確かに死んだはずの私が、どうして蘇ったのかはわからない。あれからどれだけの月日が経ったのかさえも。

 けれど、あの人の命を奪った人間たちへの怨みは、いつまでも尽きなかった。

 抜け道からほかの場所へ行こうとしても、見えないにいつも邪魔される。

 雪山のてっぺんまで時間をかけて登ってみても、神なんていなかった。

 なら、私より前に生贄いけにえになった人たちは、何のために谷底へ落とされて死んだのだろう。

 私を守ってくれたあの人が、どうして無残に殺されなければならなかったのだろう。

 裸足で雪や土を踏んでも、痛みも温度も感じない。どれだけ歩いても走っても、疲れず眠くもならない。

 私は神でも人でもなく、あの人と育った土地に留まるだけの存在になっていた。

 村が跡形もなくなったというのに、余所者たちはやってきた。


凍れしね


 ただ一言、私が呪いをぶつけさえすれば、相手は一瞬で凍りついた。人間という人間を滅ぼすために得た力なのだろう。

 ある時は、死んだ村人たちを捜す連中が来た。

「君もこの村に暮らしてたのか? 我々は救助しに――」

凍れしね

 またある時は、くだらない迷信を信じ込んだ子どもが来た。

「ねがいごとがなんでもかなうお花があるって、ほんと?」

「そんなものはない。凍れしね

 私をはらおうと、僧侶も来た。

「あなたは、この地に魂を縛られている。拙僧が今すぐ解き放って――」

凍れしね

 みんなみんな凍らせて黙らせていくのに、人間は次から次へと踏み込んできた。

 けれど、私が殺した奴らは怨霊になって、訪れる人間たちを襲い始めた。私が味わった苦しみを、他人にもわかってもらおうなんて少しも思わないけれど。

 私のやることは減って、山に棲む動物とのんびり接する時間が増えた。兎や栗鼠リス、小鳥を撫でていると、昔あの人と遊んだ出来事もかすかに思い出す。

 もう顔も声も名前も思い出せないのに、一緒に過ごした優しい光景だけはおぼえている。寒村で暮らしていても、あの人のそばにいた時間は特に温かくなれた。

 人間が滅べば、私も心が穏やかになって消えるのだろうか。

 動物たちが巣に帰って寝静まった、ある日の夜。

 深い森に、人間の足音が聞こえてきた。

 村が雪崩なだれに潰されたあの日と同じ、粉雪が音もなく降る中、松明たいまつの光が揺れて。


「君が噂の『雪女』か。こんな美人だなんて思わなかったよ」


 熊の毛皮にも見える上着を着た、若い男。嫌味でもなく、純粋に驚いて感心したような口振りだった。

 入口のほうには怨霊たちがいるはずなのに、どうやってくぐり抜けたのだろう。

 不審に思いながら、私はいつも通り呪いをぶつけた。

凍れしね

 けれど、なぜか松明の火すら消えず、男はきょとんとした顔で立っていた。

「そっか、君の力は言霊ことだまが引き金なのか」

凍れしね凍れしね凍れしねッ」

 呪いの言葉を何度声に出しても、男の様子は変わらない。

 ――どうして……?

 戸惑う私に、相手は困ったような苦笑いを浮かべて答えた。

「ごめん、君のそれは俺には効かない。俺は、生まれつき火の『気』が強いらしくてさ」

「どうでもいい。おまえ……何者?」

「君の魂を鎮めに来た」

 つまり、こいつも僧侶か。それにしては、随分変わった服装だけれど。ぶらりと旅でもしに来たような。

 身構えて後ずさる私に、男は納得したように言う。

「そりゃあ、全国の坊さんや霊能者も手を焼くはずだ。仕掛ける前にやられるだろうし」

「……怨霊たちの気配がないのも、おまえが始末したからか」

「ああ、ちゃんと成仏させた。これでもう、あの人たちもここを彷徨さまよわなくて済む」

「私だって、好きでここにいるわけじゃない。おまえたち人間が滅ばない限り、ずっと――」

「昔ここにあった村が、地図から消えたのは知ってる?」

 知ったことじゃない。村の外で暮らすなんて、あの日までは考えもしなかった。地図に興味もなかった。

「雪崩で村が壊滅したのが発端らしいな。村の人たちを捜しに行った救助隊も警察も、土地を物色しに行った不動産屋も建築業者も、誰一人ここから戻ってこなかった。だから、俺の周りの霊能者たちも言い始めた。あの山には確実にいる、って」

