Phase.34 ケモノと武器商人




     34




「う、ううっ……はっ!」


 カネトリが薄く目を開けた時、そこはベッドが並ぶ細長い部屋だった。

 灯油ランプの薄明かりの下、ここが清潔なシーツの上で腹部に止血のためのガーゼと包帯が巻かれていることに気づいた。よく見てみると枕もとに白カラスが丸くなっていて、右肩には蹲るようにして少女が寝息を立てている。


「こ、ここは、一体……」


 正面の壁に赤十字社のポスターが貼られているのを見ると、どうやら病院のようだ。

 他の患者はおらず、しんと静まり返った病室に一人と一羽の寝息だけが聞こえる。


「リ、リジルか……」

「んっ、カネトリ……。起きたの?」


 その頭を撫でようと左手を持っていた時、少女が反応して目を覚ました。


「ああ。すまん。起こしたか」

「ううん。大丈夫。何か欲しいものはない?」

「水が飲みたい」

「わかった。ちょっと待って」


 リジルは言ってサイドからヤカンを取り出した。カネトリの口に当て、ゆっくり飲ませる。


「ぷはぁ……。ありがとう、リジル。今は……」

「多分、夜明け前だと思う」

「そうか……。あれからずっと気絶してたのか」


 カネトリは起き上がろうとして、脇腹に走った痛みに「うっ!」と声を漏らした。

 慌ててリジルが駆け寄り、その身体を支える。


「カネトリ、まだ動かないで」

「ああ。そうだな……」


 カネトリは頷き、少女の手のひらをギュッと握り締めた。

 人ならざる獣毛に覆われた、しかし機能的には人間と何ら変わらない少女の手。

 一見すると華奢だが、それでいてどこか力強い感じもする。本来なら鉛筆を握らせてあげたいが、残念ながらその手に収まるのは鋼鉄の武器だ。今回はそれで助けられた。


「リジル……」


 三角に折れた耳が反射的にピクリと揺れる。カネトリは少女の手に頬ずりし、その腰に手を回して枕もとに引き寄せた。


「あのシグルドってやつは……親代わりだったんだな」

「うん。小さい時は家族がいたんだけど……ある日、悪い人たちが村に来て、それで抵抗したお父さんたちは殺されちゃった」

「……獣狩りか」


 カネトリは思わず手に力が入っていることに気づいた。

 それは武器商人が引き起こした悲劇だ。アフリカ大陸は昔から巨大な廃銃市場。欧州では古くなって使われなくなった旧式銃や生産過剰で余った在庫が大量に輸入されている。仕入れも安く済む上に運べば確実に利益が見込める商品。

 当のカネトリとしても、その輸入に関わったのは一度や二度のことではない。


「逃げられないようにって重い鎖を付けられて、馬車で市場みたいな場所に連れて行かれた。それで、私を落札した貴族の家で飼われることになったの」

「…………」


 獣狩りに使われている武器は、そのほとんどが同じような経緯で運ばれたマスケットだ。

 決して言い逃れなどできない。少女の村を襲撃した連中に銃を売ったのは、カネトリなのかもしれなかった。


「私ね、奴隷だったの。貴族の人たちの前で裸にされて鞭に打たれたり、身体の毛をむしられたり、酷いことをいっぱいされた。それで、しばらく屋敷で暮らしてたんだけど、そんな私をシグが救ってくれたの。仕事のついでだって言って、一緒に暮らすことになった」


 リジルは「でも」と付け足して、そっと顔を伏せた。


「ある日、シグは帰ってこなくなった。捨てられたんじゃなくて、死んだと思ってたけど……」

「……もういい。もういいんだ、リジル」


 気がつくとカネトリは少女の身体を抱き締めていた。涙に濡れる顔を少女の胸に埋めるようにして、その身を固く抱いた。

 この世は残酷だ。このケモノと武器商人に限った話ではない。

 因果はまるで解析機関の歯車のように複雑に絡み合い、誰かの利益の裏で誰かの不幸が生産されるようになっている。


 金によりすべてが売買され、家族の絆よりも工場で働く方が善行とされる、そんな世界。


 ……しかし、それでも、この時だけは幸せと言えた。

 娼婦とは違う家族のそれに近い温もり。手を伸ばせばすぐ隣にクローもいる。普段は損得勘定でしか価値を判断しない武器商人も、この穏やかな安心感だけは手放したくないと思えた。損をしてでも構わないとさえ。


「カネトリは『報われるべき』って言った。こんな人殺しでも……報われていいの?」


 その言葉に、カネトリはぎゅっと唇を噛み締めた。


「リジル……贖罪をさせてくれ。お前の人生を狂わせたのは……もしかしたら、俺かもしれないんだ。俺の売った武器で、獣人狩りが行われたかもしれない……。何千何万って数の屍の上に今の俺がいる。それは知っていた。頭の中では……」

