Phase.18 アンドリュー・アンダーシャフト
18
バーバラと別れてから、リジルは胴元小屋の前を一人でうろついていた。
手のひらには二枚のソブリン金貨が握られている。馬券の買い方は教えてもらったが、どの店でどのガーニーに投じるのかはまだ選び切れていなかった。
相変わらず周りでは様々な客寄せ装置が稼働している。
けばけばしい色をした動物の人形や蒸気看板は、騒々しい見世物小屋そのものだ。トゥインクル・ウイニング社の天蓋の上では、ただひたすらに五芒星が回転しており、見ていると次第に目まいがしてきた。
リジルは雑踏を離れ、一休みできる広場に足を向けた。庭園の中心に備えられた噴水の縁に腰を下ろし、バーバラから貰った出走表を広げる。
しばらく出場ガーニーの図表と睨めっこしていると、空から白い塊が降ってきた。
「や、リジル」
「クロー!」
白カラスは羽ばたいて噴水に着地すると、ぐっと翼を大きく開いて伸びをする。
「ふひー、ちかれたちかれた」
「集会は終わったの?」
「ついさっきね。いや、集会っていっても報告会の体をしたお喋りの会だよ。ほら、昔からのしきたりでロンドン塔を離れられない奴らもいるからさ。そいつらに旅の話とか定期的に聞かせてあげてるの」
「へぇ、なにか面白い話はあった?」
「色々あったよ。中でも傑作だったのがさ、
「象が空を飛ぶの?」
「いやー、友達のジムがさ、サーカスで本当に見たらしいんだよ。象が鳥みたいに空を飛んだんだって! もうさみんな大爆笑だよ。そしたらディアヴァルって奴がさ、『そいつはクロー、お前みたいな白いカラスよりもありえねぇ』って言って。いや、白いカラスはアルビノの関係だから別に珍しくもないんだけどね? 『ボクがいるってことは、その象もどっかにいるってことじゃん』って言い返して……ムグッ」
突然、リジルはクローの嘴を摘まんで立ち上がった。警戒するように身構えたまま、周囲の生け垣を見回す。周囲に人影はない。
「いちち……」
「しっ、誰かくる」
帽子の中で少女の獣耳がピクっと微かに動いた。噴水の水音に混じって、誰かが杖を突いてこちらに向かってくる。
「この気配……」
じわりと冷や汗が額に滲む。リジルはクローを庇うように立ち上がって身構えた。
「ああ、ここか。ようやく見つけた」
しばらくして、その人物が姿を現した。太った議員貴族のようにゆったりと緩慢で、自信に満ちた足取りの初老の男。
「アンダー、シャフト……」
「いかにも。アンドリュー・アンダーシャフトだ。七代目、だがね」
「…………」
リジルは腰もとに忍ばせたナイフに手を伸ばす。昨日は無防備だったが、今日は念のために武装してきた。
「そう警戒することはない。リジルだったかな? 君の話は聞いているよ。なるほど、確かに赤と銀の綺麗な瞳をしている。
「近づかないで」
親しげに近づいてくる男に、リジルはぴしゃりと言った。
「その杖……嫌な予感がする」
「いい勘だ。獣の嗅覚か、はたまた殺し屋としてか」
アンダーシャフトはくつくつと笑い、リジルと距離を取ったまま噴水の縁に腰を下ろした。
「君のことは少し調べたよ。〈
「シグルドは、私の恩人……だった人」
「ああ、なるほど。納得した」
苦々しく答える少女に、男は手持ち無沙汰に仕込み杖を弄んで続ける。
「武器こそ人類が発明した最善にして最良の道具……そうは思わないかね? これの心強さは君もよく知ってるはずだ。これさえ持っていれば、互いに安心して対話ができるのだからな。武器のない対話などあり得ん」
「違う。お互いに武器を持たないほうが、もっと安心してお話しできる」
「そうかね? それならば、平和の体現者よ。なぜ君は武器を持っているのかね?」
「……っ」
言葉に詰まる少女に、アンダーシャフトはニヤリと笑みを浮かべたまま続ける。
「昨日、私がマキシムの館に着いた時、君は明らかに動揺していたな。あれは戸惑いだった。普段から自分が頼っている物がなくて、どうすればいいのかと身構えている、そんな様子だ。武器の重さに慣れてしまった者に特有の反応だな」
「…………。……あの時、あなたは私を一目で獣人だと見抜いた……どうして?」
「私の目はなんでも見抜いてしまうのだよ。我々は観察し、その時々で適切な対応を取るのだ。その多くは金と火薬を用いるのだが……君にはそのどちらも使う気はない。安心しなさい。私はこう見えても平和主義者だからね」
「信じない」
「信じなくてもいいが、今日は君と話をしにきたんだ」
アンダーシャフトは肩を竦め、懐から葉巻を取り出した。マッチを擦って先端に火を点し、なお燃えている頭薬の小さな火種を見つめる。
「見たまえ、この世は火薬でできている。クリスチアン・シェーンバイン、アルフレッド・ノーベル、ポール・ヴィエイユ……そして、私のアンダーシャフト新式爆薬。有史以来、火薬は歴史の原動力だった。火薬が支配するこの世界で、貧しい人々は神の救済にすがる。ところで、君は教会には入っているかね?」
「…………」
リジルは無言で首を振った。
「だろうな。だが、それでいいのだ。これは私の宗教だがね。真の救済に必要なのは教会でも救世軍でもない。火薬によってもたらされる富、ただ一つなのだ」
「よくわからない。なにが言いたいの?」
「つまりだ、私もワイゲルトも貧困が大嫌いで、現代の福音である火薬が大好きだということだよ。我々は
「嫌い」
「だろうな。では、君が彼と一緒にいる資格はない」
