Phase.1 ナポリ港での邂逅
1
「がはははっ! つまりだ、私が言いたいことはだな、西洋人かぶれのハイカラどもが、今の日本をダメにしているわけだ!」
「なるほど、確かにそういう奴らは撲滅すべきですね!」
「そうだ、ハイカラ撲滅主義だ! がはははっ!」
シンガポール一――いや、東洋一とも名高い中心街の〈マープル・ホテル〉から戻ってきた時には、二人とも顔を真っ赤にして、鼻歌混じりで上機嫌だった。
人影は少なかった。
「船倉もえらく静かですね。どうやら石炭の補充も終わったようだ」
「石炭を早や積み果てつ、か」
豊太郎は感慨深そうに言って、ソファーに身を沈めた。
「思い出すな。今からもう二十余年のことになるか……私が念願叶って、洋行の官命を帯びて、このシンガポールの港に来た頃は、見るもの、聞くもの、すべてが新しかった。毎夜ごとに日記を記していたものだが……今では、もうダメだな。外国で学んでいる内に、『ニル・アドミラリ』の気質を患ってしまったのかもしれん」
「何事にも動じないとは、いいことじゃないですか~」
ロキアは言って、備え付けの棚からワインを取り出してグラスに注いだ。片方のグラスを同志に手渡し、深紅の液体を照明に掲げてみせる。
「我らがバンカラに」
「乾杯!」
豊太郎はニヤリと笑って応じた。チンと小気味よい音が鳴らされ、一息に飲み干すと、東洋一を自称するバンカラ男は、どこか物憂げに空のグラスをじっと見つめた。
「生きていれば、お前さんと同じぐらいの歳なのだろうが……」
「それは……さっき言っていた、生き別れになった息子さんのことですか?」
「そうだ。顔すら見られなかった。俺が欧州に戻った頃には、すでに母親も死んで、行方がわからなくなっていたからな……。人買いに遭ったか、病気にでも罹ったか……」
「生きているに決まっているじゃないですか」
ロキアはグラスを揺らしながら、きっぱりと言い切った。
「あなたの息子でしょう? 東洋一の豪傑の息子が、そう簡単に死ぬとは思えません。日本の血を引く西洋人は少ないですから、探していればその内に見つかりますよ」
「そう、だな……確かに、間違いない!」
そう言って、豊太郎はピシャリと自分の頬を叩いた。
「がはははっ! せっかくの夜に湿っぽい話はよそう。そうだ! 暇つぶしがてら冒険話でも語ってやろうか?」
「それはぜひ。時間ならたっぷりありますからね」
「そいつはいい。あれは、確か……」
― ― ―
私が一時帰国するようにと本国から指令を受けた時、エリスはすでに身重だった。
……ああ、エリスというのは、この懐中時計の写真の娘だ。どうだ、美しいだろう。もう一目惚れよ。一生離さないと思ったもんだ。必ず戻ってくると、愛するドイツ娘に別れを告げ、新ローマ帝国での用事を済ませるためにナポリの港に立ち寄ったのが、そう、今はもう遥か昔、季節は桜散る五月の中旬、ある晴れたうららかな日の正午だった。
街外れの停車場から客待ちの蒸気馬車を拾って、さっさと個人的な用事を済ませてしまうと、早くもやることがなくなってしまった。東洋行きの蒸気船〈ルナ・クレセンテ号〉は夜の十一時半に抜錨することになっていたから、まだ出発までは十時間以上もある。
旅行慣れした君ならわかると思うが、知人もいない異郷の地で蒸気船の出発を待つほどつまらないものはない。宿の一室で立ってみたり、座ってみたり、新聞や雑誌を広げてみたりしたが、なにも手につかない。いっそのこと昼寝でもしようか、いや街に出て散歩してみようかと思案しつつ、窓に寄って外を眺めてみた。
眼下に見下ろすナポリ港の海はまるで鏡のようだった。港に入ってくる船、出ていく船、停泊中の船、それらの船々の甲板の模様や、マストの上に翻る旗印、そして遠くの波止場からこちらに向かって並んでいる奇妙な形をした商館の屋根などを眺めながら、ただただわけもなくぼんやりしていると、ふと思い浮かんだことがあった。
それは、濱島武文という人物のことだった。
濱島武文は私がまだ高等学校に席を置いていた頃の学友だ。彼は私より四つ五つの年長者で、クラスも違っていたので四六時中交流していたわけではなかったが、今では〈蛮勇侠客〉として知られる段原剣東次や島村隼人などともに、当時、校内で知らぬ者はいないバンカラとして有名だった。そのこともあって、なんとなく離れがたく思っていたが、その後、卒業すると、本来なら大学に入るべきを他に望みがあると称して、間もなく日本を去ってしまった。
初めは志那に渡り、それからヨーロッパに渡ったと聞いているが、その後の消息は杳として知らなかった。ただ風の便りによれば、最近ではもっぱら貿易事業に身を委ねているそうで、イタリアの栄えている港に立派な商会を立ち上げたと、おぼろげながら伝え聞いていた。
ここは新ローマ帝国の中でも随一の名港であるナポリ港だ。波止場から海岸通りにかけては商館も数多ある。もしかしたら、濱島もこの港でその商会とやらを営んでいるのではないだろうかと思ったので、じつに雲を掴むような話だが、万が一にもと宿の主人を呼んで聞いてみると、これは驚いた!
