弐
確かに死んだはずの私が、どうして蘇ったのかはわからない。あれからどれだけの月日が経ったのかさえも。
けれど、あの人の命を奪った人間たちへの怨みは、いつまでも尽きなかった。
抜け道からほかの場所へ行こうとしても、見えない何かにいつも邪魔される。
雪山のてっぺんまで時間をかけて登ってみても、神なんていなかった。
なら、私より前に
私を守ってくれたあの人が、どうして無残に殺されなければならなかったのだろう。
裸足で雪や土を踏んでも、痛みも温度も感じない。どれだけ歩いても走っても、疲れず眠くもならない。
私は神でも人でもなく、あの人と育った土地に留まるだけの存在になっていた。
村が跡形もなくなったというのに、余所者たちはやってきた。
「
ただ一言、私が呪いをぶつけさえすれば、相手は一瞬で凍りついた。人間という人間を滅ぼすために得た力なのだろう。
ある時は、死んだ村人たちを捜す連中が来た。
「君もこの村に暮らしてたのか? 我々は救助しに――」
「
またある時は、くだらない迷信を信じ込んだ子どもが来た。
「ねがいごとがなんでもかなうお花があるって、ほんと?」
「そんなものはない。
私を
「あなたは、この地に魂を縛られている。拙僧が今すぐ解き放って――」
「
みんなみんな凍らせて黙らせていくのに、人間は次から次へと踏み込んできた。
けれど、私が殺した奴らは怨霊になって、訪れる人間たちを襲い始めた。私が味わった苦しみを、他人にもわかってもらおうなんて少しも思わないけれど。
私のやることは減って、山に棲む動物とのんびり接する時間が増えた。兎や
もう顔も声も名前も思い出せないのに、一緒に過ごした優しい光景だけは
人間が滅べば、私も心が穏やかになって消えるのだろうか。
動物たちが巣に帰って寝静まった、ある日の夜。
深い森に、人間の足音が聞こえてきた。
村が
「君が噂の『雪女』か。こんな美人だなんて思わなかったよ」
熊の毛皮にも見える上着を着た、若い男。嫌味でもなく、純粋に驚いて感心したような口振りだった。
入口のほうには怨霊たちがいるはずなのに、どうやってくぐり抜けたのだろう。
不審に思いながら、私はいつも通り呪いをぶつけた。
「
けれど、なぜか松明の火すら消えず、男はきょとんとした顔で立っていた。
「そっか、君の力は
「
呪いの言葉を何度声に出しても、男の様子は変わらない。
――どうして……?
戸惑う私に、相手は困ったような苦笑いを浮かべて答えた。
「ごめん、君のそれは俺には効かない。俺は、生まれつき火の『気』が強いらしくてさ」
「どうでもいい。おまえ……何者?」
「君の魂を鎮めに来た」
つまり、こいつも僧侶か。それにしては、随分変わった服装だけれど。ぶらりと旅でもしに来たような。
身構えて後ずさる私に、男は納得したように言う。
「そりゃあ、全国の坊さんや霊能者も手を焼くはずだ。仕掛ける前にやられるだろうし」
「……怨霊たちの気配がないのも、おまえが始末したからか」
「ああ、ちゃんと成仏させた。これでもう、あの人たちもここを
「私だって、好きでここにいるわけじゃない。おまえたち人間が滅ばない限り、ずっと――」
「昔ここにあった村が、地図から消えたのは知ってる?」
知ったことじゃない。村の外で暮らすなんて、あの日までは考えもしなかった。地図に興味もなかった。
「雪崩で村が壊滅したのが発端らしいな。村の人たちを捜しに行った救助隊も警察も、土地を物色しに行った不動産屋も建築業者も、誰一人ここから戻ってこなかった。だから、俺の周りの霊能者たちも言い始めた。あの山には確実に何かいる、って」
「それで、私のことが噂になった?」
「ああ。入口に着いた時点で霊力が強すぎて、すぐ逃げ帰った坊さんもいたくらいだから」
なるほど。相手は相手なりに調べていたらしい。
