夜が更ける

愛空ゆづ

こうして今日も夜が更けていく。


終業のチャイムが社内に響いたのはいつの事だったか。

時計の針は20時を回ったことを示していた。

上司が期限を失念していたという急な仕事の対応に追われ、今日も疲労困憊である。

今からだと帰宅は21時頃になり、明日も打合せの為に早朝から出張である。

とても自炊などする気にはならない。


自宅周辺のスーパーも閉店時間を過ぎている為、仕方なくコンビニへ寄り道をする。

値段などは気にせず、目に入ったものをカゴへと放り込んで会計を済ませる。

5分でコンビニを後にし、家へと向かう。

大通りを外れると、徐々に街灯が少なくなり、次第に暗くなってくる。

私の住むボロアパートの入り口にだけ照明が灯っている。


錆びた外階段を上がり、玄関を開ける。

私は家に入ってすぐ、スーツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。

ワイシャツも下着も脱ぎ、洗濯機へ。無駄のない動線だ。

電気ケトルのスイッチを入れ、シャワーを浴びると、ちょうど出る時にはお湯が沸いている。


今日買った品は美味しそうなカップラーメン、ポテトチップス、缶チューハイ2缶。

名前だけ知っている有名ラーメン店の味が手軽に楽しめるようだ。

蓋を開けると、かやく、粉末スープ、液体スープが出てくる。

先入れの粉末スープとかやくを入れ、お湯を注ぐ。


この私の手を煩わせるとは……全く、面倒なことをさせる。

だが、この手間があることで後に幸せとなって帰ってくるのだ。

それだけでは飽き足らず、こいつはなんと5分も私を待たせてくるのだ。

目の前にあるというのに食べることができない。

あれだけさせておいてまだお預けとは、本当に悪魔のような奴だ。



嗚呼、じれったい……



結局、カップラーメンが出来上がるのが待ちきれず、先にポテトチップスと缶チューハイに手を伸ばす。


自分は浮気性なのかもしれないなと自嘲する。


景気のいい炭酸ガスの音が耳に心地よい。

チューハイを一気に喉に流し込み、ポテトチップスを口に運ぶ。

シャワーで暖まり火照った身体に冷えた炭酸とアルコールが染みわたる。

あまりにも暴力的な快感。これを我慢できる人間が果たしてどれだけいるのだろうか。

レモンの酸味と絶妙な塩気に刺激された欲を抑えられなくなる。

その瞬間、スマホが震え、5分経過したこと伝える。



遂に出来上がったのだ、待ち望んでいた大本命が。


フタを開けると昇ってくる蒸気が鼻腔をくすぐる。

これはまさに危険な香りというやつだ。

私ほどになると香りだけで、美味しいかどうかが分かってしまう。


さっとかき混ぜ、口いっぱいに麺をすする。

少し太麺で、食感もカップラーメンと思えないほど良い。

うすめのさっぱりとした味わいの奥に豚骨の風味を感じる。

普段食べているラーメンとはまた違うが、これはこれで美味しい。

この繊細な味はきっとわかる人にしかわからないのだろう。

凡人は理解できないのかもしれないが、私にはしっかりと旨味が感じられる。

具材や麺を残さず食べきり、スープも完飲する。

これほど、さっぱりとした薄味であればいくら飲んでも問題はないだろう。

これが幸福。手間をかけて作ったものは、こんなにも美味しいのだ。


そしてカップラーメン最大の利点はそのまま捨てられるという事である。

洗い物など不要。ゴミ箱に叩きこむだけである。

上司の業務の後始末に追われるように洗い物をする。

そんな手間が生じないとは、なんと素敵な事だろう。

人間が効率よく美味しいと感じるための技術がこの食べ物に詰まっているのだ。



そんな時、私はとんでもない事を思い出す。

知らぬが仏とはよく言ったものである。



仕事の報告書に日付と名前を入れ忘れてしまった事。

会社の消灯をせずに帰宅しまった事。


そんな些細なことはどうでもいい。


問題は、液体スープを入れ忘れていた事だ。


ケトルを濯ごうと思って気付いた、スープが入っている銀色の袋。

味が薄いと感じたのは間違いではなく、これが原因だったのだ。

先ほどまでの感想を全てなかったことにしたい。

周りに人がいなくてよかった。

カップラーメンを早く食べたいと焦って、スープを入れ忘れる……

なんと間抜けな姿だろうか。

鏡の中の私が赤くなってしまっているのは、アルコールのせいだと思いたい。


私はその銀色の袋を見なかったことにして、そっとゴミ箱へと捨てる。

残ったポテトチップスを肴にチューハイを流し込むと、舌の上で濃厚な塩気が桃の甘い香りに塗り替えられていく



「でも、美味しかったし、また買えばいいや」

私は存外前向きな性格だった。

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夜が更ける 愛空ゆづ @Aqua_yudu

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