Phase.16 少し運がよけりゃ




     16




 ベルトが高々と宙に引き上げられ、各ガーニーが一斉に蒸気を吐き出して走り出した。

 ケンタッキー州出身の黒人騎手、ジミー・ウィンクフィールドは最後から二番と出遅れてしまい、もはや最短距離の内枠インコースの確保は叶わなかったが、それでも一団となって走りながら、来たるべきチャンスをじっと待ち続けていた。


 八〇〇メートルのハロン棒のところでそのチャンスがやってきた。


 先頭を『電撃』マックイーンの駆る〈ライトニング号〉、二番手に初参加となる日本人騎手ゴウ・ミフネの〈音速号〉、三番手にロバート・ノーバートン卿の〈ジョスコム・プリンス号〉、ジミーは四番手として愛車〈ジョッキー・ジョー〉をその後にぴったりつけていたが、第三コーナーに差し掛かった時、後方のイタリア人騎手マリオ・マーリオの〈ロッソ・グッショ〉が唸りを上げて迫っていていることに気づいた。

 たちまち抜かれてしまうかと思われたその時、不意にインコースの〈ライトニング号〉と〈音速号〉の間に隙間ができた。ジミーは〈ジョッキー・ジョー〉の蒸気アクセルを全開に吹かし、強引に割り込みをかける。


「おい、無茶だ! やめろ!」


 マックイーンが怒鳴り、ゴウも咄嗟に日本語で「無茶だ!」と叫んだ。

 あわや大事故かと思われたが、ジミーはひるまなかった。隙間が閉じる直前、間一髪で突破に成功し、先頭に躍り出る。観客席がわっと沸き上がった。

 各ガーニーが横並びになって直線コースに一斉になだれ込んだ時、ジミーはマックイーンとゴウに僅かながら先んじていた。

 そのまま一着でゴールイン。配当は二十六倍という番狂わせだった。


「あ、ああ……」


 カネトリは観客席の鉄柵の前でがくりと膝を折り、マックイーン・・・・・・に一点賭けした五ポンドの賭け札を天に掲げた。

 まったく、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 小一時間もしない内に、元手はすでに半分に減っていた。序盤こそ数ポンド勝ったものの、その後は負けと微増を繰り返して今に至る。


「はあ、やっぱ賭け事向いてねぇな」


 事前に仕入れた情報だとマックイーンの石油ガーニー一強であり、彼の優勝は確実だろうと囁かれていたレースだっただけに、その衝撃も大きかった。

 幸運の女神に無視された男は熱狂する観客に目もくれず、まるで破産した博徒のように首をすぼめながら、あてもなく競馬場の周縁をさまよう。

 ポケットの中にはすでに紙切れになり果てた賭け札が数枚折り重なっている。地面に捨てられて清掃ガーニーに吸い込まれているものと同種だが、一ポンドの高級な本のしおりブックマークをお土産に買ったと思えば、なんとか精神は保てないこともない。

 それにも限界があるが。


「ああ、どうしようか」


 いつの間にかカネトリは外周を一周して、柵で区切られた中央のグランドスタンドのほうに来ていた。

 入場券が一ポンド近くするのにも関わらず、スタンドはほとんど満員状態のように見えた。初日でロイヤル・ファミリーが訪れるからだろう。盛装した貴族や令嬢たちがオペラグラスでレースを観戦しながら楽しげに談笑している。

 自分が普段生きている世界とは、まるで違う世界。

 羨ましいものだと羨望のまなざしで見上げる一方、その内の一人にアンダーシャフトの姿を見つけ、自分が生きる世界と社交界が隣り合わせであることにも気づく。

 現在の身分は〈銃後のお茶会フロック・ティーパーティー〉に所属する一介の武器商人に過ぎないとはいえ、この柵の境界を超えるのは容易だ。

 一ポンドの余分な出費が手痛いことには変わりないが、財布から出せなくはないし、身なりも金や宝石で着飾った貴族には多少劣るとは言え、グレーのモーニングにシルクハットという今の装いならば、スタンドのドレスコードに引っかかるほどでもない。

 それもこれも餓死寸前の移民孤児をイースト・エンドの路地裏で拾って教育を施してくれたアンダーシャフト家のおかげだ。

 そして成長して独り立ちした今、その恩人を相手にダービー勝負を挑んでいる。恩知らずも甚だしい話だと、カネトリは苦笑した。



「畜生! なんでぇ、みんなして馬鹿にしやがって!」



 踵を返そうとしたその時、グランドスタンドの芝生から一人の淑女が出てきた。

 栗色の髪の毛をした、見るからに活発そうな娘だ。孔雀の羽根などが盛られた白い帽子に、お揃いの白と黒のタイト・ドレスで盛装している。一見すると上流階級の令嬢そのものだが、服装に似合わず下町訛りコックニーで口汚く周囲を罵っていた。


「待ちなさい、イライザ!」


 すぐに後を追って男が出てきた。こちらは淑女に比べるとかなり地味な格好で、野暮ったいブラウンのスリーピース・スーツに中折れ帽子フェードラ。よほど自分の身なりには興味がないのか、シルクハットという最低限のコードすら完全に無視していた。


