Phase.2 乳母アニーの懇願
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それからまた一段と話に花が咲き、いつの間にか日の長い五月の空も夕陽が斜めに射すようになった。
「それじゃ、また今夜の〈ルナ・クレセンテ号〉で」
ひとまず先に戻ろうと折を見て立ちかけると、濱島が慌てて押しとどめた。
「まあ、待てよ、豊太郎。今から宿屋に戻ってもどうしようもないだろ。久しぶりの再会だし、今日は充分に語り合おうじゃないか。さあ、我が家にいこう! さあ、さあ!」
このように夫人ともども切に勧めてきたので、元来、無遠慮な私は、それならそうしようと宿屋の手荷物は商館の使いに任せ、三人揃って一緒に出発することになった。
様々な豪華なもてなしを受けて夜の八時頃になると、この商館の従業員を始め、メイドや御者に至るまで、一同が集まって送別の催しをするというので、私も招かれてそこに同席することになった。春枝夫人は世にも優れた慈愛に満ちた人で、日出雄少年も彼らの間でとても可愛がられていたので、誰もが別れを惜しんだ。
しかし、主人の濱島は東洋の豪傑のように泣くことなどは大嫌いな性質だったので、一同はその心を汲んで、表面で涙を流す者は一人もいなかった。
いや、ただ一人だけ、とくに私の目に止まった者がいた。
それは席の末座に連なっていた一人の年老いたイタリア婦人だった。この女は日出雄少年の乳母にと、遠い田舎から雇い入れた女のようで、背の低い白髪頭のごく正直そうな老女だったが、先ほどよりしゅんと頭を垂れて、ちょうど死の旅路に就く人物を見送るように、しきりに涙を流している。
私はなぜか知らないが、それが異様に感じてしまった。
「あら、アニーがまたつまらぬことを考えて泣いているわ」
そう言って春枝夫人は夫の顔を眺めるが、「気にするな」と濱島は言った。
今宵の集いが終わると、十一時も間近となった。いよいよ〈ルナ・クレセンテ号〉に乗り込む時刻になったので、私は濱島の家族と同じ馬車で、多くの人に見送られながら波止場に向かった。
船を待つ間、港のカフェで休憩することになったが、ここで親子の間で、それぞれ別れの言葉もあるだろうと思ったので、私は気を利かせて一人離れて波打ち際へと歩き出した。
この時だった。ふと気づくと、何者かが私の後をこそこそと尾行しているようだ。おや、なんだと振り返ると、途端にその影は転がるように私の足下に走り寄ってきた。見ると、それは先刻の送別の席でただ一人泣いていた、アニーと呼ばれた老女だった。
「ん、あなたは確か……」
歩みを止めると、老女は今もなお泣きながら、両手を合わせて私を仰ぎ見た。
「お客様、お願いがございます」
「君はアニーと言っていたね。なんの用かね?」
「その……」
しばらくの間、老女は無言で私の顔を眺めていたが、恐る恐る口を開いた。虫のような、か細い日本語で告げる。
「あの、私の奥様と日出雄様は、今夜の〈ルナ・クレセンテ号〉であなたとともに日本にご出発なさるようですが、それを延期することはできないでしょうか?」
さてはて、妙なことを言う女だと私は眉をひそめたが、よく見ると、老女はなにかにひどく心を悩ませている様子なので、私は逆らわないことにした。
「そうだな。もう延ばすことはできないだろう……だが、それはそうと、お前はなぜそんなに嘆くのかね?」
そのように言葉優しく問いかけると、この一言に老女は顔を少し持ち上げた。
「じつは、お客様。これほど悲しいことはありません。奥様や日出雄様が日本にお帰りになると初めて伺った時には本当に驚きました。しかし、それは致し方ないことではありますが、その後によく聞いたことによれば、ご出発の期日は、よりにもよって、今夜の十一時半……」
そう言うと、なぜか唇を震わせて、
「あ、あの、今夜十一時半にご出発なさると――」
