Phase.2 目覚めと獣人肌
2
「むっ……。獣人肌……」
ふと意識が覚醒した。目を開けるよりも先に自分の顔に滑らかな体毛の感触を感じ、男――カネトリはにやりとだらしなく顔を歪める。
起きかけの記憶は曖昧で、自分は今、ソーホーの奥にある行きつけの亜人娼館にいるのかと思ったが、ソーホーの女にしては香水の匂いがしなかった。
毛皮の奥に鼻を入れてすーはーと獣人臭を吸引するが、期待に反してそこまで体臭もキツくない。
「おい……。アイリーン……俺のかわいい『ファニー・ヒル』(※娼婦を主人公にした十八世紀の性愛文学)……今日はやけに……」
「アイリーンって、誰?」
「…………。……えっ」
そこで
抱いているのは、服が乱れてほぼ半裸同然となった少女だった。赤と銀の瞳が、カネトリの顔をじっと見つめている。
「おはよう、カネトリ」
「えっと、おはよう……ございます」
その口調はいつもと同じだったが、咎めるようなニュアンスを感じて、カネトリは自然と敬語になってしまう。
「あの……えっと、ここは俺のベッドだよな?」
「うん」
「全然記憶にないんだけど……。その、もしかして、俺はお前に……」
「ううん」
「そ、そうか。よかった……」
カネトリはほっと一息つき、起き上がろうとして、力が入らずあえなく倒れた。
頬に当たるのは、少女のふくらみかけの胸の感触だった。ドクドクと少し早い鼓動は獣人の血によるものなのか、それともこの状況がそうさせるのか、判断がつかない。
「すまん。寝起きで力が……」
カネトリは言いつつ、とくに抵抗しない少女を不思議そうに見つめる。
「……嫌じゃないのか?」
「別に」
「そうか。それはよかった。ちょっと……もう少しこのままで……」
しばらくの間、カネトリはご無沙汰だった獣人肌の感触を味わうことにした。
部屋の中は薄暗いが、おそらくは夜明け前なのだろう。窓のカーテンの隙間からほんのりと薄明かりが漏れている。
「リジル、何かあったのか? どうして俺のベッドに?」
「そのちょっと、怖い夢を見たの」
「怖い夢か。それだったら、立場が逆だな」
カネトリは言いつつ、名残惜しそうに数秒ほど経ってから体勢を変えた。
小ぶりの双丘から顔を上げ、今度は少女の顔を自分の胸もとに押し当ててぎゅっと抱き締める。
「どうだ、落ち着くだろう。リジルは甘えん坊だからな」
「それはカネトリも……」
「否定はしない」
図星を突かれ、カネトリは苦笑した。
「よかったら、夢の話を聞かせてくれないか?」
「うん……。あの、ね。昔の……捕まった時の夢」
「…………」
リジルはゆっくりと当時のことを語り出した。
その身に科せられた鎖の重みと、詰め込まれた檻の悪臭。奴隷狩りによって燃え上がる村と虐殺の様子。そして、母との別れ。
自然と、その柔らかな身体を抱く腕に力が入る。
「カネトリ……少し、苦しい……」
「! ああ、すまん……」
カネトリは力を緩めるが、その顔を直視することはできなかった。
「カネトリ……泣いてるの?」
「いや、大丈夫だ。それがアフリカのどこだったか覚えてるか? どんな国旗だったか、とか」
「覚えてる。あの鼻の長い生き物……名前がわからないけど」
「
「そう。
「ああ。ダホメ王国か」
土着の精霊信仰であるブードゥー教を国教として持ち、古くから欧州との奴隷貿易によって栄えてきた奴隷狩り国家。
王族による専制君主制を敷き、近代的な官僚組織と常備軍を持つ、部族社会のアフリカにおいてはかなり特異な国で、それ以上に悪名高いのが、ブードゥー教の呪術や怪しげな儀式の数々だった。
行ったことはないが、ダホメ人の野蛮な風習については商人の間でも度々話題になった。
「うん。あの国は今、どうしてるの?」
「あの国は……今はもうない。数年前にフランスに併合されたからな。奴隷貿易は禁止されているはずだ。人間も亜人も」
「そうなんだ。フランスになって、よかった……」
「よかった、か」
カネトリは帝国主義者ではなかったが、それについては何とも言えなかった。
「その夢で思い出したの。小さい時は近所に住んでるお姉ちゃんにかわいがってもらってた。だけど、お姉ちゃんは……南部に売られちゃった。多分、もう……」
「きっと大丈夫さ。生きてるはずだ」
「本当?」
「ああ。今は昔と違って奴隷がすぐに買えるような状況じゃないからな。奴らも貴重な労働力をひどくは扱わない……と、信じたいところだ」
俯く少女に、カネトリは元気づけるように努めて明るく言った。
「南部には『
「うん……」
頷いて微笑む少女を見て、カネトリはベッドから起き上がった。温もりの中から抜け出し、カーテンを引いて新鮮な空気を取り入れる。
太陽が顔を出すのには少し間がある。早朝のロンドンは薄い朝霧に包まれており、街角にはガス灯のぼんやりとした光が点っていた。目の前の通りには、あくびをかみ殺して働きに出る日雇いの
西の空にちらりと目をやると、薄雲の向こうで微かに星明りが瞬いているのが見えた。
「朝だね」
「ああ」
その時、ビック・ベンが夜の終わりを告げた。ゴーンゴーンという鈍い響きは霧の海に波のように広がっていき、長い余韻を残して消えていく。
一八九六年六月一五日――時計仕掛けの鐘の音によって、今日も帝都に朝が運ばれてくる。
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