彼は誰時

有智

あれは誰なのかはっきり見分けられない時間

 目を開けると暗いバーのソファーに掛けていた。ほんの少しばかりまどろんでいたようだ。

肘掛けに指を滑らせると馴染みの傷が触れた。

 通いなれた店の気に入った席だった。重心が動くたびに革張りのシートのギュという音が鳴る。

 通わなくなって一年は経つか。仕事でやっと結果が出たかなという頃に見つけたもう一つの我が家と言える。気楽な友と飲んだり、何度かは妻も連れてきた。子どもが成人した時人生初めての一杯に付き合ったのもこの店だった。

 ソファの背にもたれかかるようにしていた体を前傾に正して驚いた。もう何ヶ月も体の節々が重く、鈍い痛みに閉口していたが、それが全く感じられなかった。やすやすと腕や首が回る。


 「若さや健康っていいよね。」

向かいの席に目をやると着物姿の女が座っていた。背に見慣れた菜の花畑の油絵がかかっている。印象画風の画面一杯の鮮やかな黄色が、女の色が白くてのっぺりとした地味な顔立ちを引き立てていた。

 「痛くない体っていいでしょう?」

声にハリとしっとりとした響きがある。表情や姿態にどことなく人の目を引く引力があり女から目を逸らすことができない。この顔はどこかで会ったことがあるような懐かしいような気がするのだが思い出せない。

 「ここは?」

と間抜けな質問をしてみた。

「お気に入りの店でしょう?」

確かによく通った。席もたいてい決まっていて、この右手の木製の肘掛けの裏側の傷は何度撫でたかわからない。傷まで愛した席だった。


 しかし俺はもう体を悪くしてここには随分来ていない。昨日も病院の白い天井を見ながらまぶたを閉じたのだ。寝間着を着て床についたはずだが今はスーツを着ている。


 「死神かい?」

と問うた。鎌を振り上げた西洋風なのと落語に出る死神が同時に浮かんだ。俺の命を取りに来たのか?

 女はうんざりした顔をして

「寿命でしょう?時期が来ただけのことなのに随分図々しい。呆れた。たいていの人はあなたみたいに言うけど。」

言外の自分のイメージを覗かれた感覚があった。女には見えるんだろう。確信があった。

 恥ずかしいよりうんざりさせたことに罪悪感を覚えた。こういう局面に気の利いたことくらい言える人間になりたかったが、凡庸だな。


 「たいていの人よりはあなた面白いけど。」

さっきとは打ってかわって女は愉快そうに笑ってる。

「腰抜かしたり、慌てる人も多いから。準備する時間は山ほどあったはずなのにね。」

「マシな方かい?」

「マシな方よ。」

いそがしく変わる表情や、女の身振り手振りの変化を追いかけるうちにすっかりこの会話に魅了されていた。着地点が見えない会話は久しぶりだ。




 「今から俺はどこに行くんだ?」

気になってつい言葉に出た。多分慣れた質問だろう。女は

「どんな準備も足りないし間に合わないところ。」

ときっぱりと答えた。それ以上何も言わないぞという顔だった。

 あきらめてなにか会話の糸口になることを考えた。ずっと続けていたいほど心地よいやりとりだ。

「いつでもそういう姿なのかい?」

やはりつまらない質問しか出てこないな。女は長い髪を後ろにまとめてお団子にしていた。普段着のような臙脂色に絣模様の着物を着ている。よそいきには見えない。

 しかし、ちょっとした袖の捌きや指先に奇術師の手元を見るように惹きつけられる。そこに、姿こそ人間だが中身は妖力を具えた人ならざるものであろう説得力があった。


 「そういうわけじゃないわ。人によって姿は変わるのよ。」

「願望が影響しているのか?」

自分はお迎えの使者にこういう顔をしていてもらいたかったのか?という考えが浮かんだ。浮かんだ考えに呼応するように、

「まぁこういう姿に意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。」

と言って女が微笑んだ。と自分のまばたきのうちに、幼稚園の制服を着て黄色い帽子をかぶった男の子に変わった。六歳くらいか。先程まで女が座っていた向かい側のソファーににこにこ笑って腰掛けて、地面につかない足をぶらぶらさせている。皮のシートがギュギュと鳴る。