けれど、この男も殺さなければ、私の心は休まらない。
男からじりじりと距離を取る私の足は、あの深い谷へと向かっていた。山で気が遠くなるほどの年月を過ごしたら、方向も道順も自然と覚えてしまった。
私の力で男の命を奪えないなら、熊や猪がこいつを食べてくれたらいいのに。
私が人間の身体に触ろうとしてもすり抜ける。呪いだけが頼りなのに、まるで効かないなんて。
「村には儀式があったらしいな」
ゆっくりと私を追いながら、男はまだ語りかけてくる。その口調は、真剣だった。
「山の神の怒りを鎮めて、雪崩の被害を抑えるために、身寄りのない村人を生贄にして谷底に落とすっていう」
「そんなもの、何の意味もなかった。神なんていない」
男の言葉を遮って、私は吐き捨てる。
「村がなくなってからも、雪崩を何度も見た。あれは神でも人のせいでもなくて、勝手に起こる」
「そう、自然の力だよ。でも昔は、それも神の起こすものだって信じられてた」
「信じてたものは、何もかも嘘だった」
「君は――きっと歴代最後の生贄だったんだろ」
ただ事実を確かめる声音で、男は言った。
「私が死ぬだけだったらよかった。奴らが、あの人を殺しさえしなければ……っ」
「あの人?」
「大切な友達。私が犠牲になるのはおかしいって、村の外へ連れ出そうとしてくれた」
「けど、それは失敗して……村人たちには許されなかった、ってことか」
男の足音と二人の声だけが、夜の雪山に響く。
ゆらゆらと、男の持つ松明の火が揺れ続ける。
私の呪いを防げるなら、いつでも私を祓えるはずなのに、相手はその素振りも見せない。
男の本心がわからないまま、谷の近くに出た。
どうにかして、ここへ落としてしまいたい。
「なぁ、雪女さん」
谷を通ってくる寒風に吹きつけられても、男は眉一つ動かさない。
「もうやめよう、人を怨むのは」
逆に、私の眉が吊り上がった。頬も引きつる。
「何も知らないくせに、よくもそんな……ッ!」
「君が憎んだ村人たちも、村も消えた。復讐は叶ったはずだ」
「私たちがいなくなっても、別の人間たちがまたここで暮らそうとする。同じことを二度と繰り返さないとでも思ってるの?」
「君の生きてた時代とは違って、もう儀式なんかに頼らなくても済むんだよ」
「それでも、人間は人間を殺す。ずっと一緒にいた仲間ですら、平然と」
「
「だったらどうして!」
声を張っても、もう白い息なんて出ない。
男をにらむ目にも、涙なんてにじまない。
「どうしてあの時、誰も私たちを助けてくれなかったの!?」
こんな大声で怒鳴ったのは、初めてだった。
近くの木々から、鳥たちが飛び去る羽音が響く。
「好きだった相手を簡単に嫌いになるくせに! 自分たちに都合が悪かったら見捨てるくせに!」
村人たちが孤児の私に親切を尽くしていたのは、生贄候補の私がいなくなると困るからだろう。
切り立った崖の
「私が飛び降りようとしたら、おまえは手を伸ばすの?」
「ああ」
何の迷いもなく即答して、男はまっすぐに私を見据える。
「言ったろ、君の魂を鎮めに来たって」
「やれるものなら――やってみろ」
布団に体を預けるように、私は頭と背中を自然の裂け目へ傾けていく。
男がすぐに駆け出して、こちらに手を伸ばす。
自分の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
――馬鹿な奴。どうしたって、私には触れないのに。
これで、こいつも谷底に全身を叩きつけて
けれど、つま先が地面から離れる寸前。
松明を放した男の手が、私の腕をつかんで。
体が、強く引き寄せられた。
え、と思わず驚きの声が漏れる。
相手の体温さえ、もう感じないけれど、確かにしっかりと背中を支えられた。
「こんなふうにさせてごめんな、
思わず謝罪に、目を見開いた。
こいつが私の名前を知っているはずがないのに、どうして。