「それで、私のことが噂になった?」

「ああ。入口に着いた時点で霊力が強すぎて、すぐ逃げ帰った坊さんもいたくらいだから」

 なるほど。相手は相手なりに調べていたらしい。

 けれど、この男も殺さなければ、私の心は休まらない。

 男からじりじりと距離を取る私の足は、あの深い谷へと向かっていた。山で気が遠くなるほどの年月を過ごしたら、方向も道順も自然と覚えてしまった。

 私の力で男の命を奪えないなら、熊や猪がこいつを食べてくれたらいいのに。

 私が人間の身体に触ろうとしてもすり抜ける。呪いだけが頼りなのに、まるで効かないなんて。

「村には儀式があったらしいな」

 ゆっくりと私を追いながら、男はまだ語りかけてくる。その口調は、真剣だった。

「山の神の怒りを鎮めて、雪崩の被害を抑えるために、身寄りのない村人を生贄にして谷底に落とすっていう」

「そんなもの、何の意味もなかった。神なんていない」

 男の言葉を遮って、私は吐き捨てる。

「村がなくなってからも、雪崩を何度も見た。あれは神でも人のせいでもなくて、勝手に起こる」

「そう、自然の力だよ。でも昔は、それも神の起こすものだって信じられてた」

「信じてたものは、何もかも嘘だった」

「君は――きっと歴代最後の生贄だったんだろ」

 ただ事実を確かめる声音で、男は言った。

「私が死ぬだけだったらよかった。奴らが、あの人を殺しさえしなければ……っ」

「あの人?」

「大切な友達。私が犠牲になるのはおかしいって、村の外へ連れ出そうとしてくれた」

「けど、それは失敗して……村人たちには許されなかった、ってことか」

 男の足音と二人の声だけが、夜の雪山に響く。

 ゆらゆらと、男の持つ松明の火が揺れ続ける。

 私の呪いを防げるなら、いつでも私を祓えるはずなのに、相手はその素振りも見せない。

 男の本心がわからないまま、谷の近くに出た。

 どうにかして、ここへ落としてしまいたい。

「なぁ、雪女さん」

 谷を通ってくる寒風に吹きつけられても、男は眉一つ動かさない。


「もうやめよう、人を怨むのは」


 逆に、私の眉が吊り上がった。頬も引きつる。

「何も知らないくせに、よくもそんな……ッ!」

「君が憎んだ村人たちも、村も消えた。復讐は叶ったはずだ」

「私たちがいなくなっても、別の人間たちがまたここで暮らそうとする。同じことを二度と繰り返さないとでも思ってるの?」

「君の生きてた時代とは違って、もう儀式なんかに頼らなくても済むんだよ」

「それでも、人間は人間を殺す。ずっと一緒にいた仲間ですら、平然と」

現代いまの人間は、罪を犯した人間を法で裁く。君がこの世に留まって、他人の罪まで背負う必要なんてないよ」

「だったらどうして!」

 声を張っても、もう白い息なんて出ない。

 男をにらむ目にも、涙なんてにじまない。


「どうしてあの時、誰も私たちを助けてくれなかったの!?」


 こんな大声で怒鳴ったのは、初めてだった。

 近くの木々から、鳥たちが飛び去る羽音が響く。

「好きだった相手を簡単に嫌いになるくせに! 自分たちに都合が悪かったら見捨てるくせに!」

 村人たちが孤児の私に親切を尽くしていたのは、生贄候補の私がいなくなると困るからだろう。

 ゆるさない。赦せるわけがない。

 切り立った崖のふちを踏みしめて、私は皮肉を込めて聞いた。

「私が飛び降りようとしたら、おまえは手を伸ばすの?」

「ああ」

 何の迷いもなく即答して、男はまっすぐに私を見据える。

「言ったろ、君の魂を鎮めに来たって」

「やれるものなら――やってみろ」

 布団に体を預けるように、私は頭と背中を自然の裂け目へ傾けていく。

 男がすぐに駆け出して、こちらに手を伸ばす。

 自分の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

 ――馬鹿な奴。どうしたって、私には触れないのに。

 これで、こいつも谷底に全身を叩きつけてむごい姿になるだろう。過去の私のように。

 けれど、つま先が地面から離れる寸前。

 松明を放した男の手が、私の腕をつかんで。

 体が、強く引き寄せられた。

 え、と思わず驚きの声が漏れる。

