Phase.17 ガーニー勝負




     17




 ヒギンズ教授たちと別れてから、カネトリは胴元小屋に向かって歩きながら考えた。

 イライザ・ドゥーリトルの選択は偶然だろうか。出走表に丸などの印はつけていなかった。当然、事前にセーラ・クルーやカミーユ・ジェナッツィ本人からこの話を聞かされていたとも考えにくい。

 まったくの偶然の一致。一笑に伏すことも可能だろうが、あまりに状況が出来過ぎている。まるで何者かが本物の幸運の女神と引き合わせてくれたかのようだ。


 神か、あるいは悪魔が。


 実際、彼女は何気なく選んだだけだったろうが、バーバラの秘策に乗るかどうか迷っていた今の男にとっては、その選択は天啓にも等しかった。


「もう、ここまできたらやるしかないよな」


 カネトリは覚悟を決めた。馬券屋が数多く立ち並ぶ中でも、とくに万全の信用を置いているトレセン社の列に並ぶ。窓口の奥の集計エンジン二基に直結した蒸気仕掛けのオッズ看板が、くるくると回転して最新の賭け率を示している。

 次レースの最有力候補として名前が挙がっているのが、ジョン・ストレーカーの〈シルバー・ブレイズ号〉。やはり、昨年のエセックス・カップで優勝したことが大きいのだろう。その後に『魔王』ディック・ダスタードリーの〈ナンバー・ゼロ〉、ドイツ人発明家のフェルディナント・ポルシェの〈アウトウニオン・ビーレフェルト〉、『猿乗り』ウィリー・シムズの〈アンリー・オブ・ナバラ(アンリ四世号)〉と名だたる面々が続く。


「〈ジャメ・コンタント号〉は……十一・二倍か」


 今ここで〈ジャメ・コンタント号〉にポンと張れば、アスコット競馬場を後にする時には、それにゼロを一つ増やした額が戻ってくる……かもしれない。あくまでも可能性だ。可能性に過ぎないが、カネトリはふと銀行に二百ポンド近く預金してあることを思い出した。

 先の〈マスター〉との賭けで手に入り、手もとに残った分だ。その内の半分は、これまでの出費や諸々の借金に費やされるので動かせないが、百ポンドぐらいならどうにかなるはずだ。大金だが、百ポンドならば……。


「…………」


 馬皮の革袋の中には、銀貨と銅貨の小銭が混ざった数ポンドと小さく折りたたまれた最後の砦である五ポンド紙幣が収まっている。

 いや、さすがにそれはない。しっかりしろ、冷静になれとカネトリは自分に言い聞かせた。

 欲をかいて破滅してきた人間をこれまでに何人も見てきた。大人しくアンダーシャフトとの勝負の分だけを賭けよう。それだって戻ってくるのかすらわからない。

 しばらくして、カネトリの番がきた。格子窓の受付係に財布を差し出して告げる。


「〈ジャメ・コンタント号〉の勝ちに」

「こちらの全額でよろしいでしょうか?」


 一瞬迷った後、カネトリは無言で頷いた。

 受付係が革袋の中身を数え、金額をパンチしている間、カネトリは先ほどのイライザの言葉を思い出していた。


少し運がよけりゃウィズ・ア・リトル・ビット・オブ・ラック、か」

「はい? なにか申されました?」

「…………」

「えー、全部で八ポンドと十五シリング四ペンスです。ありがとうございました」


 受付係はカネトリのポケットに折り重なっている紙切れと同種の賭け札を差し出し、流れで次の客に目を移して、


「あー、その、口座払いはできるか?」

「はい」


 その問いで、再び視線を戻した。


「ただし、イングランド銀行以外ですが。〈ビッグ・ブラザー〉の不調の件は……」

「大丈夫。知ってる」


 カネトリは頷き、震える手で普段使いの財布から市民カードと口座カードを差し出した。


「俺の個人口座だ。〈ジャメ・コンタント号〉に、あと百ポンド賭けよう」

「全額ですか」

「全額」


 そう言ってしまってから、カネトリは自分でも驚いていた。

 すぐに猛烈な後悔に襲われた。自分でもどうしてこんな無謀な賭けに出たのか、わけがわからなかった。

 ある程度の偶然が重なったとは言え、無名の〈ジャメ・コンタント号〉が〈シルバー・ブレイズ号〉や〈ナンバー・ゼロ〉などの歴戦の強者を抜き去る保証はどこにもない。

 負けた場合、手もとに残るのは紙切れ一枚だ。百ポンドのしおりなど、今度こそ洒落にならない。


「はい。こちら、賭け札となります。ありがとうございました」

「…………」


 カネトリは百ポンド分の賭け札を受け取り、逃げるようにして胴元小屋を去った。

 破滅の予感で頭が一杯だった。自分は大穴を狙って、足下をすくわれたのだ。もしかしたら、この話を持ってきたセーラ・クルーとカミーユ・ジェナッツィは初めからグルで、バーバラと自分はあのベルギー人にハメられたのかもしれない。

 いや、ひょっとしたらこの儲け話自体がアンダーシャフトの作戦かもしれない。そうなるとあのイライザという娘もグルであり、こうも奇妙な偶然が重なったことにも説明がつく。


