Phase.3 ヴィクトリア駅




     3




「ふわぁ……。おはよう、二人とも」


 一階の酒場で朝食を終えて戻ってくる頃には、白カラスも目を覚ましていた。

 リジルはマダム・アンネにもらったピーナッツの小袋を皿の上に広げ、クローはがつがつと朝食をついばんだ。

食堂から持ってきた朝刊を読み始めるカネトリに、リジルはクローを撫でながら訊く。


「カネトリ、今日は何をするの?」

「んー、今日は……そうだな」


 例の事件から半月が経ち、次第に腹部の銃傷も癒えてきた。久しぶりに遠出してもいいかもしれない。そうでなくとも貴重な休暇なのだ。〈マスター〉から次なる厄介事を押しつけられるまで、だらだらと部屋に引き篭もっていてはもったいない。

 カネトリは「よし」とタイムズを閉じて、椅子から立ち上がった。


「デートしようか、リジル」

「デートって?」

「行けばわかる」


 ニヤリと口元を歪めるカネトリに、器用にピーナッツの殻を除きながら白カラスが言う。


「行けばわかるって、どこにいくつもり?」

「……あー、そうだな。どこか行きたい場所とかあるか?」

「行きたい場所……」

「どこでもいいぞ。動物園ズー水族館アクアリウム、美術館に博物館、パノラマ館、蒸気駆動画劇場キノトロープ・ショー、エジプシャン・ホール……そういや、行ったことはないが、メリルボーンにマダム・タッソー館という蒸気駆動の蝋人形館ワックス・ミュージアムもあったな。この機会に行ってもいいかもしれん」

「マダム・タッソー館は休館してるよ。来年のヴィクトリア女王の即位六十周年記念ダイアモンド・ジュビリーに向けて改装中だって」

「あれ、そうだっけ」

「…………」


 それらは聞いたことがあるが、実際に行ったことはなかった。一体どういうところなのか、と思いを馳せつつ、リジルは素直に答えた。一つに絞るなんて、できなかった。


「全部!」

「そうか。全部か。欲張りな奴だ」


 カネトリは苦笑し、うーんと妥協案を考えて続ける。


「それなら……久しぶりにシデナムにいくか」

「シデナム?」

「ああ。水晶宮クリスタル・パレスなら、欲張りなお前の願いを叶えてくれるはずだ」

「クリスタル・パレスいいよね! ボク、南洋区画の温室で売られてるポップコーン大好き! あのキャラメルがかかってるやつ!」


 クローが同意を示すように全力で羽毛を散らした。


「クリスタル・パレス……」

「行けばわかる」


 カネトリはそれだけ言って、クローゼットから商談用のシルクハットを取り出した。リジルも以前カネトリに買ってもらった孔雀の飾り帽子を被って自らの獣の耳を隠す。


「武器は……」

「置いておけ。必要ない」


 二人は外行きの服に着替えると、ギルドの前で待っていた辻馬車に乗ってヴィクトリア駅に向かった。

 南部の各都市に向かう長距離路線やロンドンを網の目のように覆う近郊路線が一堂に会する巨大ターミナル。馬車を降りてホームに歩き出すなり、二人と一羽は喧噪と行き交う人混みにすっぽりと包まれてしまった。

 あまりの人の多さに、白カラスを抱いた少女は目を丸くしてきょろきょろと辺りを見回した。


「すごい人がいっぱいいる……」

「ん? 来るのは初めてだったか。ホームが多いから離れるなよ。迷子になるぞ」

「うん……」


 リジルは頷いて、そっとカネトリのコートの裾を掴んだ。

 カネトリは多少の歩きづらさを感じて苦笑するが、何も言わずに窓口に向かった。


「クリスタル・パレスの入場券付き特別券を二枚。それと、できれば個室がいいんだが……」

「了解いたしました。ちょうど三号車のコンパートメントが空いております。えっと、合計で五シリング六ペンスです」

国民口座ナショナル・アカウントでお願いできるか?」


 咄嗟に財布から市民カードを出すが、駅員は申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみませんが、ただいま、イングランド銀行の口座払いは使用できません。その、〈ビッグ・ブラザー〉の不調で……」