 相手の体温さえ、もう感じないけれど、確かにしっかりと背中を支えられた。


「こんなふうにさせてごめんな、雪羽ゆきは


 思わず謝罪に、目を見開いた。

 こいつが私の名前を知っているはずがないのに、どうして。

 男の声が、切なく耳に流れ込む。

「あの日、俺がおまえをちゃんと護れてたら……おまえだけでも生き延びてくれたら、それでよかったのに」

「まさか……あなたなの? 本当に?」

 信じられない。

 抱きすくめられたまま、私は茫然と立ち尽くす。

「村が雪崩に潰された後、おまえが大声で泣き続けてたのも見てた。人間への憎しみが強すぎて、怨霊になっちまったのも」

「今までどうしてたの? あなたとは、もう会えないと思ってた……っ」

 私の呪いが効かなかったのも、私に触れるのも、あの人の魂がこの男に宿っているからだろうか。

 体を一旦離して、彼は打ち明けてくれる。

「俺はずっと空の高いとこに浮かんで、山を見下ろしてた。この人が来た時、今までおまえを祓おうとした奴らとは違う感じがした。今度こそおまえを止められるかもって思って、俺から頼んだ。雪羽と話をさせて欲しい、って」

「そうだったの……」

「おまえが俺の仇を討ってくれたのは、正直うれしかった。俺も、俺を痛めつけた奴らのことは憎かった。でも、怨んだって今更どうにもならないってわかってたよ。それに――俺の親も友達も、おまえは死なせちまったよな」

 ぎくり、と体が強張こわばった。

 怨みに呑まれた私は、当時の友人たちや、世話になっていたご両親まで手にかけた。それも事実だ。

「……そう、だね」

「優しかったおまえがそんなふうに変わっちまったのは、見ててつらかった。ずっと後悔してた。おまえを怨みから解放する力もなくて」

「あなただって、私を怨んでもおかしくなかったのに……どうして、今も助けようとしてくれるの?」

「おまえと一緒に終わりたいからだ」

 松明の火が、まだ地面でぱちぱちと燃えている。

 凍りついた私の心を、彼の言葉のひとつひとつが溶かしてくれるようだった。

「おまえの言う通り、きっとこれからも人間は人間を殺す。でも、もう俺たちの時代は終わった。ちょっとずつでもいいほうに変わっていけるように、この時代の人間は前に進んでるんだと思う」

 だからさ、と彼は穏やかに微笑む。


「たとえ今から地獄に堕ちるとしても、一緒に罪を償おう、雪羽。今度こそ、ずっとそばにいるから」


 二度と出ないだろうと思っていた涙が、自分の目を覆っていく。

 もっと早く会いたかった。

 もっと早く知りたかった。

 男の胸にしがみつくようにして、私は声を絞り出す。

「ごめんなさい……ありがとう、私なんかのために」

「何言ってんだよ。俺がしたかったからしたんだ。あとは、この人に任せる」

「うん……」

 うなずきながら、私は涙を手の甲で拭う。

 何拍か間が空いて、相手は元の男の口調に戻った。

「さて、と。俺がここに来た意味と理由、わかってもらえた?」

「ええ」

「じゃあ、早速だけどこの火を見てくれ」

 男が取り出した札のような細長い紙が、ぼっと燃え始める。

 赤橙色の火は、松明とは違って辺りの風に吹かれて揺れることもない。

「これが、君らの魂を浄化してくれる。目を閉じて、光を受け[[rb:容>い]]れてくれ」

 うなずいて、私は言う通りにした。あの人と再会させてくれたのだから、信じる価値はある。

 何も感じないはずの体を、湯船に浸かったときのような熱が包み込んでいった。

 その間、私の手をそっと握ってくれたのはあの人だとわかって、口元が緩む。

 まぶたの裏が白く染まって、だんだん薄れる意識の中、最後に男の声がかすかに聞こえた。

「二人とも――どうか安らかに」



 人間のことは、まだ信じきれないけれど。

 あの男のおかげで、希望が少しは持てた。

 雪崩もしばらくは起きないように祈りたい。

 氷雪よりもあたたかな人と、寄り添いながら。

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氷雪よりもあたたかな誰か 蒼樹里緒 @aokirio

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