Phase.3 魔の日魔の刻




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 波止場に集まった多くの見送り客に別れを告げて小型の曳航船に乗り込み、遥か沖合に停泊している〈ルナ・クレセンテ号〉に乗船したのは、その夜の十一時三十一分。濱島武文と他の三人が本船まで見送りにきた。

 この『弦月丸ルナ・クレセンテ』というのはイタリアの東方汽船会社〈グリッロ・パルランテ〉が所有する豪華客船で、排水量は六四〇〇トン。二本の煙突に四本のマストを持った巨大な蒸気船だ。志那及び日本の各港に向かう今回の航海には、夥しい数の黄金や真珠などの貴重品を搭載しているらしく、喫水線もよほど深く沈んでいるように見えた。

 〈ルナ・クレセンテ号〉のタラップにつくと、私たちが乗船することは、すでに乗客名簿でわかっていたらしく、ボーイたちが慌ただしく走ってきて荷物を運び込んだ。しばらくすると、船員の一人が恭しく帽子を脱いで、甲板上で混雑している乗客を押し分けるようにして、船の中心に近い一等船室に導かれた。

 どの蒸気船でもそうだが、同じ等級の船室の中でも、中心部に位置するのがもっとも人気が高い。言うまでもないことだが、航海中の船の揺れを感じることが比較的少ないためだ。

 ここを占有しようと、虎髭のドイツ人やローマ風の鼻の高いフランス人などが狙っていたが、幸いにもナポリの町で『高貴な日本人』と名高い濱島武文の尽力のおかげで、我々は最上級の船室を手に入れることができた。加えて、春枝夫人たちの部屋と私の部屋がすぐ隣り合っていたので、万事において都合がよかった。

 一時的な帰国命令だったので、私の荷物は着替えだけだ。旅行鞄をベッドの上に投げると、すぐに春枝夫人たちの船室を訪れた。春枝夫人は少年を膝に乗せて、その夫や他の三人を相手に話をしていたが、私の姿を見るなり、「あら、もう片付けになりましたのね」と言って、すぐに立ち上がって出迎えてくれた。


「なに、豊太郎は筋金入りプロのバンカラだ。片付ける荷物などないさ」


 濱島は声高く笑うと、私に椅子を勧めてきた。私も仲間に加わって談笑を楽しんだが、間もなくジャーン、ジャーン、ジャーンと、船中に響き渡る銅鑼の音が聞こえてきた。


「ねぇ、ねぇ、このおとはなに?」


 日出雄少年が眼を丸くして母親の優しい顔を仰ぐと、春枝夫人は押し黙って夫を見つめた。


「どうやら、もう別れの時刻になってしまったようだ」


 濱島武文は静かに立ち上がると、他の三人を顧みた。

 海上規則では、すべての曳航船は本船の出港の十分あるいは十五分前には、銅鑼の響きとともに離れなければならない。

 それで濱島は船を去ろうと踵を返し、私の手を握って別れの言葉を厚く述べた。夫人にも一言二言告げた後に、その愛息子を右手に抱き寄せて、そのふさふさとした髪の毛を撫でながら告げる。


「日出雄、これからしばらくの間、別れることになるが、お前はかねてから俺の言うように、世に優れた人となって――そう、立派な海軍士官となって、日本帝国の守りとなる志を忘れてはいかんぞ」

「わかったよ、おとうさま!」

「よし、しっかり励めよ!」


 濱島は少年が頷くのを微笑ましげに見やりつつ、他の三人を促して船室を出て行った。

 先ほど見送られた私たちが、今度は彼らを見送る番だった。私は右手で少年を導き、さすがに少し悄然としている春枝夫人を手助けして、その後を追った。

 今宵は陰暦の十三夜。深碧の空には一片の雲もなく、月が煌々と冴えわたっている。遥かな沖に停泊している三、四隻の某国の軍艦が、始終、サーチライトで海面を照らしているので、その明るさは真昼を思わせるばかりで、波の合間に浮き沈んでいるブイの形さえ、くっきりと見えるほどだった。

 濱島は船のタラップまでついた時、今一度こちらを振り返って、夫人と息子との顔をじっと眺めたが、なにか胸の内を過ることがあるように私に瞳を転じた。


「豊太郎、それじゃ、これでお別れだ。春枝と日出雄のことは、よくよく……」

「ああ」


 どうやら日頃の豪傑な性格に似合わず、気を遣っているようだった。それはあたかも空中に何者かの力強い腕があって、彼をこの場に留めているかのように、立ち去りかねているようにも見えた。これが俗に言う『虫の報せ』とでもいうのだろうかと、後になってみれば思い当たったのだが、この時はただ別れの情からだと思うばかりだ。


