Phase.33 一〇一号室にて





     33




「――ナイトをHの3へ。王手チェック

「むっ」


 繰り出された一手に、〈マスター〉は眉間にしわを寄せた。真鍮のチェス盤から立ち上がり、腕を組んだまま張り出した露天窓パノラマの向こうを眺める。


 中央統計局、一〇一号室。


 ウェストミンスターの鋼鉄のピラミットの地下に鎮座するのは、現存する解析機関の中でもっとも優れた演算能力を持つ〈ビッグ・ブラザー〉だ。

 ガラス張りの窓の外に見えるのは、金色に屹立するバベルの塔。蒸気圧を調整するパイプと電信ケーブルが至るところに張り巡らされており、その隙間を縫うようにして、自動化された機械式オペレーターが円周状に配置されている。

 連日の不具合の影響からか、今日は機関整備士メカニックがやたらと多かった。機械油オイルにまみれ、蒸気機関の熱で汗ばみながら、〈ビッグ・ブラザー〉の側面でほとんど宙づりになるようにして歯車の調整に当たっている。

 外壁の通信所で電鍵を打っている女性オペレーターも、機械シェパードを連れて通路を巡回している統計局の職員も、この位置から見るとみな等しく小さな蟻のようだ。


「……チッ」


 まったくもって忌々しい機械だと〈マスター〉は露骨に舌打ちした。

 一〇一号室は強化ガラスで二重に防音されているが、窓に近づくと機関の反復運動と打鍵の振動が伝わってくる。この騒音の中で耳栓もつけずに作業すれば、あっという間に気が狂ってしまうだろう。


「どうしたね?」

「いや、久しぶりにきたが、コイツも随分大きくなったと思っての」

「今や〈ビッグ・ブラザー〉の歯車は大英帝国の人口を軽く凌ぐ。演算領域が歯車の数による以上、能力を向上させるには必然的に拡張せざるを得ないのだ」

「ふん、この調子ではロンドンのすべてが解析機関になってしまうぞ」


 〈マスター〉は皮肉交じりに言って、腕を組んでまじまじと盤上の駒を眺める。


「クイーンをHの3へ」

「ああ。これで詰みチェック・メイトだ」


 対戦相手の男は勝利を宣言し、ビショップで白のキングを倒した。


「ふん、あのうるさい機械のせいじゃ」

「そうむくれるな。チェスというのは計算でできている。そして計算は私の専門分野だ」


 リスのように頬を膨らませる幼女をなだめるように言い、車椅子に乗る背の高い痩せた男はグラスのウイスキーを一口仰いだ。

 その時、チェス盤の側に置いてあった電話機がジリジリと音を立てた。男は受話器を取り、一言二言話した後に通話を切る。


「何じゃ?」

「いや、別に大した話じゃない」


「そうか」と〈マスター〉は頷き、



「――それで、造船所から盗んだカードはどうなった?」



 その予期せぬ問いに、男の表情筋がピクっと痙攣した。


「……一体、何の話だ?」

「やはり、黒幕はお前じゃったか」


 その一瞬を〈マスター〉は見逃さない。やれやれと首を振り、腰のホルスターからモーゼル自動式拳銃を抜いた。カチリと安全装置セーフティーを外して構える。


「落ちたものじゃのう、Mよ。かつては犯罪界のナポレオンとまで呼ばれた男が、この程度のカマかけに反応するとは」

「ここへ来たのは、初めからそのつもりだったのか」


 男――Mは観念したようにため息を吐き、そろそろと両手を上げた。その栄養失調のような青白い顔には、これまでと打って変わって邪悪な笑みが浮かんでいる。


「たった今、〈USS モビーディック〉はコーク港に到着したそうだ。作戦に従事したピンカートン探偵社の実行部隊は十人ほどが拘束され、カードの奪取はギルド側の妨害によって頓挫……と、このカネトリとかいう男はお前の差し金か?」

「まあの。妾はいい部下を持った」

「切れる男だ。どういう手を使ったかはわからんが、自力でIRBを味方につけ、私の計画を盤ごとひっくり返した」


 Mは向けられた銃口には目もくれず、執務机の横の黒板に書かれた数式を眺める。


「忌々しい、とは思うよ。以前に比べて私の組織力が低下したのは確かだ。件の諮問探偵ならまだしも、ただ一つの不確定要素にこうも作用されるとは……」

「何をたくらんでおるんじゃ? まさか、ナポレオンごとくロンドン・シンジケートの玉座に返り咲くとでも言うつもりか?」

「……ナポレオンは百日天下だった。私は違う」


 Mは首を振って言葉を切り、「――それはそうと」とウイスキーをもう一口仰ぐ。


「〈ビッグ・ブラザー〉が不調続きの理由を知っているかね? 我ら大英帝国ブリテンが誇る世界一の頭脳が、一体何を考えているのか」

「さあの。ついに人間みたいにものを考えるようになったか」


 冗談めかして言う〈マスター〉に、Mは至って真面目に答える。


それはまだ早い・・・・・・・。……だが、そうだな。解析機関は終わらぬ夢を見る。古代中国には『胡蝶の夢バタフライズ・ドリーム』という話があるそうだな。もしかしたら、我々は紙面上に仮定された物語の登場人物キャラクターであるのかもしれない」

