第3話 離岸流

 ***春、松下吾郎

 松下吾郎は新設の普通科公立高校に赴任した。教育委員会の顔役である舅の根回し人事だった。

 新設校は優れた教師が集められたことが評判となり、初年度の入学試験の偏差値は地区の上位校と伍することとなった。


 松下は42歳、数学の教師である。ここでは教務主任も務めるので校長、教頭に次ぐポジションとなる。ここで実績を上げれば管理職としての大きなステップアップになる。


 教務主任は校長からの任命だが、職位が上がるというわけではない。

 ある意味中途半端な身分で、校長や教頭に言い難い不満は松下にぶつけられる。

 優秀な教師は一家言持つ人が多い。教え方にも様々な方法がある。各教師への丁寧な対応が求められる。

 また、教務主任の松下は同年代教師のやっかみの対象にもなっている。

「松下先生、義父さんの任期はあと何年ですか?」

「教務主任を務める人間として、これはどう考えますか?」

熱心なのか嫌がらせなのか分からないプライベートなSNS で深夜まで追いかけられる


 妻は夫の愚痴を聞いてくれるタイプではない。旧家の娘としての品位とプライドが鼻先にぶら下がっている。器量の良さと相まって若いときには魅力に思える特質だったが、今は家に居ても寛ぐことができない。


 激務の一学期が終り夏休みに入った。教務主任としての仕事は少なくなった。担任クラスの仕事は比較すればストレスは少ない。

 副担任の森舞子は大学を卒業したばかりの英語の教師、人懐っこいが芯は強そうな娘だ。協力的なのが助かる。


 ***夏、森舞子

 もともと愛想の良い舞子はそれなりに上手く職場に順応していた。


 舞子の愛想の良さは自然なものではなく、人との距離を取るのための手段だった。幼い頃から、親に対してさえも気を許すことができずにいたし、これまで付き合った恋人もいない。


 そんな舞子にとって、松下の学校での人間関係の苦労はよく分かる。

 そんな中でも新人副担任への気配りを欠かさない松下を慕うようになった。


 夏休みの午後、舞子は松下と二人、職員室で仕事をしていた。夕立が降り始めた頃、冷蔵庫に残っていた缶ビールを取り出し手渡した。

「えっ、まだ仕事が残っているけどいいのかなぁ」松下は苦笑いした。

「今日はクラブ活動の生徒もいないし、サービス出勤だしいいじゃないですか」乾杯するように缶を掲げた。


 激しい夕立が街の音を消し、話す二人を近づけた。ほどなくして舞子は松下を部屋に誘った。


 ***秋

 二学期、松下は激務の日々に戻った。心療内科に通い薬を飲むようになった。舞子とのひとときだけ心が休まる。


 体育祭、学園祭とイベントが続く、準備で帰りが遅くなる。二人は学校から駅への暗くなった道を歩く。同僚教師に見られても大丈夫な間隔を保ちながら肩を並べる。


 ー手を握りたい。腕を組みたいー歩きながら舞子は思う。

 ー私が彼を救うー学校で、短い逢瀬の中で、松下を一心不乱に愛するようになっていった。


 ***冬、松下晴子

 夫には最低限、校長になって貰わないとと思う。松下晴子の女友だちの夫は県会議員や地元企業の役員、大企業の部長クラスだ。

 晴子の父も小さいが同族会社の役員をしながら教育委員会の役を引受けている。


 その夫だが、近頃、帰宅が遅く休日出勤が多いことが気になっていた。入学試験や新年度の体制作りなど忙しいのだろうと思っていた。

 しかし、正月4日、外出から帰宅した夫の財布に知らないスーパーのレシートを見つけた。


 ***二度目の春

 松下が妻から調査会社の報告書を突き付けられたのは3月半ばのホワイトデーの日だ。

 妻はサバサバした口調で

「噂にならないうちに別れて下さいね」それだけを告げた。


 松下にとって離婚は全てを失う。

 不倫教師を採用する学校はない。舅を敵に回すと塾の教師の口もないかもしれない。


 何もかもどうなってもいい。心身とも疲れ果てていた。妻に説明や言い訳をする気力もない。夫としても教育者としても失格なんだろう。


 翌日、松下は学校で機会を見つけ舞子に話した。

「妻が知ってしまった。僕は君と生きていくための金を稼ぐことすらできない」

 舞子は沈黙した。しばらくして、

「生きていかなくても、いいじゃないですか」真っ直ぐ松下を見つめ低い声で言った。続けて、

「生徒のこともあるので三学期の就業式までは仕事ですね」今度は明るい声で言った。


 春休みの後半一週間、舞子が海辺の宿を取った。


 ***春の終り

 宿を出た朝、松下は細い山道を登った岸壁の横で車を停めた。座ったまま二人は松下の左手首と舞子の右手首を深紅の紐で結んだ

「いい?」

「はい」舞子が答える。

 アクセルを強く踏む。眼下の海に向かって走り出す。ガッガガッ!群生した低木に車が掴まり進まなくなった。


 松下は舞子の顔を窺った。舞子は松下の瞳に揺らぎを見た。舞子は、

「降りましょう」紐を解きながら毅然と言った。遅れて車から出てきた松下に、

「手伝って」紐の片端を渡す。再び紐は結ばれた。

 松下は抗えない。

 二人は崖の先へと進んで行った。


 ***無季

『公立高校教師が心中。担任男性と副担任女性が海へ飛び下り死体が発見された』

 スキャンダラスな見出しが新聞やネットに躍ったのは新学期初日のことだった。


 マスメディアやネットの論調は定まらなかった。

 教育者の不倫、心中。しかし、責任感が強く、二人は宿泊先でも仕事をして学校に書類を送っていた。ニュースの続報は一週間ほど続き、やがて消えた。


 松下晴子は一般葬を行った。晴子が知らない参列者の方が多い。素性の知れない人、同情の目、好奇の目、夫の生徒たちも多数来た。晴子は凛と応対した。

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斑雪 糸島誠 @BerukPapa

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