「なに、今夜の蒸気船で出発するとどうなるって?」
そう言って私が目を見張ると、「お客様」とアニーは首にかけた鏡に手を当てて言った。
「神様に誓って申します。あなたはまだご存じないでしょうが、大変なことが起こるのです。このことは、旦那様や奥様にも度々申し上げて、どうか今夜の出航だけは見合わせてくださいと何度もお願い申し上げたのですが、お二人とも笑って『アニー、そんなに心配する必要はないよ』とおっしゃるばかりで、少しもお気になさらないのです。……けれど、お客様。私はよく存じております。今夜の〈ルナ・クレセンテ号〉で出発なさっては、奥様も日出雄様も、決して無事では済まないでしょう」
「そんな、無事では済まないって――」
「ええ。決して無事では済みません。私は、あなた様を信じております。今から告げることを笑わずにお聞きください……」
アニーは真面目な顔で前置きし、私の顔を頼もしそうに見上げて言った。
「ウルピノ山の聖人のおっしゃったように、昔からある色々な口伝の中で、船旅ほど時期を選ばないといけないものもないと言われております。凶日に旅立った人は、きっと災いに出遭います。これは本当です。現に私のせがれの一人も、七、八年前のこと、私が必死に止めるのも聞かないで、十一月の祟りの日に家出をしたばかりに、ついに世にも恐ろしい海蛇に捕らわれてしまいました。私にはよくわかっているのですよ。奥様も日出雄様も、今夜出発になれば、決して無事では済みません。なぜなら、その理由は、今日が五月の十六日で魔の日だからです。そして、今夜の十一時半と言えば、なんと恐ろしいことでしょうか。魔の刻限ですよ!」
私は聞きながら、思わずぷっと噴き出してしまうところだった。
「お客様。笑い事ではありません。魔の日魔の刻というのは、一年で一番不吉な時です。他の日ならたくさんあるのに、この日この刻限に出航なさるとは、なんという因果でしょう。私は考えると、居ても立ってもいられません。その上、懇意の船乗りに聞いてみますと、今度の〈ルナ・クレセンテ号〉の航海には、たくさんの黄金と真珠とが積み入れられているそうです。黄金と真珠とが波の荒い海上で集まると、きっと恐ろしい災いを引き寄せます。……ああ、不吉の上にも不吉! お客様、私の心の千分の一でもお察しになれば、どうか奥様と日出雄様の命を助けると思って、ご出発を延期してください」
アニーは私のことを拝まぬばかりに手を合わせてきた。まったくもって馬鹿な話だと思った。西洋でも色々と運勢やまじないを語る人はいるが、この老女のような者は、まあ珍しいだろう。
私は大笑いしてやろうとも考えたが、待てよ、例え迷信だとしても、その主人の身の上をここまで深く、しかも大真面目に案じているのを無下に貶すこともないだろうと気づいたので、込み上げてくるおかしさ無理に堪えて、「アニー!」と一声呼びかけた。
「お前の言うことはよくわかった。お前の忠誠心と優しい心は素晴らしい。だが、今は解析機関という便利な計算機があってだね、複雑な演算によって気象予報の精度も上がっているのだ。君の言う魔の日や祟りの日というのは、すっかり昔の話であって、今はもうなくなってしま……」
「――ああ! あなたも、あなたもやはりお笑いになるのですね!」
アニーはとても情けなそうな顔をして眼を閉じた。
「いや、決して笑うのではないが、そのことは心配するには及ばない。奥様も日出雄少年も、私が命にかけて守るから……」
「ああ、もうダメだわ。ダメだわ……」
私の言葉はもう聞こえていないようで、アニーはほとんど絶望の顔ですすり泣きしながら、むっくりと立ち上がった。イタリア語で必死に
ちょうどその時、待機所で乗船準備が整ったらしく、濱島がしきりに私を呼ぶ声が聞こえてきた。
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