Phase.15 淑女の一勝負




     15




「で、どうするって言うのよ、カネトリ?」

「…………」


 カミーユ・ジェナッツィと別れてパドックを出てからもカネトリは終始無言だった。

 手の中には、銀行から下ろしたての二十ポンド札が握られている。チャールズ・バベッジと、『機関エンジンの女王』こと天才機関技術者エンジニアのエイダ・バイロンの肖像が印刷されたイングランド銀行券。

 カネトリは手汗でくしゃくしゃになったそれを換金所で五ポンド札とソブリン金貨に両替した。


「えっ、どういうつもりよ。なんでわざわざ……」

「こういうことだ」


 リジルとバーバラに二ポンドずつ握らせ、残りの十六ポンドをポケットに収める。


「一緒に戦ってくれ」

「一緒にって、二ポンドも渡していいの?」

「単純なリスク分散だ。それにビギナーズ・ラックって可能性もあるだろ? この二ポンドは好きに賭けていい。リジル、賭け方はバーバラにでも聞いてくれ」

「わかった」


 ズシリと重たい二枚の金貨を握り締め、リジルは頷いた。


「それじゃ、また後でな! セーラの秘策についてはもう少し考えたい」

「あ、ちょっと……」


 カネトリはそう言い残し、勝負に出るために踵を返した。

 バーバラはその背中を見送り、ため息交じりにリジルに視線を移す。


「じゃあ、私たちも行きましょうか。リジルちゃん、競馬ってやったことある?」

「ない」

「じつは私もあまりないのよね。とりあえず、売り場に行きましょうか」


 二人は競馬場の中心部、賭け屋が密集する区画に向かった。

 猥雑な通りには豪華な天蓋付きの小屋がところ狭しと並んでおり、それぞれの企業や昔ながらの個人経営の胴元が客引きを行っている。至るところにのぼりが翻り、資本力がある胴元の前には蒸気仕掛けの派手な自動看板が据えつけられていた。

 リジルの目の前で定期的に更新されるオッズ表を掲げた巨大なライオンが前足でゆっくりと手招きしている。

 その隣には赤い風船を片手にウインクを繰り返す白塗りの巨大ピエロがいて、「シシシシッ」と声を押し殺して笑っているデフォルメ調の犬や、賭け札を奪ったネズミをぐるぐると追いかけ回している間抜けな猫の姿もあった。


「ね、あれ見てリジルちゃん! あの蛙、宙がえりしてるよ!」


 リジルとバーバラは目移りしながら区画の奥へと進んでいった。

 やがて胴元小屋が尽き、賭け客に向けた出店も少なくなり、人の流れもまばらになる。

 そのタイミングでバーバラは「ちょっと休憩しようか」と、丁度空いていたベンチに並んで腰を下ろした。


「ねぇ、リジルちゃん。一つ聞いていい?」

「なに?」

「リジルちゃんってカネトリのことが好きなの?」

「えっ」


 突然の予期せぬ問いかけに、リジルは顔を赤めて言葉を失った。何と返したほうがいいのかわからず、答えられずに数秒が過ぎるが、その反応で充分だった。

 バーバラは物憂げにため息を漏らして、少女から視線を外した。


「やっぱりね。まったく、あんな変態のどこがいいんだか」

「助けてもらったから。それに、私が獣人でも差別しないで受け入れてくれた」


 端的に答えるリジルに、バーバラは視線を逸らしたまま言う。



「それって、獣人だから、じゃなくて?」



「…………。……そうかも」


 リジルは言葉に詰まり、伏し目がちに頷いた。

 会話が途絶える。しばらくして、バーバラは目頭を揉んで晴れた空を見上げた。


「ごめん。今のは少し意地悪だったわ。本当はこう言うつもりじゃなかったの」

「ううん。いいよ」

「……私、時々ね、獣人の人たちが羨ましく思えるの。もちろん、差別されて大変だってことはわかっているつもりだけど、獣の耳とか尻尾とか、可愛いじゃない? 他のみんなは嫌って言うけど、私が特殊なのかしら?」

「……考えたことなかった」


 亜人の特徴として嫌われこそすれ、獣耳と尻尾が可愛いなどという話は今まで聞いたことがなかった。

 リジルは一拍置き、隣の少女をじっと見て問う。


「バーバラはどうしてカネトリが好きなの?」

「ま、まあ、腐れ縁ってやつかしら。小さい頃から一緒に暮らしてたから、もう家族みたいなものね」

「家族……」

「リジルちゃんの家族は?」

「死んだ」


 その問いに、リジルは伏し目がちに答えた。


「一人だけ、お父さんみたいな人はいたけど……。結局その人にも置いていかれてしまった。ずっと一人で寂しかったけど、カネトリに助けてもらった。だから、今はカネトリとクローが家族。大切な仲間」

「そう」


 バーバラはぎゅっと胸を掴まれる思いだった。先ほど意地悪なことを言ってしまったという罪悪感が押し寄せるが、努めて明るく言う。


「ま、好きじゃなかったら一緒にいないわよね。それじゃ、私たちライバルってことになるのかしら?」

「ライバル?」

「恋のライバルよ。だってリジルちゃんもカネトリと結婚したいんでしょ?」

「えっ?」


 リジルは目を見開き、きょとんと首を傾げた。


「えって、違うの?」

「……考えたことなかった。でも、それってシンデレラみたいになれる?」

「え、シンデレラ?」

「最近、絵本で読んだ。二人は末永く幸せに暮らしましたとさデイ・リブド・ハッピー・エバー・アフターって。もしカネトリと結婚したら幸せに暮らせる?」


 あまりに純粋で微笑ましいその問いに、バーバラは苦笑した。


「リジルちゃん、結婚が終わりじゃないのよ。むしろ人生の始まりよ。シンデレラって王子と出会うまでが大変だけど、結婚してからがもっと大変だと思うわ。王族だし、スキャンダルもあるだろうし。それに、子どもだって作らなきゃだしね」

「子ども……」

「そう。お母さんになるのよ」

「お母さん」


 リジルは亡き母に思いを巡らせるが、その面影はすでにおぼろげだった。

 これまでの経験上、そういうこと・・・・・・を想像するのはたやすかったが、自分の子どもを抱き締めている姿など思いもよらないことだった。


「まあ、私も体験したわけじゃないからなんとも言えないけど、子育てとか色々大変らしいわ。とくにアンダーシャフト家の妻はね、伝統的に夫に振り回されてきたの。財産も会社もすべて他の孤児に引き継がれちゃうんだから。別居中の私のママなんかがいい例ね」

「でも、それでもバーバラはカネトリと結婚したいんでしょ?」

「まあ、カネトリがアンドリュー・アンダーシャフトを継ぐって決まったわけじゃないしね。望みは薄いけど」


 バーバラは肩を竦めて、レースの手袋を取った。


「だから、私たちはライバル同士。せっかくの機会だし、私たちもこの二ポンドで正々堂々と勝負しましょう。ま、こんなんでなんの勝敗が決まるでもないけどね」

「わかった」


 差し出された手のひらに、リジルも強く頷いた。手袋を取って獣の手を差し出す。

 こうして、女同士の密かな決闘が幕を開けた。



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