「濱島、お前らしくないぞ! 心配するな。君の夫人と愛児は、私の命にかけても護るからな!」


 私が強く頷くと、彼はにっこりと微笑んだ。その他の三人とも握手すると、彼らはそのままタラップを降り、待たせていた曳航船に身を移すと、たちまち小型蒸気船は波を蹴って波止場へと引き返していった。

 その荒波の騒ぐ畔では、海鳥の二、三羽が夢に鳴いている。


「あれあれ、おとうさまはどこにいったの? もどってこないの?」


 日出雄少年は無邪気に言って、母親の手にすり寄った。凛々しいとはいえ、女心に哀れな気持ちを抱きながら、夫人は物憂げに夫の行方を見送っていた。

 月は真昼のように明るいが、牽引船の形は次第におぼろげになって、煙突から出る煙の名残をとどめるだけだった。


「奥さん、少し甲板の上でも散歩してみませんか」


 私は二人を誘ってみた。このように落ち込んでいる時には、賑やかな光景でも眺めれば、幾分か気が晴れるだろうと考えたのだ。

 一番賑やかに見えた船首部に歩を進めると、出港の時刻が迫っているとはいえ、かなり混雑していた。軽装のボーイたちは忙しなく働き、たくましい骨格の船員たちは自分の持ち場に列を作っている。どうやら、後部のタラップはすでに引き上げられたようだ。

 船首甲板における一等航海士の指揮の下、一団の水夫が揚錨機の周囲に走って集まり、次に発せられる号令とともに錨鎖を巻き上げようと身構えている。船橋の上にはビール樽のようにでっぷりと太った肥満の船長がいて、その赤い頬髯を捻って傲然と周囲を睥睨していた。

 私はあちらこちらに群れをなして立っている乗客を眺めた。際立って顔色が白いベルギー人や化粧品で髭を剣のように塗り固めたフランス人の若い紳士、あまりに酒を飲んだために鼻の赤くなったドイツ人の陸軍士官、その他、美人の標本とでもいうべきイタリア人の女優など。

 大富豪マハーラージャらしい色黒のインド人の乗客の間に混じって、この目覚ましい光景を見まわしつつ、春枝夫人とあれこれと話していたが、この時、ふいに私の背後で「ああーっ、しまった!」と水夫たちが一斉に叫び声を上げた。


 同時になにかが甲板に落ちて微塵に砕けた音がして、私は急いで振り返った。


 今しがた、二、三人の水夫が滑車を引いて前列マストに高く掲げようとしていた一個の白色灯――まさに航海中の船舶の『安全進行』のシンボル・マークとなるべき球状ランプ――が、なにかのはずみでロープの縁を離れて、六メートルばかり上のマストから流星のごとく落下したのだ。

 あっという間に、船長が立っている船橋に当たって微塵に砕け、光がぱっと消える。船長は驚いて身を躱すが、その拍子に足を滑らして、階段を二、三段、真逆さまに転げ落ちた。

 水夫たちがさーっと顔色を変える。怒りに顔を真っ赤にして、船長は慌てて起き上がった。己の醜態に怒鳴り散らすこともできずに、ビール樽のような腹に手を当て、物凄い形相で水夫を睨みつけた。

 この時、私の隣には髭の長い、頭の禿げた、いかにも古風然とした英国人が立っていたが、この有様を見ている内に、ぶるぶると身震いして呟いた。


「ジーンズ! ああ、縁起でもない! この船が悪魔に魅入られていなければよいが……」


 なんと、またもや縁担ぎというのか! 一体、今日はなんという日だろう。

 もちろん、こんなことに深い事情などあるはずがない。偶然の出来事には違いないのだが、なんとなく異様に感じてしまった。誰でもそうだろうが、戦に向かう時とか、旅に出る時に、少しでも変なことがあれば、多少なりとも気にかけずにはいられない。

 とくに我らが〈ルナ・クレセンテ号〉が万里の波をかき分けて、名高い地中海、インド洋の難所に進もうとする、まさにその門出において蒸気船の安全な航海の証しとなるべきランプが微塵に砕けて、その灯火が消えてしまったのである。

 さらにこの船の指導者とも言うべき船長が船橋から転げ落ち、心に不快な思いを抱き、その顔に憤怒の形相を浮かべようなど、ある意味から言えば、この〈ルナ・クレセンテ号〉になにか災いが起こる前兆ではあるまいかと、どうもいい気分にはなれない。

 無論、こんな妄想はいつもなら苦もなく打ち消されるのだが、今日はアニーが先ほど言った『魔の日魔の刻』だのという言葉や、濱島が似合わぬ気づかいを見せた様子までもが、同時に心に浮かんできて、とても変な気持ちだった。



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