「おお、濱島さん! よく存じておりますよ。従業員が千人もいてですね、支店の数も十本の指に入るぐらいで……ほー、そのお宅ですか、それはですね、こういって、ああいって……」
主人は私の問いを終わりまで言わせずに、ポンと禿げ頭を叩いて身振り手振りで説明すると、窓から首を突き出した。
「あれです! ほら、あそこに見える、立派な三階建ての家です!」
海に隔たれた遥かな異国の地では、初対面の人でも同じ故郷の生まれと聞けば、懐かしいと思うものだが、それに増して昔馴染みのその人が、今現在、この地にいると聞いてしまえば、これはもう居ても立ってもいられない。
私はすぐに身支度を整えて宿を出た。宿屋の禿げ頭に教えられたように、人と馬、蒸気馬車、そして『スチム・マン』なる当時流行り出したばかりのフランス式の二足歩行器が行き交う街道を西へ西へと、およそ四、五〇〇メートル、ある十字路を左に曲がると、三軒目に日の丸が掲げられた立派なレンガ造りの建物があった。
門前には、『T・HAMASHIMA』と標識が出ている。案内をお願いすると、すぐに見晴らしのいい客室に通された。待っていると、ほどなくして靴音を高く響かせながら入ってきたのは、まさしく濱島だった! しばらく見ない内に、彼は立派な八字髭を生やし、その見た目もよほど違っていたが、相変わらずの洒落男だった。
「おお、太田豊太郎か! これは珍しい客人だ! いやあ、これは珍しい!」
大歓迎を受けて、私は心から嬉しかった。髭が生えていても、友達同士の間は無邪気なものだ。昔ともに山野に狩りに出て、農家の家鴨を誤射してひどい目に合った話や、春の大運動会に優勝旗を争ったことや、その他、様々な思い出話が出てきて、時が経つのも忘れてしまった。
ふと気づくと、この家の様子がなんとなく忙しそうなことに気づいた。辺りの部屋では、誰彼が話し合う声がやかましく、廊下を走る人の足音も早く、ただならない様子だ。
濱島は昔からごく冷静な人で、何事にも平然と構えているから、どう思っているのかはわからないが、今、コーヒーを運んできた小間使いの顔には、その忙しさが目に見えているので、もしかしたら、タイミングが悪い時に来てしまったのかもしれないと思った。
私はふいに顔を上げて問いかけた。
「もしかして、なにか忙しい時に来てしまったのかな?」
「いやいや、全然。ご心配なく」
彼はコーヒーを一口飲んで、悠々と鼻下の髭を捻りながら言った。
「なに、じつは旅に出る者がいるんだ」
おや、どなたがどこへと、私が問おうとするより先に、彼は口を開いた。
「時に、豊太郎。当分、この港に滞在するのだろう? スペインか、トルコ、あるいはさらに歩を進めて、アフリカ探検にでも出かけるのかね?」
「がはははっ!」と私は頭を掻いた。「いや、昔話にかまけて、つい言い忘れてしまったが、じつは外務省から呼び出しがあって早急に経つ予定でな。今夜十一時半の蒸気船で、日本に帰るのさ」
「えっ、君もかい?」と彼は目を見張った。「やっぱり、今夜十一時半の〈ルナ・クレセンテ号〉で?」
「ああ。せっかく再会できたのに、ゆっくりできないのは残念だ」
私がきっぱりと答えると、彼はポンと膝を叩いた。
「なんだ、奇妙だな。じつに奇妙だ」
なにが奇妙なのだという私の訝しげな顔を眺めつつ、彼は言葉を続けた。
「なんとも奇妙じゃないか。これこそ天のめぐり合わせとでも言うのか、じつはな、俺の妻子も今夜の〈ルナ・クレセンテ号〉で日本に帰国するんだ」
「えっ、君に奥さんと息子さんがいたのか!」
あまりにも意外だったので、私は叫んでしまった。何年も会わない内に、彼に妻や息子ができたことはなにも不思議なことではないが、じつは今の今まで知らなかったのだ。
その上、その人が今まさに本国に帰るなどとは、まったく寝耳に水だった。
「ははははっ、そういや、君にはまだ紹介していなかったな。これは失敬、失敬」
濱島は声高く笑うと、忙しそうに呼び鈴を鳴らして、入ってきた小間使いに「妻に珍しいお客さんがきたぞ」と言って、私のほうに向き直った。
「じつはな、こういうわけなんだ……。この港に貿易商会を設立した翌々年の夏だったかな、俺はちょっと日本へ帰ったんだが、帰国中、ある人の紹介で同郷の松島海軍大佐の妹を妻にめとったんだ。自分はこうして海外の一商人として世に立っているが、せがれにはどうか大日本帝国の守りとなる立派な海軍軍人となってもらいたい。