幼稚園の制服はどことなく孫の着ていたものに似ている。


 「意味はね。あるかもしれないし、ないかもしれないんだよ。」

と男の子はえいっと床に着地するとカウンターの方に歩きだした。振り返って目で追うと男の子はもうさっきの女に変わっていて、カウンターの上の飲み物を二つ持って戻ってきた。

「まぁお飲みなさいな。」

とビールを俺の前に置くと、先程の席に座り直した。女が持ってきた飲み物はクリームソーダだった。

 「もうしばらくよ」

グラスに口をつけて、ビールがゆっくり喉を落ちるうちに、それが自分の寿命を指しているのを理解した。

「どのくらい?」

「ここまで来たら細かい時間の計測なんて無意味でしょう。あるといえばあるし。ないといえばない。ちょうど必要なだけ時間がある。もうしばらくよ。」

ここは現実ではなさそうなので、たしかに夜明けの何時何分までと言うのも意味はないんだろう。きっとこの女はぎりぎりまで必要なだけ時間を引き伸ばしたり、あるいは縮めたりする。

などと考えて少し可笑しくなった。俺はこんな非現実的な考えに納得するような性分ではなかったからだ。

「何に必要な時間だい?」

これは不味くない質問だろう。女がやっと話が本題に入ったなという顔をした。

「その話をしましょうよ。」



「私は人の後悔の話を聞くのが大好きでね。あなたの後悔をこの機会に是非聞かせてほしいわ。」

女の目はらんらんと輝いていた。吸い込まれるようだった。こんな目を見たことがある。


 俺は西洋料理の料理人だった。地元をでてコネもなく、最初は小さなレストランに修行にでて、腕を磨いて引き抜かれ大きなホテルの総料理長までやった。新しい料理も考案して喜ばれた。

 クローシュが開き目の前に待った料理が現れる前のお客さんの期待と喜びの入り混じった目を思い出した。女も同じ顔をしている。

 そのことがおもしろくて、そして俺もいつの間にか寛いだ気持ちになって答えた。

「後悔なんかないよ。いい人生だった。」


 俺は田舎で育った。二人兄弟で弟がいる。進学するつもりはなく、高校を卒業してすぐ働いた。求人を探して条件にあったのが街中の料理人募集だった。

 父親は反対しなかった。厳しい世界だったが良い先輩に出会い、食らいついて技を盗んで精進した。引き抜かれたり賞を獲ったり、運に導かれるまま成功と言える人生を送ることができた。

 父親を送った後に、四十すぎの若い弟を亡くしたのはこたえたが、日にちが薬になった。家族も持った。子や孫も元気にしている。ほんの一年前体を悪くするまで、なんやかや料理の世界に関われたし、なんの不満もない。


 「本当に?」

束の間の回想から戻ると女はストローをくわえてクリームソーダを盛大に吸い込んでいた。

見ると、ソーダのグラスの右側にクリスタルのちいさなカップがおいてある。その中の小さな粒をつまむと口に放り込んでガリガリ噛みだした。金平糖だった。

 この店の照明は暗いがテーブルの真ん中にまるでスポットライトのように光が当たってグラスが本当に美しく映えるのだ。いつの間にか主役が俺達のグラスからクリスタルのカップに交代していて、金平糖は見事に美しかった。憎らしいほど美しいが自分は金平糖が嫌いだ。

 「なぜ嫌いなの?」

女が左手に小さい包をのせて見せた。四角い和紙の包に千代紙をかけた金平糖だ。自分はこの包を見たことがある。

「最後に見たのは?」



 そう、最後に見たのは生家の籐のくずかごに投げ入れた時だった。後ろでは弟がびっくりして口を開けている。あの日を覚えている。この後口をゆがませて弟が泣き出すのを知っている。決して振り返りはしなかったが俺はわかっていた。

