Phase.35 コゼット




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 少女――コゼット・ラビットはジョージアのタラ農園の一角に建てられた奴隷小屋で生まれ、母親はそれから数年後に病気で死んだ。その頃には父親のブレア・ラビットも、すでに他所に売られてしまっていて、身内と呼べる者はどこにもいなくなってしまった。

 みなし子になるまでの数年間は、少女の短い人生の中でも幸せと呼べるものだった。

 毛に覆われた長い耳にすらりと伸びた手足。農園には他にも様々な亜人種の奴隷がいたが、少女の母親は抜きんでて美しく、そして優しかった。


「コゼット……あなたの名前はね、私の故郷の友達から貰ったのよ」

「アフリカの友達?」

「そう。可愛い子でね、小さい時からよくお世話したものよ……」


 眠る前、母はいつものように頭を撫でながらアフリカにいた時の昔話をしてくれた。

 村での暮らし、部族のまじないや儀式、ジャングルや北部に広がるサハラの大砂漠、そして遥か遠くの地平線から顔を出す太陽のこと。

 それらの話を聞く度に、少女はまだ見ぬ故郷に思いを馳せた。いつかみんなで帰るその日を夢見ていたが、それはついに叶わなかった。

 母親が死んでから、少女は子ども奴隷ピッカニニーとしてノースカロライナ州のフリント農園に僅か二〇〇ドルで売られ、その後も南部の様々な農園を転々とした。

 ランドル農園、キャメロン農場、ジョーンズ農場、ファルコン・ハースト農園……最終的にテネシーのストーンマン家に買われ、屋敷付き獣人奴隷ハウス・ファージーとして飼われることになった。

 ナッシュビルでの生活は過酷な労働に酷使される畑奴隷フィールド・ハンドよりはまだマシだったが、コゼットにとってはまた別の問題が浮上してきた。母親から美しい容姿を引き継いだことによって、成長するに従って様々な問題が生じてきたのである。


「コゼット……服を脱ぎなさい」

「…………」


 そんなある日、ストーンマン家の当主、フィル・ストーンマンの書斎に呼ばれたコゼットはそのように命じられた。


「どうした? 聞こえなかったのか?」

「はい……」


 奴隷は主人の命令には絶対服従だ。戸惑いながらも、コゼットは震える手で服を脱いで裸になった。



 そして、性的な虐待が始まった。



 拘束されて鞭打たれ、耳もとでいやらしい言葉を吐かれ、性器にすら成っていないまだ幼い部分・・を蹂躙された。初潮がきていないのが幸いだった。

 これは南部においては別段、珍しい話ではなかった。

 理由は様々だ。自らの所有物を精神的にも服従させたいという欲望、あるいはマーガレット夫人と上手くいっておらず、夫婦生活が破綻しかけていたせいかもしれない。

 白人女性や、あるいはまだ黒人に生まれていれば、賞賛と羨望の的になったであろう美しさも、亜人奴隷の身の上では自らの破滅を速めるだけだ。不幸にも獣人奴隷と白人所有者の間に生まれてしまった混血児ムラートは、別の農場に売られるか、生まれた直後に殺され、密かに農園の隅っこに葬り去られるのだ。

 コゼットは初めの内、涙を堪えて必死に耐えようとした。屋敷の誰かがこのことに気づいて助けてくれると考えたのだ。

 しかし、誰も助けようとする者は現れず、むしろ他の奴隷たちも見て見ぬふりをした。

 厄介事には関わりたくない様子だった。

 唯一、違った反応を見せたのがマーガレット夫人だった。夫の不貞に対して怒りを燃やし、コゼットを呼び寄せて厳しく問い詰めたのだ。


「コゼット、お前がどういうわけで呼ばれたか分かっているのかい?」

「はい、奥様」

「今から質問することに、全部正直に答えるんだよ。いいね?」

「もちろんです。奥様」


 尋問が始まると、夫人は真っ先に聖書を手渡した。


「胸に手を当てて、聖書に口づけをし、私に真実だけを話すと神に誓いなさい」

「誓います」


 コゼットが言われた通りに誓うと、夫人はふんと鼻を鳴らして睨みつけた。


「いいね、お前は神に自分の潔白を証言したんだ。嘘を言ったら承知しないよ! さあ、ここにお座り。すべてを正直に話すんだよ!」

「はい」


 コゼットは何一つ包み隠さず、質問されたことに対して正直に答えた。

 その間、マーガレット夫人は何度も表情を変え、時には涙を流し、悲しげに呻いた。心から同情している様子で、コゼットはこの人なら自分を助けてくれると思った。


「ああ、かわいそうなコゼット……」

「…………」


 すべてを語り終えると、夫人は一転して優しい声色に変わり、涙を流してコゼットの小さな身体をぎゅっと抱き締めた。

 そして、約束した。今度からは私が守ってあげる、と。



 ……しかし、やがてコゼットはマーガレット夫人が自分を心配してくれているわけではないことに気づいた。



 夫人にとってコゼットは引き続き嫉妬の対象だった。些細なことで癇癪を起して責めたて、主人から守るどころか、むしろ憎むようになっていったのである。

 夫人が涙を流したのは、コゼットが感じた恥辱や主人の犠牲となった奴隷に対する同情などではなく、夫に裏切られたという彼女自身の怒りと、南部の白人女性にありがちなプライドを傷つけられ、自らの品位が貶められたことに対してだったのだ。

