Chapter.Ⅰ めぐりあい水晶宮

Phase.1 或る奴隷少女の夢




     1




Hé,おい、on va aller en今から地獄さenfer maintenant行くんだで!!!」


 鎖に繋がれた大柄の獣人は、東部コンゴ訛りのあるフランス語でそう告げた。

 檻を掴んで水平線の向こう側を眺めていた幼い少女はあまりフランス語を話せず、成長した今でもそれは変わっていないが、記憶の世界では不思議と言葉を理解することができた。


 当時、男が発した『地獄アンフェール』という単語の重みを。


 獣人たちの優れた嗅覚は先ほどから檻の悪臭に混じる潮の匂いを捕らえていた。数珠繋ぎで収納された檻は当初がたごとと激しく揺れていたが、港へ続く街道はその必要性からフランス植民地政府によって舗装されていたので、街道に入ってからは随分と楽になった。

 しかし、それでも長時間押し込められて輸送酔いしていた何人かは到着してからも立つことすら叶わず、中にはそのまま意識を失って死亡する者も多かった。


 西アフリカ、黄金海岸ゴールド・コースト


 ギニア湾に面した港町ウィダには、すでに多くの奴隷商人が詰めかけていた。

 当時、欧州ではすでに奴隷貿易が禁止されてたが、亜人奴隷に関しては、その必要性から黙認されていた。幾つかの独立国では主要産業として平然と続けられ、むしろ需要の高まりから今まで以上に活気に満ちていた。欧州への販路は減ったとは言え、アメリカ南部や南米では未だに奴隷制が存続していることもあり、出荷先・・・には事欠かなかったためだ。

 奴隷狩りと獰猛な女性兵士アマゾンで知られる西アフリカの主要な奴隷貿易国家の一つ、ダホメ王国もその一つだった。

 かつてポルトガルが大航海時代に貿易拠点として建てた奴隷貿易用の要塞サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダには、今やダホメ王国とフランス帝国の旗がともに翻っており、『飛び地』として権利を主張するポルトガルの取りつく島はどこにもない。

 亜人奴隷一行はアフリカのぎらぎらした太陽を受けて眩しく反射する白壁をくぐり、かつてスペインとともに世界を二分した大帝国の砦に辿り着いた。


Dehors, esclaves !出てこい、奴隷ども!


 商人によって荷台の檻が開け放たれていき、汚物と糞尿にまみれた獣人たちが続々と降りていく。少女も立ち上がって後に続いた。足かせと鎖をじゃらじゃらと触れ合わせながらゆっくり降りると待ち望んだ瞬間がやってきた。

 井戸のポンプに接続したホースから勢いよく押し出される水。洗浄のために作業的にかけられるそれを、汚物混じりにも関わらず、奴隷たちは必死にすくって口に入れた。何時間ぶりかの命の水だった。


Ce type n'estこいつはpas bon.ダメだ


 商人は首を振ると、広場で見張りに立っていたダホメ王国の女兵士アマゾンを呼んだ。

 マスケット銃を肩に担いだ黒人女は手際よく枷を外し、輸送中に使いものにならなくなった老人を広場の中央に引きずっていった。

 少女たち一団が小屋に連れていかれる間も、パンパンという短い銃声が散発的に続いた。

 奴隷たちの話では、輸送中の『損失』もここでは無駄にならないという話だった。残虐性で知られるダホメ王国の戦士はその力を宿すために獣人を食らうことがあり、その王様にしても奴隷を打ち首にして搾り取った『血の風呂』で入浴する習慣があるためだ。

 男女に分けられて、その日はじめじめとした砦の地下牢で過ごした。淀んだ悪臭と唸り声、ケモノの体臭に満ちた世界において休息とは名ばかりだった。枷を付けられたまま狭い牢獄に押し込められるため、寝返りを打つことすらできない。


「…………」


 少女は身じろぎ一つせず、小窓の鉄格子から差し込まれる月明りを見ていた。

 月光が石床に反射し、そこに白い幻影を映しだした。

 目を閉じたが、無駄だった。まぶたの裏に映るのは、ダホメ族の戦士に襲撃されて燃え上がる村の姿。農具を持って抵抗した者たちは容赦なく殺され、残りの住民は鎖に繋がれた。

 少女の父親は開拓民として入植してきた白人だったが、白人は売り物にならないということで首を刎ねられた。

 その白人がどんな国籍を持っていたかなど、この部族にとってはどうでもいいことだった。実際、ナポレオン四世との間には、友好条約が結ばれているにも関わらず、その後もダホメ族による交易所の襲撃は続いていた。

 村から沿岸部に運ばれる間、母はぎゅっと少女を抱き締めていた。

 もう決して離れまいと、少女も必死に抱き着いていたが、途中の町で引き離され、別の商人に売られていった。母親は必死に抵抗したが、黒人たちに殴られてぐったりと動かなくなった。

