理由はないのだから。

 (安んじてお眠りください)

 春海チュンハイが僧でなかったとしても、人として。


 手の届く距離を棺桶が過ぎる。伏せ気味にした視線を、しかし背けはしない。

 中年男は歩む方向を見据え、ただ進む。若者の一瞥とは、視線のぶつかった気がした。だが春海チュンハイも、互いに感情を持たない。少なくとも見える限りは。

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