「…………」

「だけど……今、いざとなってみると……俺は、お前の前に立つ資格がないんじゃな――」


 続きは言えなかった。少女の毛深い一本指が、カネトリの口に当てられたからだ。



「それでも、私たちのは、恥じることなかれ、なんでしょ?」



「……っ」


 その言葉に、カネトリは救われた思いだった。思わずはっと目を見開き、確かめるように、噛み締めるように、何度も何度も大きく頷く。


「……ああ、ああ! そうだ! 恥じることなかれ、だ。俺としたことが……一番大事なことを忘れていた。確かに罪悪感はあるが、それでも俺は諦めない。絶対に幸せになってやるって、そう強く願っている! 俺は悪人だけどな、リジル。お前は悪人じゃない。確かに人殺しは重罪だけど、それは植民地の兵隊にしたって同じだ。深く考えなくていい。……きっと、俺たちだけは、深く考えたらダメなんだと思う。兵士の殺人は国が賞賛してくれるが、お前には誰も褒めてくれる人がいなかった、ただそれだけの話だ」

「それって、何か悪者の言葉みたい……」


 指摘されて気がついたが、自分でもかなりの物言いだ。カネトリは思わず噴き出して、涙を拭って少女の顔を真っ直ぐに見据える。


「キリスト教だと殺人は地獄行きらしい。だから、お前が地獄に落ちる時は俺も一緒だ。お前一人だけの罪にはさせない」

「ありがとう、カネトリ……」


 静寂が下りた。二人は身を寄せ合ったまま口を閉ざしていたが、しばらくしてリジルは顔を赤くして身体を離した。


「カネトリは……その、私に、触れたいと、思う?」

「ああ。もちろんだ、愛しい毛皮ちゃんマイ・ファーリー・レディ


 微笑んで頷くカネトリに、リジルは一拍置くように黙った。それから意を決したように立ち上がる。


「乱暴しないなら、いいよ」

「リジル……?」

「カネトリだったら怖くない……と、思う」


 従順に従って夜間着のシャツを外し始める少女に、カネトリは呆気に取られた。

 次第に下着に包まれた少女の肢体が露わになる。コルセットが開かれ、膨らみかけの胸が顔を出した。

 下履きドロワーズが脱げて、尻尾が解放された。

 生まれたままのケモノの姿。両腕両脚にかけて尻尾と同じ灰色の体毛が生じているが、躰の中心は人肌が占めている。

 人間と獣人における身体特徴の配合は歪そのものであり、ともすれば醜悪な類に分類されることもしばしばだが、少女の肉体には不思議な均衡が保たれていた。

 カネトリの視線が釘づけになる。薄明かりの病室で少女が素肌を晒すのは背徳的であるが、その肉体はどこか幻想的な様相を伴って視界に飛び込んできた。


「さ、触っていいなら、尻尾……」


 そう言いかけて、カネトリはぐっと堪えた。

 獣人の娘は早熟だ。彼女が望めばきっと子どもだって成せるのだろう。リジルには半分人間の血が流れているのだから。

 しかし、それでは今まで彼女を傷つけてきたような連中と同じなのではないか。


「待て。それはまだ早い」


 逡巡の末、カネトリの理性は視線を逸らして少女を制した。


「もしかして、嫌?」

「嫌じゃない。……でもまあ、俺はベッドの上では猛獣になるからな。この状況でそれをやれば傷が開く。いや、傷が治ればいいんだけどな、うん……」

「カネトリは、やっぱり優しいね」


 傷を理由にしながらも、あくまでも紳士的に振舞おうとするカネトリにケモノは微笑んだ。

 後ろ手で近づき、その頬に口づけする。


「! リ、リジル……」

「私もカネトリが好き」


 リジルは照れたように笑って灯油ランプを消した。すぐ横の窓枠に近づいてカーテンと窓を開く。


「カネトリ、見て。夜が明けるよ!」


 その時、早朝の少し肌寒い空気とともに暁の薄明が差し込んできた。

 長い夜がようやく明けたのだ。東の空から射したスポットライトが少女の裸体を照らし出し、一瞬、そこに絵画のような神々しい天使の姿を映し出した。それは血と硝煙で汚れたこの世界で唯一、心から美しいと思える――



「……クシュッ!」



 その時、リジルが小さなくしゃみをした。

 やはり毛皮があっても人間に違いない。カネトリは「服を着ろ」と言って、やれやれと肩を竦めた。



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