泣けない神と優しい男
黒鉦サクヤ
泣けない神と優しい男
「泣く時は声を上げて泣きなさい。そうじゃないと、誰にも気づいてもらえないよ」
そう言ったあのひとは、声を上げずに死んだ。
実際にはどうだったかは分からない。彼が亡くなったことを、私は風の便りで知ったからだ。
彼とはとても親しかったけれど、そのことを誰も知らない。それに、私のことを知っている者は、彼しかいない。
私はこの村にある神社に祀られている狐だ。いつもは姿を隠し人々の願いを聞くのだけれど、代替わりしたばかりで、うまく馴染めていないところを彼に見つかった。
それから、彼との交流が始まった。
一人は寂しくないか、お腹は空いてないか、と私を人と同じように気遣う彼の優しさが嬉しかった。彼が姿を見せる度に嬉しくて尻尾が揺れてしまうのを、こっそり後ろ手でおさえたこともある。
私は彼のことを好ましいと思っていた。
「君はずっとここに一人なのかい?」
「神である限りそうだろうな」
「そうか。私が居なくなったら……まぁ、まだ先の話はいいか」
そう言って寂しそうに笑うのを横目で眺め、心の中でため息を吐く。もうずっと前から、私はそのことを考えてきた。
きっと私は悲しむと思う。ポッカリと穴のあいた、そんな言葉では言い表せないほど彼の居ない日々は辛いだろう。
村人たちは交代でこの社を丁寧に掃除してくれるが、神ではない私自身のことを心配してくれるのは彼だけなのだ。誰もいなくなる、私を知る人は。
私は生涯、彼のことを忘れることはないだろう。
彼が亡くなったと聞いてからの月日は、気が遠くなるほどの時間と孤独を感じた。幽世に行けば会えたかもしれないけれど、臆病者の私はそこに顔を出すこともしなかった。
神であることは辞められないし、代替わりはまだ先の話だ。一つだけ代替わり後にしたいことがあったけれど、私はそれを胸に秘め、静かに日々を重ねる。
村人たちは変わらず私の社を掃除し、境内では祭事を楽しむ。人々の幸せそうな姿を見て、私は一時だけ寂しさを忘れるのだ。
それを何度繰り返したことだろう。
ようやく、私は代替わりの時を迎えた。
私は人になることを望み、人間の体を手に入れる。考えていたのはこれだった。
人間である彼がどんな気持ちであの言葉を吐いたのか、人間となれば知ることができるのではないかと思ったからだ。
神の身のままでは、人と同じ豊かな感情を持つことはなく、泣くこともできない。寂しい、楽しいといった気持ちは分かっても、心を揺さぶるような激しい感情は抑えるよう言われていたからだ。
強い力を持つ者は、その感情に引きずられて災害を引き起こしてしまう。力の暴走を起こした者は処罰され、未来永劫牢に繋がれるのだ。
彼はよく声を上げて泣いていた。その気持ちを知りたいと思った。
私は、彼とよく過ごしていた縁側に腰掛け、彼のことを思う。何百年と経った今も、彼のことは鮮明に思い出せる。
表情がころころとよく変わる男だった。
皆にも優しかったのだろうけれど、狐は油揚げが好物だと聞いた、と手土産を持ってきてくれるのは彼だけだ。照れ臭そうに笑いながら頭をかく姿も目に焼き付いている。優しかったそんな彼が愛おしく、今隣にいないことがこんなにも悲しい。
その時、目から雫が溢れた。
これが涙だ、と思うけれど封印していた気持ちがあふれ出したからか、涙はあとからあとからこぼれ頬を濡らす。
私は、初めて声を上げて泣いた。
胸をかき乱す、こんなにも大きな感情があったことに驚いた。どうやって今まで抑えていたのかも分からない。
彼は私と過ごした日々をどう思っていたのだろう。一緒にいることが好きだと言われたことがあるけれど、最後まで楽しく過ごせたと思っていてくれたらいい。そして、亡くなる前に、彼もこんなにも苦しい思いをしただろうか。それを乗り越えて、泣きもせずに逝ったのだろうか。
「会いたいよ」
もう、幽世に行くことはできないから会うこともできない。やはり、神であるうちに行けばよかった。そう思ったけれど、後の祭りだ。
そんな時、どこからか嗅ぎなれた匂いが漂ってきて、流れる涙をそのままに顔を上げる。
そこには出会った時と同じ彼の姿があった。
驚いたからか涙は止まり、呆けたように油揚げを持つ青年を眺めてしまう。その青年には、私だけが分かる印がついていた。彼が寝ている間に、申し訳ないと思ったけれど魂に印をつけたのだ。もし、彼が生まれ変わったら分かるように。
「申し訳ない。泣き声が聞こえたものだから。どこか具合でも悪いんじゃないかと思って……」
記憶を持っていなくても彼だ、と私は笑みを浮かべる。こういう優しいところが好きだった。記憶なんてなくても、魂に刻まれた優しさは変わっていない。
「お騒がせしました。ところで、それは……」
油揚げを指しながら尋ねれば、彼ははにかみながら頭をかく。
「お狐さまにお供えをと思って。あ、一緒に拝んでいきますか? かなりご利益あるって話ですよ。実は新参者で、これからお世話になりますって拝みに来たところです」
「そうなんですか。そういうことなら私もご一緒させてもらいますね。私も新参者なんです」
「そうなんですか! これはいい出会いをしたなあ」
私は彼とともに、つい先程まで自分がいた社に向かう。
以前、彼が言っていたことは本当だった。声を上げて泣いていたら、彼が気づいて来てくれた。
いつも彼が声を上げて泣いたのは、私に気づいて欲しかったからなのだろうか。勝手な解釈だけれど、最期に声を上げなかったのは、置いていくことに気づかれたくなかったのかもしれない。彼は優しい人だから。
私はすっきりとした気持ちで彼の隣に立つ。今度は人間として彼の隣に居たい。彼に優しさを返したい。
そして、今度は彼が泣いたら私が気づこう。そう、心に誓うのだった。
泣けない神と優しい男 黒鉦サクヤ @neko39
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