 しかし、どうしてもこの包を握りしめたり、懐に入れたり、持っていたりはできなかった。

それは幼い時に家を出ていった俺の母からの贈り物だったからだ。



 俺の母親は五才の時に家を出た。弟は二歳だった。事業をしていて割と裕福な家だったが姑と折り合いが悪く、時折蔵の陰で泣いていたのを覚えている。弟が二歳の時にとうとう母はこらえきれなくて家を出た。あれじゃ心が折れてもしかたなかったと、後になってから親戚から聞いた。無計画に家を出たもんだから帰るに帰れないし、子どもにも会えない。

 俺はお別れの言葉も交わせず母を失った。


 最初のうちはいつかひょっと帰ってくるんじゃないかと期待したり、遠くから自分を見てるんじゃないかと、やたらとあちこちうろうろした。だが、小学校に上がって1年も経つ頃には、ああ、もうそういうことは絶対にないんだなと納得した。

 母は消えたのだ。母が悪いわけじゃないのはわかっていた。とにかく消えたのだ。それ以上のことを自分がなにか思っても無駄だ。

 嫌味を言う祖母を嫌って俺は笑わなくなった。高校を卒業したらいち早く家を出て帰らないつもりで就職した。継いでほしい気持ちもなくはなかったろうが、子どもから母親を取り上げた罪滅ぼしか、父親が継げということは一度もなかった。なんなら、盆暮れに帰省することを求めることも少なかった。


 出ていった母が帰って来たことが一度だけあった。学校から帰ってくると弟が家から飛び出てきた。

「兄ちゃん、お母ちゃん帰って来とるよ。駅におる。お土産貰った。お兄ちゃんの分もある。お母ちゃん、お兄ちゃんに会いたいって。駅で待ってるからすぐに行きなよ。」

弟は来年小学校に上がる年頃だったと思う。一日中頭に浮かんだことを話しているほどお喋りだったが、その日は浮かれていつも以上に言葉が止まらないようだった。

 俺は言葉もなかった。昼間弟を預かっているご近所に母から連絡が入って、ほんの少しの間駅で顔を合わせるということになったらしい。預かり子と散歩してたら、たまたま駅で別れた母親とばったりなら誰も傷つくまいということだろう。当時はそんな大人の事情を考える余裕もない。

 俺は家の中に黙って入った。弟は追いかけてまだ嬉しそうにはしゃいでいる。

「お兄ちゃんも会いに行きなよ。待ってるよ。これもらったよ。」

と差し出して来たのが金平糖だった。

 弟は覚えていないだろうが、一緒に暮らしていた頃、時々母と一緒につまんだ。そういう、どう考えていいかわからずにいた記憶が浮かんで混乱した。

 ひどく乱暴にそれを掴むと思いっきりくずかごに投げ入れた。背中で弟がびっくりしているのがわかる。目を丸くしているだろう。ほんの少しの間静かになったあとで思いっきり息を吸う音がして盛大に弟は泣き出した。

 俺たちは割と仲がいい兄弟でこんな風に泣かせたことはない。背中を向けたまま部屋を出て裏山に行った。何をするでもなく枯れた枝の落ちたのをポキポキと折ってそれで地面をなぞった。

 日が暮れると家に帰った。事の次第は父親の耳にも入っていたようだが何も言わなかった。くずかごの金平糖は片づけられていて、この日の事件について遠出から帰った祖母が勘付くようなものはもうどこにもなかった。

 父親に言い含められたのか弟は何も言わなかった。眠る前に先に床についた弟に一言だけ「ごめんな」と伝えた。布団に頭をうずめて小さく「うう」と丸まった弟を覚えている。



 俺はなぜあの時母親に会いに行かなかったのだろう。

 それから数年して母は体を悪くして亡くなった。急に具合が悪くなって、勤めを二、三日休んでいるうちに一人下宿先で亡くなった。嫁ぎ先から逃げたことに腹を立てていた実家も急な不幸にびっくりして悔やんでいたそうだ。行李の中に俺たちに当てた手紙が二、三通見つかったそうだが行方はしれない。もしかしたら嘘だったのかもしれない。今まで一度も手を合わしたこともないし、どこに墓があるかも知らない。身内の誰かに聞けば教えてくれただろうけど俺は聞かなかった。