アンダーシャフトはマッチを吹き消し、葉巻を咥えた。
「……っ。な、なんでそんなこと、言うの……」
「はっきり言おう。私は君が彼に悪い影響を与えているのではないかと心配している。ああ、君に獣人の血が混じっているから、ではないよ。私は亜人差別主義者ではないし、今流行りの優生思想にもさほど興味はないからな」
「悪い、影響……」
「左様。以前のワイゲルトならば、むしろ喜んで南部に行っただろう。本来、この南部行きの話は我々にとって罰ゲームにすらならん。だが、奴は君を戦場から遠ざけようと躍起になっている。じつにナンセンスだとは思わんか? 武器商人が戦場を避けるとは!」
「……っ!」
アンダーシャフトに睨みつけられ、リジルはクローを抱いてぎゅっと縮こまった。
「彼は八代目アンドリュー・アンダーシャフトを継ぐ男だ。こうも腑抜けていては困る。どのような意図でワイゲルトが君にクイーンズ・イングリッシュや上流階級のマナーを教えているのかは知らんが、現状、君は武器商人カネトリの足かせになっているのではないか? それは君も思うところが……」
「違う」
リジルは拳を握り締め、その色の違う両目を大きく見開いて立ち上がった。
「私は、カネトリの役に立つ。それに……」
「それに?」
少女はすぅっと息を吸って、目の前の男を睨みつけた。
「カネトリは、
「……ほう、いい目だ」
アンダーシャフトは動じず、微笑を浮かべたまま葉巻を吹かす。
「では、どうすると言うのかね? 武器に呪われた獣の娘よ。彼は私が長年かけて育て上げてきた候補者だ。今は未熟だが、その素質がある。どこかそこら辺の孤児にアンダーシャフトを継がせるというわけにはいかないのだぞ?」
「そ、それは……」
「
「…………」
目の前の男が背負っているあまりに巨大なものを前にして、リジルは言葉を出すことができなかった。
死と破壊の大商人は咥えた葉巻を軽く揺らして続ける。
「どうも君は私を誤解しているようだ。歴代のアンドリュー・アンダーシャフトが孤児の中から選ばれてきたのは知っているな? 我々は貧困と奴隷制を、どんな犯罪よりも憎んでいる。貧困と奴隷制は教会の説教や有力紙の記事には何世紀も耐えてきたが、私の大砲と機関銃には耐えられない。貧困という社会悪に説教は通じない。彼らに理屈は通じない。ただ殺すのだよ。殺すこと、それが唯一の解決法だ」
「殺す、こと……」
「そうだ。君と同じように。私は武器を売ることで英国に富をもたらし、ロンドンにはびこる貧困を殺す。言うなれば、人を生かすために人を殺しているのだ」
それが強者の論理で、取るに足らない詭弁であることは少女にもわかった。
同時に目の前の男がそれを心から信奉しており、決して詭弁として用いていないことも。
「あなたは、狂ってる……」
「狂人以外に大砲が造れるとでも?」
「…………」
火薬という資本主義の福音。すべてを破壊し尽くす産業の裏には、何十万人もの人々の生活がある。いつだったか、カネトリは言っていた。『十字架を背負って現場に立つのが、俺の職業だ』と。
そして、それは火薬に捕らわれた武器商人カネトリの悲しい
その時、ふと少女の頭の中にある考えが浮かんだ。
「それなら……」
絞り出した言葉は震えていたが、確かに力がこもっていた。
「カネトリがアンダーシャフトにならなくてもいいように……私が、アンドリュー・アンダーシャフトを継ぐ!」
「なっ……」
アンダーシャフトはポカンと口を開け、葉巻がこぼれ落ちた。これにはさすがの白カラスも驚いた様子で、まじまじと少女の顔を見上げている。
「私も孤児で教育を受けてこなかった。だから、その資格はあるはず。私がカネトリの代わりに十字架を背負う」
「…………」
「それとも、亜人で女だからダメ?」
「い、いや……すまないね。少し呆気に取られていた」
アンダーシャフトは落とした葉巻を拾い、噴水の縁に押しつけて消した。リジルを見つめ、先ほどとは一転して柔和な笑みを浮かべる。
「面白い娘だ。やはりワイゲルトが見込んだだけはあるな。当然だが、歴代のアンドリュー・アンダーシャフトに女はいなかった。……だが、もうそろそろで十九世紀も終わる。伝統には反するが、女性のアンダーシャフトが現れてもおかしくはない頃だろう」
「だったら……」
「だが、それは君がワイゲルトよりも優秀だった場合の話だ」
アンダーシャフトはきっぱりと告げ、杖を突いて立ち上がった。
「もしその気があるならば、リジル・アンダーシャフトを名乗るがいい。君を養子として受け入れてあげよう」
「いい。家族ならカネトリとクローがいる」
「そうか。……ワイゲルトを愛しているのだね?」
その問いに、リジルはアンダーシャフトの目を見据えたまま答える。
「バーバラと同じぐらいに」
「ふっ、恋敵かね。バーバラにも大変な相手が現れたものだ」
アンダーシャフトは肩を竦め、「だが」と付け足した。
「私はバーバラを応援するよ。それが親心、というやつだ」
「あなたはバーバラを愛しているの?」
「もちろんだ。家族の愛、それは人生で最高の贅沢だからね。……さてと、私はそろそろ戻るとしよう。ああ、それと一つ言い忘れていた。賭けに迷っているなら、君も〈ジャメ・コンタント〉に入れるがいい。今ならまだ間に合うはずだ」
「えっ」
アンダーシャフトはひらひらと手を振って踵を返した。
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