 この数日間の内に少女の幼い身に起こったことは残酷だったが、この西アフリカではよくある不幸の一つに過ぎなかった。

 少なくとも、よくある不幸で片付けられる世界に少女は生きていた。


「……っ」


 優しかった両親はもういないのだ。じわりと涙が滲み、亜人奴隷の少女は嗚咽を漏らし始めた。声を殺して肩を震わせる。

 じゃらと鎖が鳴り、誰かが近づいてきた。


「ねぇ、――ちゃん……」


 背中をつつかれ、少女は顔を向けた。

 それは灰色の艶やかな毛並みを持った長い耳を持つ、ウサギ獣人の女の子だった。少女より三歳年上のお姉さんで、村ではよく面倒を見てくれていた。


「フランソワーズ……」

「泣かないで。きっと大丈夫よ」


 お姉さん――ファンティーヌ・バーニーは胸に抱き着いてきた少女を落ち着かせようと、その頭を撫でながら耳元で優しく囁いた。


「私と違って、あなたは珍しい・・・もの。きっと貴族に高値で売れて、ヨーロッパにいけるわよ」

「いや! みんなと離れたくない! 私も、一緒にいく……」

「…………」


 残念ながら、それを決めるのは買い手である奴隷商人だ。ここにいる全員が商品で、第一、ここは暗黒大陸ブラック・アフリカなのだ。ありとあらゆる条約、また欧州が発達させてきた『人権』と呼ばれる基本的な原則は一切通用しない。

 フランソワーズは何も言わず、すすり泣く少女を妹のように一晩中抱き締めてくれた。

 翌朝、「味わって食べろ。お前たちがこれを食べるのは最後になるからな!」と商人が食事を運んできた。豚肉を煮込んだスープとフフ(芋を磨り潰して練り上げる餅のような食べ物。西アフリカの伝統的な主食)だった。

 亜人奴隷たちは貪るように食べた。故郷の味だろうがなんだろうが、とにかく腹に入れるのが先だった。

 短い食事の時間が終わると、獣人たちは二列に並ばされ、一歩ずつ足かせを引きずりながら奴隷市場スレイブ・マーケットに連れていかれた。

 月一の競売オークションは盛況だった。

 港には『競売――獣人ビィーガー黒んぼニガー、馬、その他』と書かれたお決まりの広告が打ちだされ、海岸沿いの町から様々な群衆が押しかけている。

 見物人は現地の富裕層や奴隷商人、仲介業者、密輸人トランスポーターだけでなく、むしろ高級品である奴隷には一生縁がない町の住人や、欧州から『百年前の古きよき時代』を体験しにきた観光客がほとんどだった。

 亜人奴隷を並べたステージは港の至るところにあり、中には禁止されているはずの黒人奴隷も一家揃って出品されていたが、この場には誰もそれを咎める者はいなかったし、仮に咎めたとしても袋叩きにされて追い出されるのがオチだった。

 群衆の興奮した声と競売人オークショニアが負けじと張り上げる甲高い声で会場はくらくらするほどの熱気に包まれていた。

 歩かされる間、少女はずっとフランソワーズの手を握っていたが、少女に目をつけた一人の紳士が列を呼び止め、その前に連れ出された。


「ほう、半獣人ハーフか。珍しい」

「……ひっ」


 怯えて縮こまる少女にお構いなしに貴族は亜人奴隷の服を剥ぎ取った。少女は羞恥を覚えて縮こまるが、抵抗する術はなかった。


「美しい瞳だ。それに毛皮と皮膚のバランスも悪くない」

「……や、やっ!」


 召使に腕を抑えられ、往来に裸で立たされると、色の異なる瞳孔や歯並び、毛並み、性器やその他の病気の有無をとくに念入りに確認された。成熟とは程遠い胸のふくらみに触れられ、いたずらに乳首を摘ままれた時、少女は激痛に取れてしまうかと思った。


「買おう。幾らだ?」

「旦那、困りますぜ。競売はまだ……」


 最初は渋っていた商人だったが、七千ポンドという目が飛び出るような額で即決された。


「焼き印は……」

「必要ない。これはもう私の商品ものだ」


 ぞっとするような声だった。少女が奴隷の列に目をやると、お姉さんは「ほらね、言った通りでしょ?」とウインクして見せた。


「フランソワーズ……」

「地獄にいくのは、私たちだけでいいわ」


 すれ違う時、姉は小声でそう言った。奴隷の列はゆっくりと去り、後には異なる色の美しい両目を持ったケモノの娘が残された。

 他の村人たちは南部の貿易商人に買われた。不潔な船倉へ詰め込まれ、彼らが地獄と呼ぶ、アメリカ南部ディキシーランドの呪われた土地へ売られていった。


 彼女はもう死んでしまったのだろうか。


 綿花畑に繋がれているのは、農園主に鞭打たれて骨だけになった亡者たちだ。その悲しげな叫びの中には、当然彼女の声も混じっているはずだ。




――地獄だ! 地獄だ!





「…………。ん、んっ……」


 そこで少女は目を覚ました。真夜中。心臓が荒く鼓動を刻んでいる。生々しい悪夢はすでに去ったが、忌々しい過去からくる身体の震えは簡単には止まってくれなかった。

 古い記憶だった。今まで忘れていたわけではなく、忘れようと努力していた記憶だった。

 隣のベッドでは仲間の一人と一羽がぐうぐうと寝息を立てている。少女――リジルは呼吸を落ち着けて自分の寝床から抜け出した。


「…………」


 安心を求めて。少女は一瞬の逡巡の後、男の掛け布団の下に潜り込んで身体を丸めた。



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