「…………」


 銃はやはり効果がないと見て、〈マスター〉はモーゼルを下ろした。


「いつからそんな夢想家ファンタジストになったんじゃ?」

「仮定の話だ。……だが、そうだな。お前とは長い仲だ。話してやってもいい」


 男は車椅子を駆り、防音ガラスの向こう側を愛おしそうに撫でる。


「不調はある演算によるものだ。現状、『モーダス』の解析は〈ビッグ・ブラザー〉の能力を持ってしても手に余る」

「〈モーダス〉?」

「……かつてチャールズ・バベッジと『機関エンジンの女王』エイダ・バイロンが共同で研究していた伝説のプログラムだ。数学的な神秘の技で胴元を負かすことができる錬金術システムと言われていたが、そのじつ、いざプログラムを走らせるとなると、内部に入れ子状の無限ループを発生させ、機関を役立たずにしてしまう『破滅のプログラム』だったのだ……」


「だが」と付け足し、かつて天才と謳われた数学者は笑う。


「ある時、私は気づいた。〈モーダス・プログラム〉の自己言及性セルフ・リファレンス――これを制御することは、計算機数学における超越的メタ=システムのための基盤になりうることを。本来、それには膨大な計算資源リソースが必要だったが……」

「ええい、意味がわからん! もっとわかりやすく言え!」

「む、そうか? 簡単に一言で述べるなら……」


 うんざりした様子の〈マスター〉に、青白い顔をした機関技術者エンジニアは宣言する。




「――〈ビッグ・ブラザー〉はやがて神になる、ということだ」




 〈マスター〉はその迫力に面食らい、すぐには次の言葉を紡げなかったが、やがてふんと鼻で笑ってみせる。


「はっ……何を言うかと思えば、よくいる機関信奉者マキーナリストではないか。小説の読み過ぎじゃぞ。解析機関が人間に取って代わるとでも?」

「今はな。…………。……ただ、改めて考えると、やはり〈新グラン・ナポレオン〉に関する情報は不可解だ。王立アカデミーの話が本当なら、下手をすれば〈ビッグ・ブラザー〉以上の演算能力を持っていることになる。ふむ、アルフレッド・ドレフュスの一件でフランス軍には不満が高まっているからな、ここら辺でサボタージュでも起こしてみるか……」

「待て、M! 話はまだ終わっとらん!」


 ブツブツ言って新たなたくらみに耽る男を〈マスター〉は一喝した。


「あのカードは……」



「おーい、アリ――はっ! じゃなかった! 〈マスター〉!」



 その時、一〇一号室の扉が勢いよく開かれ、燕尾服を着けた一匹のウサギが飛び込んできた。


「もー、こんなところにいるなんて……まったく、探したよ~! 〈チェシャ猫〉に聞いても適当なことばっか言うんだもんね! 『お茶会』に遅れるよ、〈マスター〉」

「うぬぬ……このタイミングで……」

「ヴィクトリア女王の御前会議か? 大変そうだな」


 忙しないゲストの登場にふっと口もとを緩めるMに、白ウサギは大きく手を振る。


「あ~、久しぶりだね、モリア――はっ! しまった! ラビット・ミステイク! ええと、今は『M』だっけ? ただのM?」

「ああ。以前の私はライヘンバッハの滝で死んだ。だから……ただのMだ」

「へー、そうなんだ。なんか、複雑な過去を抱えてる男って感じで、かっくいい~!」

「……悪い気はしないな。そら、食べるといい」


 Mは酒のつまみに用意していた野菜スティックから人参を一本取り、熱心な伝令係に放る。


「わーい!」

「ええい、クソ! 懐柔されるでない!」


 ガリガリと嬉しそうに大好物の人参を齧るウサギに、〈マスター〉は地団駄を踏む。


「おい、M! 後処理をする身にもなれ! 今回の件は〈銃後のお茶会フロック・ティーパーティー〉も看過できん。ピンカートンの捕虜の受け渡しもしなきゃならんし、合衆国との外交問題に発展するぞ! ……このことはすべて報告させてもらうからな!」

「ご自由に。私がいなくても〈ビッグ・ブラザー〉が機能するならな」

「クッ……」

「ああ、いけない! 大変だ! 大変だ! 早くいかないと遅れちゃう!」


 伝令ウサギはポケットから英国王室の紋章をあしらった懐中時計を取り出し、そのピンクの目を瞬かせた。少女の華奢な手を引いて忙しなく跳ねる。


「ねぇ、早く行こうよ、〈マスター〉!」

「…………。……仕方がない。バッキンガム宮殿に急ぐぞ、ピーター」

「うん!」


 ウサギのピーターに手を引かれ、〈マスター〉は地下通路に向けて走り出した。



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