Prologue Interlude.Ⅰ 明治一代バンカラ男




「見えてきました! シンガポール港です!」


 バッスルスカートから突き出た尻尾を激しく揺らしながら、ミナ・ランドグリーズは眼鏡の奥の瞳を輝かせた。

 一週間ぶりの寄港地を一目見ようと、蒸気船〈ノルマントン号〉の甲板には、すでに多くの乗客が集まっていた。大小のニコバル島の間を過ぎ、マラッカ海峡の左右に挟まれた山の間を通り抜けた先に、ようやくシンガポール岬の砲台が姿を現す。

 蒸気船の入港を知らせる汽笛が港に鳴り響くと、それに答える鐘の音が返ってきた。


 一八九六年七月十六日――東南アジア、英領シンガポール。


 島自体が平らだからか、町全体がまるで水の上に浮んでいる様に感じられる。埠頭に近づいていくにつれて、船の周りに何十隻もの丸太船が集まり出した。日笠を被った現地人らしい東洋人たちが、ミナたちを見上げては現地語でなにかを叫んでいる。


「ロキア様、あれはなんて言っているんですか?」

「ああ、これはね」


 ロキアは懐から小銭入れを取り出すと、一ペニー銅貨を一枚、海面に投げ入れた。その途端、現地人たちは一斉に海に飛び込んで争奪戦を始める。他の乗客たちも続いて小銭を投げ入れ、バタバタと海面が泡立ってなにも見えなくなる。まるで撒かれたパンくずに群がる鳩のような、あさましい光景だが、これも東南アジアに寄港した際の名物だ。

 硬貨は水中ではゆっくりユラユラと落ちていくので、彼らからしても楽な仕事かもしれない。なにせ、上手く集められれば、これだけで一日分の賃金になるのだから。


「こういうことさ」

「な、なるほど……」

「ミナもやってみるかい? 意外と面白いよ、これ。とくに金貨を投げ入れると殴り合いになって海が赤く……」

「いいです! 絶対にやめてください!」


 いたずらっぽい笑みを浮かべてソブリン金貨をもてあそぶ武器商人の手を掴んで、護衛の少女は一等船室に引っ張っていった。

 船が着岸してタラップが降ろされると、東アジアを管轄とする〈銃後のお茶会フロック・ティーパーティー〉の武器商人、ロキア・アレキサンダー・グラバーとその一行は、つつがなくシンガポールに入港した。


「すごい、ここが噂に聞くシンガポールなんですね!」

「ああ、そうか、ミナは初めてだったね」

「はい!」


 ロキアと他の〈ワルキューレ〉からすればアジアの見慣れた光景だが、見るもの聞くもの、すべてが初めてのミナは、興奮して港の周囲を見回した。


「ふむふむ……これはいい尻尾だ」


 その時、背後から謎の異国語が囁かれた。一瞬にして尻尾をめくられて鼻先を突っ込まれ、ぞわっとミナの全身の獣毛が逆立つ。


「どれ、ちょいと匂いも……くんくん……」

「いやああああ!」


 直後、獣人少女の全力の後ろ蹴りを受けて、男は腹に大砲を受けたように吹き飛ばされた。後ろ回りにごろごろと転がり、波止場に積まれていた貨物の山に突っ込んで木くずを散らす。


