Phase.43 行くがいい、モーセ




     43




 バトラー商会を出た時、カネトリはげっそりと痩せこけているようにも見えた。

 商会の前で待機していた二頭立て馬車フェートンを素通りし、覚束ない足取りで町中に繰り出す。数十メートル後ろに商会の使いか〈クー・クラックス・クラン〉のメンバーらしい尾行がついてくるのがわかったが、とくに撒く必要もないので無視した。

 ナッシュビルは蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。ケンタッキー方面から北軍が進軍しているという情報が入ったために、テネシー軍を率いるネイサン・ベッドフォード・フォレスト大将は郊外にあるヘンダーソンヴィルに防衛陣地の構築を決定。そのために北上する南軍と、街から避難しようとする住人とで、ありとあらゆる通りが渋滞に陥っていた。

 弾薬や大砲を積んだ馬車と兵士の隊列、トランクや家財道具を積み上げた疎開家族の馬車が混雑する大通りを素通りして、カネトリは徒歩でホテルに向かう。

 もうもうと立ち昇る埃、そして無慈悲に照りつける南部の日差しの下、白人も黒人も、獣人奴隷でさえも、誰もが等しく恐慌状態にあった。

 普段、ジム・クロウ法によって生活空間が区切られたナッシュビルの街も、この時ばかりはその境界がなくなってしまったかのようだ。


「……まったくもって、いい気味だ」


 カネトリが独り言ちた時、馬に乗った南部の黒人将校に率いられ、ピッケルとシャベルを担いだ獣人奴隷たちが鎖に繋がれて行進していく場面に出くわした。おそらく南軍の人員不足を補うために塹壕堀りにでも駆り出されたのだろう。

 獣人たちは低い南部訛りで、黒人霊歌の『行くがいい、モーセゴー・ダウン・モーセ』を歌っている。




Go down, Moses,

Way down in Egypt's land,

Tell old Pharaoh,

Let my people go.


 行くがいい、モーセ。

 エジプトの地に下って、

 ファラオに告げよ。

 我が民を解放せよと。




Thus saith the Lord, bold Moses said,

Let my people go,

If not, I'll smite your first-born dead,

Let my people go.


 主は仰せられたと、大胆にもモーセは言う。

 私の民を解放せよ。

 そうでなければ、お前の長男を打ち殺そう。

 さあ、私の民を解放するのだ。




「……くくっ」


 おそらく、歌詞の意味などは考えず、本人たちからすれば普段から農園で歌っている労働歌ワーク・ソングを口ずさんでいるに過ぎないのだろうが、その歴史の皮肉にはカネトリも思わず吹き出さずにはいられなかった。

 この歌は先の南北戦争においてアメリカ合衆国に逃れて北軍に加わった元黒人奴隷によって盛んに歌われたものだったからだ。『出エジプト記』になぞらえ、『我が民』が自らを、『ファラオ』が奴隷所有者を、そして『エジプト』が南部をそれぞれ示唆し、自分たちが『解放者モーセ』となって南部に下っていったのである。

 そして今、もともと奴隷として連れてこられた黒人たちが、今度は獣人奴隷を使役する立場となって南部連合に尽くそうとしているのだから、これ以上の皮肉にはそうそうお目にかかれないだろう。


 この世に獣人やエルフなどの亜人が存在しなければ、果たしてどうなっていたのだろうかと、カネトリは歩きながらぼんやり考えた。


 ホテルまでの道を半ばまで来た時、いかにも奴隷所有者らしい黒チョッキを着た白人の男が、ブタ獣人の召使を鞭打っているところに出くわした。

 道路にはジャガイモが転がっている。どうやら、荷車に乗せる際に誤って落としてしまったようだ。


「ポーキー! この役立たずが! さっさと拾わねぇか!」

「旦那! ででで、でも! こ、こ、こ、これでおしまいだ!」


 内気そうなブタ獣人は小さくなって震えながら急いでジャガイモを拾い集めて袋に入れるが、男はそれでも気が済んでいないらしく、さらにもう一発加えようと鞭を振り上げる。

 可哀想に獣人の背中はミミズ腫れで痣だらけだ。南部では見慣れた光景なのか、道行く人は誰も注目していない。

 無用なトラブルは避けたいのでカネトリも無視しようと思ったが、ふと尾行がついてきていることを思い出し、ニヤリと笑った。




「――どったの、センセーワッツ・アップ・ダック?」




 カネトリは男の肩を叩き、わざとらしい南部訛りで言った。その馴れ馴れしい仕草に、男は鞭打つ手を止めて訝しげな目を向けた。


「なんだお前は?」

「通りすがりのジェントルマンさ。いや、見てらんないよ。もう拾ったんだから許してやったらどうだ?」

「こいつは俺の奴隷だ。所有物をどう扱おうが俺の勝手だろう! クソったれ、なんだ貴様、見ない顔だな。白人のくせして……もしかして『奴隷泥棒トム』のシンパじゃないだろうな!」


 聞き慣れない単語に、カネトリは眉をひそめた。


「奴隷泥棒トムって?」

「はっ、知ったかぶりはよせ! 〈トム・ソーヤー〉を知らない奴が南部にいるかよ! おい、いいか、奴隷には躾けってやつが必要なんだ! 無用な正義感を振りかざして善人面するのはよせ! 痛い目を見るぞ!」