「はめられた……いや、墓穴を掘ったのか。自分で」


 相変わらずの熱狂が観客席を包んでいるが、カネトリの頭は冷静だった。

 にわかに南部行きが現実味を帯びてきた。

 それ自体は別にどうでもいい。市場は戦場にこそある。今回も少し早めに休暇を切り上げて武器商人カネトリの日常に戻るだけだ。

 だが、それにだって先立つ資金は必要だ。アンダーシャフトに頭を下げれば、喜んで用意してくれるだろう……が、それだけは絶対に避けたかった。


「あら、カネトリ。調子はどう?」


 ふらふらとおぼつかない足取りで、なんとか観客席までくると、そこでばったりバーバラに出くわした。リジルは連れておらず、一人だけのようだ。


「バーバラ……。リジルはどうした?」

「馬券の買い方を教えて、胴元小屋の前で分かれたわ。せっかくだから、私たちも二ポンドで勝負することにしたの」

「そうか……」

「ちょっと!」

「うげっ」


 バーバラは曖昧に頷く幼馴染の両頬を挟んでこちらに向かせ、その瞳を間近からのぞき込むように見つめる。


「どうしたのよ、そんなに真っ青になって」

「…………。や、じつは……」


 隠してもすぐに無駄になると悟り、カネトリは素直に話した。

 それを聞いて、バーバラは目を丸くした。


「はあ!? 馬鹿じゃないの! 百ポンドだって、あんたそれ」

「魔が差したんだよ……。だから、すまんが、金を貸してくれ。五十ポンドでいいから!」

「ナンセンス! 金貸してって、そういう問題じゃないでしょーが! 大体、あんたはいつもいつも無計画なのよ。わかる……」


 こういう時、反論や事情の説明などはお説教を長引かせるだけだ。母親のブリトマート夫人そっくりな口うるささで叱る幼馴染に、カネトリは無言でじっと耐える。

 しばらくして小言が尽きると、バーバラは若干上がった息を深呼吸して整え、呆れたようにため息を吐いた。


「まったく、しょうがないわね」

「いいのか?」

「仕方がないでしょ、もう……。ただし、条件があります」

「条件?」

「うん。それを飲むなら、お金貸してあげる」

「わかった。なんでも言えよ」

「オーケー。なら、ディキシーランドにいく時に、私も……」


 バーバラがそう言いかけた時、競技開始のファンファーレが鳴った。

 スタート・ライン上に並んだガーニーにそれぞれの蒸気騎手たちが乗り込んで、ボイラーやエンジンに火を入れていく。

 数分ほどの準備が完了すると、ピストルの合図で一斉に走り出す。

 スタートダッシュを決め、真っ先に先頭に踊り出たのは、ジョン・ストレーカーの〈シルバー・ブレイズ号〉。評判通りの圧倒的な走りで、あっと言う間にその他のガーニーを置き去りにする。

 〈シルバー・ブレイズ号〉に続く後続車両が最初のコーナーで位置争い入る。肝心の〈ジャメ・コンタント号〉は、先頭車両の一団からやや後方を走っている。どうやら前方のガーニー群に道を阻まれて、思うように速度が出ないようだ。

 もはやなんの希望も持っていないカネトリは、ここからの巻き返しはかなり難しいだろうとぼんやり思った。

 最初の四百メートルを過ぎ、第二コーナーに差し掛かると、口に手を当てて笑っている犬がペイントされた〈ナンバー・ゼロ〉がするすると前に出て、『魔王』ディック・ダスタードリーが先頭を奪った。

 ジョン・ストレーカーと睨み合うような一騎討が展開されるかと思いきや、レースの中盤に至って、〈ジャメ・コンタント号〉が急に速度を上げた。

 まるで弾丸のようにその他の車両を抜き去り、先頭の二車に肩を並べる。カネトリははっと息を呑んだ。残り六百メートルのハロン棒を過ぎるまでは横並びだったが、それもそこまでで、〈ジャメ・コンタント号〉が大きく突き放し始めたのだ。


 英国最速の〈シルバー・ブレイズ号〉が易々と抜き去られたことで歓声はピタリと止んだ。


 観客席が唖然として見守る中、〈ジャメ・コンタント号〉が電動モーターを唸らせてラスト・スパートに入る。最終コーナーから直線コースへ、さらに加速していき、あっという間にゴールを過ぎた。


「「うそ……」」


 二人の声は、揃っていた。

 審査員が慌てて旗を振り、速度が計測される。中央の順位表が慌てて更新され、次々と他のガーニーがゴールする中、〈ジャメ・コンタント号〉の最高速度が時速一〇五キロであり、英国ダービーの新記録を打ち立てたことが示された。

 ここにきて、観衆がわっーと驚愕の叫び声を上げた。蒸気騎手のカミーユ・ジェナッツィが減速して運転席を降りてから、ようやく歓声が追いついたのだ。コース脇から写真機とシネマトグラフを抱えた新聞記者たちが我先にと駆け寄り、優勝者を取り囲む。


 あの〈シルバー・ブレイズ号〉が抜かれるなど、一体、誰が予想しただろうか。


 次第に高まっていく群衆の熱気と狂乱。喧噪が耳朶を打つ中、カネトリは恐る恐る手もとの青い賭け札を見る。そして、隣の幼馴染と目を合わせた。


「俺……勝った?」

「…………」


 少女は無言で頷いた。

 カネトリはトレセン社の賭け札に視線を戻した。今や一千ポンド以上の価値がある賭け札に。


「勝った」


 一音ずつ確かめるような呟きが、自然と口から漏れた。

 カネトリは勝ったのだ。



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