「へへへ、変態! ろろっ、ロキア様、ここに変質者がいます!! シンガポール人の変態です! 警察に突き出しましょう!」

「な、ナイス・キック……ガクッ」

「えっ、ちょっと、なに!? し、しっかりしてくださいっ!」


 少し離れていたところから見ていたロキアは、首を傾げて〈ワルキューレ〉部隊長のキツネ獣人を見た。


「今の……日本語だったよね?」

「ええ、間違いありません。見たところ、華僑でもマレー人でもないようです」

「ふーん、日本人の同志・・か。一体、僕になんの用だろう?」




   ― ― ―




「う、ううっ……」

「おおっ、目が覚めましたか?」

「こ、ここは?」

「ああ、落ち着いてください。焦ることはありません。あなたにお話があるのですが、いいですか?」

「うっ、私は……一体……」

「どうか、落ち着いて。あなたはずっと昏睡状態でした。ええ、ええ、わかってますよ。どのぐらいの長さか、でしょう? 九年です」

「きゅ、九年だと!? ろ、ロシアとの戦争はどうなった!?」

「とっくの昔に終わりましたよ」

「ど、どっちが……勝った?」

「日本です」

「そうか……よかった……」

「嘘ですよ。第一、ジャップがロシアに勝てるわけがないでしょう」

「な、なんだとこの野郎!?」


 がばっと勢いよく飛び起きた男に向かって、ロキアは白衣を脱いで日本語・・・で応じた。


「元気そうでなにより。……で、僕になんの用です?」

「お前は……」

「ロキア・アレキサンダー・グラバー。武器商人です。ご存知かと思いますが、一応ね」


 ロキアが差し出した手をぎゅっと力強く握りしめ、男はお返しにとばかり英語に切り替えて言う。ロンドン人コックニーも驚きの流暢な容認発音クイーンズ・イングリッシュだった。


「太田豊太郎だ。初めましてだな、ロキアさん」

「どちら様です? 旧グラバー商会の関係者の方ですか?」

「いいや。そうだな、お前さんたちの言葉でいうところの、外交官ディプロマットってところか」

「どうやらジョークの才能もあるようだ。迂闊でしたね。どうして、あんなことを?」


 記憶が飛んでいるのか、あんなことと言われてどのことだと豊太郎は首を傾げるが、やがてそれと思い当たったように手を打って、大声で笑った。


「がはははっ、ああ、なるほど、蹴られたやつか。あれはまあ、悪い癖だ。治したいんだが、どうにも本能には逆らえん。それどころか、むしろ島村隼人とともに『バンカラ第一主義』を提唱しているぐらいだからな。ロキアと言ったか、どうだ、人間は本能に従って生きるべきだと思わないか?」

「なんとなくですが、言っている意味はわかります!」

「そう思っているなら、お前さんも今日からバンカラの一人だ!」

「えっ、本当に? やったー、よくわからないけど、バンカラ万歳!」

「ちょっと、そんな奴と打ち解けないでください!」


 がしっと腕を組んで意気投合する二人の変態に、ロキアの茶番に付き合ってナースの格好をさせられているミナは叫んだ。


「れ、レディにあんな仕打ちをするなんて……も、もうお嫁にいけません!」

「安心しろ」


 豊太郎はすっと立ち上がると、ミナの頬に手をやって言った。突然のことに、彼女の目が驚きに見開かれる。


「えっ?」

「私がもらってやる。もし嫁にいけないのなら、日本に来い。お嬢さんなら大歓迎だ。なあ、お前も日本人にならないか・・・・・・・・・・・・?」

「そ、そんなこと……きゅ、急に言われても……」


 ドキンという謎の胸の鼓動を感じて、ミナは顔を逸らした。


「えっ、噓でしょ、ちょっと、満更でもない感じ? やめてくださいよ、豊太郎さん! 僕の〈ワルキューレ〉にちょっかいかけないでください! 彼女たちは僕のものなんですから!」

「はははっ、そうか。すまんすまん! ごめんな、お嬢ちゃん。お前さんの尻尾があまりにも元気よく振られているもんだから、つい誘われちまった!」

「じょ、冗談じゃないですよ! まったく!」


 ミナは顔を真っ赤にして、護衛の役割を完全に放棄して船室を飛び出していった。

それを見送って豊太郎はふっと笑みを浮かべ、使い古しの懐中時計を開く。


「おっと、もうこんな時間か。夕食にはいい頃合いだ。せっかくだし、河岸を変えて思う存分に語り合おうじゃないか、ロキア・グラバー」

「いいですね」


 二人の獣人好きバンカラは腕を組んで立ち上がった。





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