 「会いに行きたかった?」

長いスプーンでアイスクリームをつついていた女が、顔を上げてこちらをまっすぐに見た。 弟が駅前で母親に会った時「喫茶店でクリームソーダを頼んだんだ」と話していたのを思い出した。


ソーダがパチパチして痛かった。

色がきれいだった。

アイスクリームが美味しかった。


 先程の男の子は…とふと思う先に女の姿がさっきの男の子に変わった。

「お兄ちゃん、クリームソーダ美味しいね」

にこにこしている男の子はたしかにあの時の弟で、俺はどうして忘れていたんだろう。こんなに可愛い子を俺は泣かせたのだな。

「お兄ちゃんも会いに行けばよかったのに」

と弟はぷうと頬を膨らました。


 会いに行きたかった。会いには行きたかったのだ。でも俺は腹を立てていた。一言も別れの言葉もなくいなくなった母に文句を言いたくてたまらなかった。会えば必ず気持ちをぶつけてしまう。そうすればきっと母は泣くだろう。傷つけることがわかっているのに会えなかったんだ。会いたくて駅の方に走り出しそうだった。だから必死で反対の方向に走り出したのだ。

 弟の顔を見ているうちに、自分がなぜあの日母に会いにいかなかったのか、俺ははっきり自覚した。母を憎んでいるんだとばかり思っていた。そういう自分が嫌で必死に考えないようにした。そうして忘れていたんだ。

「会いたかったよ。」

と呟いた。

「会って文句の一つも言いたかったけど、言うとお母ちゃん泣くだろう。泣いた顔を見るのが嫌だったんだよ。」

 しばらくの静寂の後、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。膝に落とした目を上げると弟は女に変わっていた。聞き覚えのある懐かしい優しい声だった。やっと思い出した。どこかで会った懐かしい顔は母親の顔だった。女の顔は母の顔だった。


 何かを言いたかったが何も言えなかった。ただだだこの人の顔を見たかった。写真の一枚もなく、記憶にある姿は朧だった。ああ、こういう顔だった。

 この人の笑っている顔が好きだった。覚えていたかったのに忘れていたんだ。


 気がつくとあの日の懐かしい家から走り出していた。小学生の俺は右手で弟の手を取り、左手に金平糖の包を握っている。駅へ行くのだ。お母ちゃんに会いに行く。近道を行く。菜の花が咲いて一面黄色の中を俺と弟が駆けていく。ここを抜けるともう駅は近い。

 弟は笑っている。俺も笑っている。風を切る。息が上がるが楽しみで仕方ない。


 と景色が点描の絵画のようになった。弟も俺も同じように小さな点の集合になっていた。

体が細かな点になり、握っていた金平糖と左手の境が淡くなる。左手に甘い感覚と母との思い出が溶けていく。右手の弟と繋いだ手も、もうどこまでが俺でどこまでが弟かわからない。つなぎ目で弟の記憶や俺を慕ってくれていた温もりが一緒になる。頬を切る風も俺であり、菜の花の黄色も俺だった。この道も俺であり、空の雲も俺だった。縮伸自在となった俺は高くなり、駅に立つ母が点描となり風に溶けてこちらに流れ込んでくるのを感じた。点が粒子となり混ざりあい、世界が印象画のように俺に溶け込んで母の記憶と心が俺自身になった。


 母はあのあと二度俺たちに会いに来ていた。見つからないようにそっと必死でその姿を目に焼き付けた。

 亡くなる時に思っていたのは「子どもを連れて出なくて良かった。」ということだった。

こんな死に目に巻き込むことがなくて「良かった」と安堵したのだ。

 何もかも溶け込んだこの世界で最後に残った目と口で俺は泣いていた。



「これでも私を死神って思う?」

と女が後ろで囁いた。

「いや、思わないよ。」

と呟いて、それから「ありがとう」と言う前に俺はこの世界に溶けていった。



                    了

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彼は誰時 有智 @arisatoarisu

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