日本人の子は日本で教育しなければ愛国心も薄くなるというのは、俺も深く感じているところで、幸いにも妻の兄は本国でそれなりの軍人だから、その人の手もとに送って教育の世話を頼もうかと、かなり前から考えていたんだが……中々うまい機会がなくてな。
それで、今月の初めに本国から届いた郵便によると、妻の兄の松島海軍大佐は、かねてより帝国軍艦〈高雄丸〉の艦長だったが、近頃、病気のために待命中らしいんだ。もちろん、危篤というほどの病気ではないんだが、妻もただ一人の兄だし、できるなら自ら見舞って、久しぶりに故郷の月を眺めたいと言っている。ちょうど、せがれのこともあったから、それならこの機会にというので、今夜の十一時半の〈ルナ・クレセンテ号〉で出発ということになった次第だ。
無論、妻は大佐の病気次第で遅かれ早かれ帰ってくるが、息子は長く、日本帝国のあっぱれな軍人として出世するまでは、富士山の麓を去るのを許さないつもりだ」
そのように語り終えると、彼は静かに私の顔を眺めた。
「君も今夜の出帆なら、船の中でも日本に帰った後も、なにとぞよろしくお願いするよ」
この話で何事も明らかになった。それにつけても濱島武文は昔から面白い気質をしている。ただ一人の息子を帝国の軍人に育成するために親子の絆を断ち切って、本国に送ってやるとは、随分と思い切ったことをしたものだ。
それに松島海軍大佐の妹という彼の奥方にはまだ会っていないが、兄君の病床を見舞うために、しばしでもその夫に別れを告げて、愛しい息子を携えて万里の旅に赴くとは、なかなかに殊勝な振る舞いだと、心密かに感服する。
さらに想いをめぐらすと、この度の出来事は、何から何まで『小説』のようだった。
海外の万里の地で、ふとしたことから昔馴染みの友達に出会ったこと。それから私がこの港にきた時は、偶然にも彼の夫人と令息がここを出発しようという時で、申し合わせたわけでもなく、同じ時に同じ船に乗って、これから数ヶ月の航海をともにするような運命に立ち会ったのは、じつに濱島の言う通り、奇妙な天のめぐり合わせとでもいうものだろう。
そのように思って、しばしある想像に耽っていた時、二人の人物が部屋の扉を静かに開いて入ってきた。言うまでもなく、夫人とその息子だった。
「これが私の妻、春枝だ」
濱島は立ち上がって私に紹介し、さらに夫人に向かって、私と彼が昔同じ学友であったこと、またこれから日本まで航海をともにするようになった不思議な縁について短く語ると、夫人は「あらあら」と言って、とても懐かしげに進み寄った。
年齢は三十六、七ほど、眉の麗しい口もとの優しさといい、ちょうど天女のような美人だ。
私は一目見て、この夫人がその姿のごとく、心も美しく、世にも高貴なご婦人なのだろうと思った。
一通りの挨拶を終えた後、夫人は愛する息子を呼び寄せた。招かれて臆する様子もなく私の膝もと近くに歩み寄ってきた少年――歳は五歳、名は日出雄と呼ぶらしい。さっぱりとした水兵風の洋服姿で、髪はふさふさとした色のくっきりと白い、口もとは父親の凛々しいのに似て、目もとは母親の清々しさをそのままに、見るから可憐な少年だった。
この少年は海外の万里の地に生まれて、父母の他には本国人を見ることも稀なこともあって、幼心にも懐かしくて嬉しいと思ったのだろう。その清々しい目で、しげしげと私の顔を見上げていたが、唐突に口を開いて言った。
「ねぇ、おじさんは、にほんじん、なんでしょ?」
「そうだ。太田豊太郎、君と同じ国の人間だよ」
私は少年を抱き寄せて、訊いた。
「日出雄君は日本人は好きかい? 日本のお国を愛しているかい?」
その問いに、少年は元気よく答えた。
「うん! だいすきだよ。にほんにかえりたいな。いたりあでも、まいにち、ひのまるのはたをたてて、せんそうごっこをしているよ。それでねぇ、それでねぇ、ひのまるのぐんは、つよいんだよ。いつもかってばかりいるんだよ!」
「お、そいつはいいな! その通りだ!」
そのあまりの可愛さに、私は少年を頭上高くに持ち上げて小躍りした。
「大日本帝国万歳!」
「だいにほんていこく、ばんざーい!」
当然、濱島も大笑いし、春枝夫人は目を細めて、紅のハンカチでその笑顔を覆った。
「あらあら、まあ、日出雄はどんなに嬉しいんでしょう! こんなに嬉しそうな日出雄を見るのは初めてよ!」
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