「〈トム・ソーヤー〉ね」


 文脈から察するに南部人にはかなり毛嫌いされているようだ。おそらく、奴隷解放論者アボリジョニストの人権団体か、秘密結社かなにかなのだろう。

 カネトリは薄笑いを浮かべたまま、馴れ馴れしくその頬をツンツンと突いた。


「まあまあ、見逃してやれよ、旦那」



「――貴様!」



 激昂した男が拳を固めて殴りかかる。カネトリは軽くフットワークを取って避けると、男の足を払って地面に倒した。


「おいおい、危ないな。自業自得だぜ」

「お前……ぶっ殺してやるゴー・トゥ・ハリファックス!」


 男は顔を真っ赤にして立ち上がると、懐から飛び出しナイフを抜いて構えた。

 カネトリはヒューと軽く口笛を吹いて距離を取る。一瞬の間。男が息を吐き、跳びかかってくるのと、パンと軽い銃声が鳴って、その足下で銃弾が跳ねるのはほとんど同時だった。


「んな!」


 奴隷所有者の男は思わず足を止め、カネトリの後ろで銃を構えるバトラー商会のガンマンに目をやった。


「失せな。そいつはウェイドさんの客人だ」

「ちっ……」


 その名を出されては仕方がない。男は「クソったれ!」と吐き捨てるように言って、そそくさと退散した。


「いや、助かった。やっぱり、お前だったか」

「ちっ、ワザとか、ジョン・ブル……」


 雇われの用心棒は銃を収め、にっこり笑顔の武器商人を忌々しそうに睨みつけた。


「監視か? いや、俺の護衛か。ご苦労様」

「おいてめぇ、口の利き方に気をつけろ。ここでぶっ殺してやっても構わねぇんだぜ?」

「おお、怖いな。南部人のお得意のリンチか。卑怯者のKKKがしそうなことだ」

「いいか、勘違いするな! 俺はマニックス強奪団のクリス・マニックスだ! あんなダセェ奴らと一緒にするんじゃねぇ!」


 怒鳴り散らすマニックスに、カネトリはすっと真面目な表情になって頷いた。


「そうか。クリス・マニックス、お前には言っておきたいことがある。そう……責任レスポンシビリティの話だ」

「はっ?」

「お前はその銃で俺の相棒を撃った。……覚悟、できているんだろうな?」

「なっ……」


 ぞっとするような声色だった。銃口を突きつけられたかのような、そんな漠然とした錯覚を感じ、傭兵は知らず知らずの内にホルスターに手をかけていた。

 当の相手は目を細めて睨んだまま指一本動かしていない。もし指一本でも動かしていたら、反射的に撃ち殺していただろう。


「覚悟、覚悟ね……」


 有無を言わせぬ謎の迫力に若干気圧されつつも、やがて冷静さを取り戻したマニックスは、ふんと鼻を鳴らして胸を張る。


「一体、なんの話だ?」

「あるアメリカ人の探偵はこう言ったそうだ。『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』と。お前にその覚悟はあるのか、と聞いているんだ」

「はっ、撃たれる覚悟なんて、ないね! なぜなら、引き金を引くのは、銃でぶっ殺すのは、常に俺様だからだ!」


 マニックスはホルスターから再び銃を抜き、カネトリの額に突きつけた。


「そんなに死にてぇなら、今ここでぶっ殺してやるぜ! なあ!?」

「…………」


 二人の口論を遠巻きに眺めていた野次馬から、きゃあと悲鳴が上がる。肌に触れる致死的な鉄の感覚を感じつつも、カネトリは平然と相手を睨みつけたまま一歩も動かなかった。


「俺は武器商人だ。撃たれる覚悟なら常にできている」

「……っ、ちっ!」


 一瞬の間。マニックスは引き金に指をかけるが、この脅しが効いていないことに気づくと、群衆を一瞥して銃を下ろした。


「はっ、気でも狂ったのか? いいさ、今は見逃してやる! だが、次こんな舐めた真似しやがったら許さねぇからな!」

「……覚悟しろ。無数の弾丸に貫かれて死ぬ覚悟を」

「うるせぇ!」


 マニックスは拳を振り上げ、カネトリの顔を殴りつけた。よろめくカネトリの胸ぐらを掴み、ぺっとその顔に唾を吐く。


「いいか、よく理解しろ! この街にいる限り、テメェも、あの獣人娘も、生かすも殺すもすべては俺次第だ! 俺はちゃんと見張っているからな!」

「…………」

「いいか、変な気を起こすんじゃねぇぞ!」


 マニックスはカネトリを突き飛ばすと、「どけこら!」と群衆を蹴散らし、肩を怒らせながら去っていった。

 カネトリが顔についた唾を拭って、ズボンの土埃を払って立ち上がると、馬車の裏で震えて小さくなっていたブタ獣人が被っていた帽子を手で丸めてペコリと頭を下げた。


「あああ、ありがとう、旦那!」

「いや、ただの憂さ晴らしだ。気にするな。もう落として目をつけられるんじゃないぞ」


 カネトリが歩き出すと、その争いを店の前で遠巻きに眺めていた老人――ハックルベリー・フィンがそっと近づいてきた。


「おい、若いの。何であの亜人を助けたんだ?」

「理由は一つだ」


 カネトリは街角に掲げられている国旗に中指を立てた。


「俺は、この国が大嫌いだからだ」

「ほう……」


 それを聞いて、ハック老人は感心したように頷いた。


「わしはあの安酒場の主人だ。一杯、奢らせてくれんか?」

「いや、いい。それより、俺に関わらないほうがあんたらのためだ」


 武器商人は首を振って、さっさと歩きだした。







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