「うえええい! 離しやがれ、ンリー・ギンズ!」

「こら、暴れるんじゃない!」


 紳士は手首を掴んで引き戻そうとするが、戻ってなるものかと淑女はじたばたと暴れる。

 さすがに止めようかと考えていると、男と不意に目が合った。カネトリもよく知る人物で、反射的に「あっ」と声が出ていた。


「ヒギンズ教授じゃないですか!」

「むっ、知った顔だ。どこかで会ったかな。えーっと……」

「ワイゲルトですよ! アンダーシャフト家の!」


 それでようやく思い出したらしい。ヘンリー・ヒギンズはぽんと手を打った。


「おお、ワイゲルト君。一か月ぶりぐらいか。いつものカラスを連れていないので一瞬わからなかったぞ」

「リジルの一件ではお世話になりました。近い内にお礼に伺おうと思っていましたが、まさかこんなところでお会いするとは」

「領土は大きいが、イングランドは狭いからな。……ところで、今日はあの娘は連れてないのかね?」

「来ていますが、別行動中です」

「そうか。いや、残念だ」


 そう言って音声教授は残念そうに首を振った。普段は他人に興味のない教授にしては珍しい反応だった。


「もしや、なにか用事でも?」

「そうじゃない。いい成功例サンプルだからな。イライザに会わせてやろうかと思っただけだ」

「イライザ?」

「彼女だ。紹介しよう、花売り娘のイライザ・ドゥーリトルだ」


 ヒギンズに紹介され、イライザはスカートの裾を持ちあげ、大げさにお辞儀カーテシーして見せた。ばか丁寧に一音節ずつ区切ってゆっくりと挨拶する。


ご機嫌は、いかが、ですかハウ・ドゥ・ユー・ドゥ?」

「ご機嫌よう」


 カネトリもシルクハットを傾けて軽く会釈した。


「いや、じつはな。ワイゲルト君との一件を友人のピカリング大佐と話していたのだ。獣人にできて、花売り娘にできないはずがない。この小娘を一端のレディに仕立てて社交界に出してみようと実験していたのだが……結果は見ての通りだ」

「ああ、なるほど」

「あんだよ?」


 イライザにじろりと睨まれ、カネトリは苦笑した。リジルとは真逆なタイプの娘だが、いずれは彼女も立派な淑女に変わるのだろう。


「おうおう、何見てんだ。おめぇも教授の友達かよ」

「元生徒だ。今の君と同じね」

「そうか、ならお前もこん畜生にやられたんだな」

「まあな。手厳しくしつけられたよ」

「あたいもさ! こいつってば怒鳴ってばっかっでよ、昨日も『今に見てやがれジャスト・ユー・ウェイト』って思いながら……」


 ヒギンズはごほんと大きな咳払いをして話を続ける。


「そういえば、スタンドにアンダーシャフト卿の姿があったが、今日は家族でアスコット見物かね?」

「いえ、そうではなくて……」


 話そうかどうか一瞬迷うが、隠すほどでもないのでカネトリは素直に事の顛末を話した。

 それを聞き、ヒギンズは愉快そうに笑う。


「はははっ! 今度はアンダーシャフト卿と賭けというわけか! 〈マスター〉の一件といい、君は相当、賭け事が好きなようだ」

「決してそういうわけでは……。実際、負け続けですよ。どうも幸運の女神には見放されてしまったようで」


 やれやれと頭を掻くカネトリに、イライザは胸を張って応じる。


「幸運の女神なら目の前にいるじゃねぇか」

「えっ?」

「えっ、じゃねぇ。あたいだよ! 任せな、こう見えても運だけはいいんだ。同じ生徒のよしみで大勝させてやるぜ」

「おい、なにを勝手に」


 ヒギンズの制止を振り切り、イライザはカネトリが脇に挟んでいた出走表をひったくった。レースに出馬するガーニーの一覧をじっくり眺める。


「どれにしようかな、ザ・ロードの言う通り……。よし、こいつだ! 〈ジョッキー・ジョー〉!」

「それはもう前のレースだ。次のレースは、その隣のページ」

「ああ、そっか。どおりで聞いたことのある名前だと思った」


 イライザはケロリと言って、再び視線を落とす。


「うーん、それなら……こいつだ! ラ・ジャマイス・コンテート、フランスの車かな? よく読めないけど」


 それを聞いて、カネトリははっと目を見開いた。


「〈ジャメ・コンタント号〉だ!」

「そうそう。多分それだ」

「ほ、本当に、来るのか、これが?」

「さあ。知らねーよ」

「そんな……」

「離せよ。競馬なんだから、保証のしようがねぇだろ」


 興奮して肩を掴むカネトリの手を払いのけ、イライザは出走表を胸もとに押しつけ返す。


「でもよ、それこそ『少し運がよけりゃウィズ・ア・リトル・ビット・オブ・ラック』ってやつじゃねーの? ま、あたいのクソったれ親父の口癖なんだけどさ」



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