 マーガレット夫人は今まで以上にコゼットに辛く当たり、奴隷商人に売りに出そうとしては、夫に止められるということが繰り返された。

 もちろん、家庭内のいざこざや女の奴隷へのいたずらは巧妙に隠され、真新しい白いペンキのように外見だけは取り繕っていたが、屋敷の中は常にギスギスするようになり、もはや夫婦の決裂は避けられない状態になっていた。

 コゼットの目にはストーンマン家の者たちが醜い怪物ように見えた。しかし、幼い身の上にはどうすることもできなかった。恐怖しつつ命令に従い、そして絶望することしか。



「コゼット! どこだい、コゼット!」



「――はい、ここです!」


 雇われの黒人家政婦、ジェミマおばさんの呼び声が聞こえ、コゼットは窓拭きの手を止めて反射的に返事をした。その場に雑巾を置いて急いで階段を駆け下りる。

 本来であれば少しでも遅れるとお仕置きの鞭が飛んでくるが、今日は祭りの日ということもあって機嫌がよさそうだった。


「今日は市庁舎前で射撃大会があるからね、ケビン坊ちゃまにお弁当ランチ・ボックスを届けておいで! グズグズするんじゃないよ! ……ああ、それと、帰りに大きいパンを一つ買ってくるのを忘れるんじゃないよ!」

「わかりました!」


 コゼットはジェミマおばさんからピクニック用のバスケットと小銭を受け取ると、ストーンマン家の紋章が刻まれた外出用の首輪を付けて急いで家を飛び出した。

 家から離れられるのが、ここ最近の唯一の楽しみだ。

 街には至るところに出店が立ち並び、テネシー州の入植百周年を祝う祭りを盛り上げている。

 市庁舎と州会議事堂がある丘を目指して急ぎ足で歩いていくと、途中で出稼ぎにきた黒人や亜人向けに開かれた安酒場、〈セント・ピーターズバーグ〉の前を通りかかった。


「おお、コゼットじゃないか!」


 店の前で安楽椅子に座ってぷかぷかとパイプを吹かしていた老人は、少女の姿を見つけると手まねきした。


「ハックおじいさん!」


 コゼットは嬉しそうに駆け寄ってぎゅっとハグをする。

 酒場の店主を勤める白髪の老人――ハックルベリー・フィンは目を細めて、その頭を愛おしそうに撫でた。


「久しぶりだね。どうだい、調子は?」

「うーん。まあまあ、かな……」


 浮かない調子で答えるコゼットに、ハック老人は沈んだ声で切り出した。


「そうだね。すまない。アルウェンのことは……残念だった」

「うん……」


 それはつい数日前、ナッシュビルの近郊に住むエルフの一家が焼け死んだ事件だった。

 シンダール家はストーンマン家が所有する農園の近くに住んでおり、収穫の時期に手伝いに来てくれることもあり、以前から親交があった。とくにアルウェン・シンダールはコゼットに優しくしてくれて、井戸で冷やした冷たいスイカなどをよく御馳走してくれた。

 新聞では火の不始末によるものだと簡潔に報じられていたが、それがKKKの〈ナイト・ライダー〉による襲撃であることは、この街に住む誰もが知っていることだった。


「ねぇ、KKKの人たちはどうしてアルウェンさんを殺したの……? なにも、なにも悪いことしてないのに……」

「コゼット」


 ハック老人はその肩を掴んで、顔を真っ直ぐに見つめて言う。


「この街でその名前を言ってはいけないんだ。恐ろしい人たちには関わらない方が身のためだからね。我慢するんだよ、いいね?」

「うん……」

「おーい、ハック。コーン・ウイスキーの在庫は……」


 その時、店の奥からエプロンを着けたもう一人の老人が出てきた。


「ジム!」

「やあ、コゼットちゃん」


 コゼットは大柄な黒人の身体をぎゅっと抱き締め、そのお腹に顔を埋める。


「どうしたんだい?」

「なんでもないさ」

「うん……」


 ハック老人はパイプを持って椅子から立ち上がると、その頭にポンと手を置いた。


「コゼット……いいか、よく聞くんだよ。この戦争で南部はなにもかもが変わることになる。やがてくる『解放』に備えるんだ」

「カイホウって?」


 コゼットはきょとんと首を傾げた。

 その可愛らしい仕草に、元解放奴隷のジムはニコリと笑って答える。


「すべてがよくなるってことさ」

「カイホウされるとよくなるの?」

「そうだよ。……でもね、コゼットちゃん。このことはワシらだけの秘密だ。家の人にも誰にも言っちゃいけない。約束してくれるかな?」

「わかった!」

「いい子だ。さあ、お使いの途中なんだろう? 早くいきなさい」

「うん。じゃあね、ジム! ハックおじさん!」


 手を振って歩いていく獣人奴隷の少女を見送り、ジムは呟くように小さく言った。


「本当にいい子だ。……やはりワシらの代で終わりにしなければならないな、ハック」

「ああ。トムもきっとそう言ってるさ」


 ハックルベリー・フィンは眼光を鋭くして、街角に翻る南部連合旗を睨みつけた。



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