「ああ、そう言えばそうだったな。すでに機関エンジンの修理は済んでると思ったが……」

「ええ。今回の不具合はかなり深刻なようです」

「そうか。それなら、ホールダー・アンド・スティーブンソン銀行の個人口座ならどうだ?」

国民口座ナショナル・アカウント以外であれば可能です」


 駅員はカネトリの口座カードを受け取ると、提出された市民カードと顔写真とを見比べて、市民番号をクレジット機械に入れた。最後にカネトリが承認用の五桁の暗証番号を入力すれば、その時点で支払いは完了する。


いい旅をボン・ボヤージュ


 駅員から印刷された伝票と切符、クリスタル・パレスの入場券を受け取り、そのまま機械式の自動改札を抜けて蒸気が立ち込めるプラットホームへ向かう。途中、構内販売所キオスクでやや割高なフィッシュ・アンド・チップスと飲料水を買い、目的のホームに向かった。

 二番ホームに差し掛かった時、リジルはふと立ち止まった。グイっとコートの裾を引かれ、カネトリは「ん」と振り返る。


「カネトリ、あれは?」

「ああ、海峡横断鉄道か。あの車両に気がつくとはお目が高い」


 リジルが指差した先には、出発準備を終えた一台の蒸気機関車が停まっていた。

 ぶるぶると微かに震える車両は、先頭から最後尾まで装甲板のようなV字の舷に覆われており、それぞれ落ち着いたハンターグリーンに塗装されている。


「あれは大英帝国が誇る最新の水陸両用・・・・車両、〈ブリティッシュ・プルマン〉だ。この二番線は大陸連結用、今からあの列車……いや、海上ではほとんど牽引船だな――は、文字通りドーバー海峡を走り抜け・・・・、カレーを経由してパリに向かう」

「列車が海に浮くの?」

「ああ。防水車両だからな。今出ている車輪が中に引っ込んで船に早変わりってわけだ。実際にはどこでもってわけじゃくて、定められた浮き橋の上を行くわけだが」

「そんなの作らなくても橋をかけたり海底トンネルを掘ったりすれば済むことなのにねー」


 クローのもっともな指摘に、カネトリは苦笑して頷いた。


「技術的には可能だが、英国の独立が失われるって国民の反対が大きくてな。もともと、フランスにしてみても、英仏海峡を繋げるのはナポレオン一世の頃からの夢で、ナポレオン三世も工事には乗り気だったんだが……世論には勝てないさ」

「あの列車はパリに行って戻ってくるの?」

「いや、帰ってくるのは一週間後かな。パリからはオリエント急行エクスプレスになって今度は欧州を縦断する。終着駅ターミナルはコンスタンティノープルだ」

「オリエント急行……」


 この線路の先は、遥か異国の地へと続いている。

 東欧の国々やオスマン帝国、広大な砂漠やジャングル、古代の遺跡、不思議な品物が並んだ市場バザール……そしてその先には、自分の生まれ故郷があるのかもしれない。

 まだ見ぬ世界に想いを馳せていると、武器商人にぽんと肩を叩かれた。


「気になるか?」

「うん。いつか乗ってみたい」

「俺もだ。乗ったことはないが……その内に中東に行商に出かけることもあるかもしれない。その時に乗ろう。経費で」

「せこーい」

「当たり前だろ。そうでもしないと高くて乗れん」


 その時、ホームにポーっと警笛が鳴り響いた。


「おっと、もう時間だ。列車に乗り遅れる前に急ぐぞ、リジル」

「うん」


 二人は少し早足でホームを横切って目的のウェストエンド・オブ・ロンドン&クリスタル・パレス連絡線に乗り込んだ。

 四人乗りのコンパートメントに向かい合って座ったところで出発時刻になった。

 プラットホームに立つ駅員が「出発進行オール・アボード!」と旗を振る。

 蒸気機関が唸りを上げ、煙突下の解放口が警笛とともに白い蒸気を解放した。圧縮された空気が主連棒を通して車輪を動かし、機関車は次第に速度を上げていく。

 煤煙混じりのシティを抜け出し、テムズ川を超えてその先へ。

 窓の外を流れていく街並みを眺めながら、リジルはそわそわとしてなんだかいてもたってもいられなくなった。


「窓、開けてもいい?」

「いいぞ。でも、トンネルでは閉めろよ」


 客車に風が強く吹き込んで、少女の長い髪をなびかせる。リジルは車窓から身を乗り出して色の違う両目を見開いた。



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