男の声が、切なく耳に流れ込む。
「あの日、俺がおまえをちゃんと護れてたら……おまえだけでも生き延びてくれたら、それでよかったのに」
「まさか……あなたなの? 本当に?」
信じられない。
抱きすくめられたまま、私は茫然と立ち尽くす。
「村が雪崩に潰された後、おまえが大声で泣き続けてたのも見てた。人間への憎しみが強すぎて、怨霊になっちまったのも」
「今までどうしてたの? あなたとは、もう会えないと思ってた……っ」
私の呪いが効かなかったのも、私に触れるのも、あの人の魂がこの男に宿っているからだろうか。
体を一旦離して、彼は打ち明けてくれる。
「俺はずっと空の高いとこに浮かんで、山を見下ろしてた。この人が来た時、今までおまえを祓おうとした奴らとは違う感じがした。今度こそおまえを止められるかもって思って、俺から頼んだ。雪羽と話をさせて欲しい、って」
「そうだったの……」
「おまえが俺の仇を討ってくれたのは、正直うれしかった。俺も、俺を痛めつけた奴らのことは憎かった。でも、怨んだって今更どうにもならないってわかってたよ。それに――俺の親も友達も、おまえは死なせちまったよな」
ぎくり、と体が
怨みに呑まれた私は、当時の友人たちや、世話になっていたご両親まで手にかけた。それも事実だ。
「……そう、だね」
「優しかったおまえがそんなふうに変わっちまったのは、見ててつらかった。ずっと後悔してた。おまえを怨みから解放する力もなくて」
「あなただって、私を怨んでもおかしくなかったのに……どうして、今も助けようとしてくれるの?」
「おまえと一緒に終わりたいからだ」
松明の火が、まだ地面でぱちぱちと燃えている。
凍りついた私の心を、彼の言葉のひとつひとつが溶かしてくれるようだった。
「おまえの言う通り、きっとこれからも人間は人間を殺す。でも、もう俺たちの時代は終わった。ちょっとずつでもいいほうに変わっていけるように、この時代の人間は前に進んでるんだと思う」
だからさ、と彼は穏やかに微笑む。
「たとえ今から地獄に堕ちるとしても、一緒に罪を償おう、雪羽。今度こそ、ずっとそばにいるから」
二度と出ないだろうと思っていた涙が、自分の目を覆っていく。
もっと早く会いたかった。
もっと早く知りたかった。
男の胸にしがみつくようにして、私は声を絞り出す。
「ごめんなさい……ありがとう、私なんかのために」
「何言ってんだよ。俺がしたかったからしたんだ。あとは、この人に任せる」
「うん……」
うなずきながら、私は涙を手の甲で拭う。
何拍か間が空いて、相手は元の男の口調に戻った。
「さて、と。俺がここに来た意味と理由、わかってもらえた?」
「ええ」
「じゃあ、早速だけどこの火を見てくれ」
男が取り出した札のような細長い紙が、ぼっと燃え始める。
赤橙色の火は、松明とは違って辺りの風に吹かれて揺れることもない。
「これが、君らの魂を浄化してくれる。目を閉じて、光を受け[[rb:容>い]]れてくれ」
うなずいて、私は言う通りにした。あの人と再会させてくれたのだから、信じる価値はある。
何も感じないはずの体を、湯船に浸かったときのような熱が包み込んでいった。
その間、私の手をそっと握ってくれたのはあの人だとわかって、口元が緩む。
まぶたの裏が白く染まって、だんだん薄れる意識の中、最後に男の声がかすかに聞こえた。
「二人とも――どうか安らかに」
人間のことは、まだ信じきれないけれど。
あの男のおかげで、希望が少しは持てた。
雪崩もしばらくは起きないように祈りたい。
氷雪よりもあたたかな人と、寄り添いながら。
氷雪よりもあたたかな誰か 蒼樹里緒 @aokirio
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