Phase.32 駒と黒幕





     32





「グリッドレイ艦長、無事アイリッシュ海に出ました。このまま島沿いに進路を取り、コークに寄港中の偽装商船〈レディ・ウィスカー号〉に向かいます」

「ご苦労」


 しわ一つない真っ白な海軍制服を身につけた初老の男は一言だけ告げて操舵室を出た。

 分厚い金庫のような水密扉を跨いで廊下に出ると、内殻の壁は海水と艦内の気温差で早くも汗をかき始めていた。潜航中はバッテリーを節約するため電灯も薄暗く、艦内はまるで洞窟の奥深くに潜っているような雰囲気だ。

 操舵手に艦長と呼ばれた男――チャールズ・ヴァ―ノン・グリッドレイ大佐は、カツカツと反響する靴音を聞きながら廊下を行き、機関室の手前にある通信室に入った。


「カードの分析は終わったか?」

「はい。ですが……」


 圧縮蒸気の余熱に眼鏡を曇らせたクラッカーの通信員は言いにくそうに目を伏せ、大至急で終わらせたカードの分析結果を報告する。


「そうか」


 艦長はそれを聞いて頷き、さっさと踵を返して排熱でむわっとする部屋を出た。


「解析が終わったのなら早くバベッジ機関を停止しろ。暑くてかなわん」

了解イエッサー!」


 クラッカーは嬉々として返事をし、解析機関の停止シークエンスに入る。

 グリッドレイは鉄梯子を上り、船員室と防水壁一枚で隔たれた客室に向かった。扉をノックすると「入っていいぞ」と返ってきたので、奥行き二メートルほどの小部屋に入る。


「初めまして。〈USS モビーディック〉艦長のチャールズ・グリッドレイです」

「シグル――いや、違うな。ピンカートンのエンジェル・アイズ軍曹だ。アイズでいい」


 シグルドはグリッドレイの手を握ると、床面積のほとんどを占める寝台に身体を投げた。


「ここがモビーディックの腹の中か。窮屈だな」

「長くいるといいものですよ。住めば都、というやつで……」

「聞いた話によると、同じ潜水艦でも、英国が海底から引き揚げた『ノーチラス号』は艦内の居住空間が充実していたらしいな。図書館や美術品のコレクション・ルームもあったとか」

「ああ、よくご存じですね。かつて大英帝国相手にただ一隻で宣戦布告した男の艦……あれは戦闘艦といっても武装は衝角だけでしたから……。七十年代の……牧歌的な時代の産物です」


 グリッドレイは「ですが」と付け足し、胸を張って言う。


「この〈モビーディック〉もノーチラス級の子孫には違いありません。アメリカ海軍が英国に先んじてネモの秘密基地から鹵獲した二番艦〈アルゴノート〉と設計図を元に、潜水艦技師のジョン・ホランドが再設計、そして電気系統はトーマス・エジソンが担当しました。全長は一三〇メートル以上で、武装も装甲も……間違いなく、現存する世界最強の艦です」

「英国海軍が保有するブルース・パーティントン級の二倍の大きさか。アメリカ人らしいな。よくこんなバカでかい潜水艦を造ったもんだ」

「それにしては居住空間が狭いのが難点ですが……」


 グリッドレイは苦笑し、懐から葉巻ケースと灰皿を取り出した。


「お吸いになられますか? キューバ産の高級葉巻パルタガスです」

「いいのか? 艦内は禁煙だと言われたぞ」

「ゲストは特別です」

「艦長特権か。それなら、ありがたくいただくとしよう」


 シグルドは葉巻の先を噛みちぎると、グリッドレイが差し出すマッチを受けて火を点した。

 ハバナ葉巻は艦内の湿度で少し湿気っていたが、それでも狭い部屋はすぐにナッツのような芳香を漂わせる甘ったるい煙に満たされる。


「このままアメリカに行くのか?」

「いいえ。一度、寄港させている偽装艦を通して電信ネットワークに接続し、ついでに補給も行います。ニューロンドンの潜水艦基地へはそれからです」

「誰に連絡するんだ?」

「……軍事機密です」


 グリッドレイはそれだけ言って、「まことに言いにくいのですが……」と続ける。


「カードは偽物でした。これは暗号カードなどではなく、ただの動画カードです」

「……何だと?」

「どこぞの凝り性アーティストが作ったキノ・ポルノですよ、これは。俗に言う『獣人ビースティポルノ』ですな」

「! はっ、そういうことか……。武器商人め……今度会ったらぶっ殺してやる」


 シグルドはニヤリと笑い、葉巻の残りかすを『モビーディック号に動ありMOBILIS IN MOBY‐DICK』の標語を配した銀の灰皿に落とした。


「一応、これはお返しします。アメリカにもソドミー法はあるので本来は所持だけでも違法なのですが……ここは見なかったことにしましょう」


 そんな男に艦長はカードの束を差し出し、


「いらん。それより、この一連の裏で手を引いているのは誰だ?」

「…………」


 その言葉にピタリと固まった。どうやら図星だったらしい。


「第一、IRBのようなほとんど農民同然の素人が警備の厳重な造船所からまんまと軍事機密を奪えたのは不自然だ。ピンカートンがダブリンでの拠点として都合よく地方カントリー・ハウスへ行っていたセント・ローレンス家の城を借りられたのも、偶然にしては出来過ぎている。……そして極めつけが、『トバイアス・グレグスン』とか言うあの男だ」


 シグルドは言葉を切り、一服して続ける。


「スコットランド・ヤードの情報を改ざんするなんて、いくら間抜けのヤードと言えど、そうそうできるものじゃない。大体、IRBにそれだけの力があるのなら、アイルランドはとっくに独立していると思うが、どうだ?」

「つまり、英国内に作戦のお膳立てをしてくれた黒幕フィクサーがいると、そういうことですか?」

「ああ。どう思う? あんたも思い当たる点があったんじゃないか?」

「…………」


 グリッドレイは腕を組み、適当な言葉を探すように慎重に口を開く。


「今回の作戦に関して言えば、ホワイトハウス以外の何者かの『意思』が働いている可能性は否定できません。……ですが、正直なところ、私の立場もあなたとそう変わりません」

「カードの中身は知らされていないと、そういうことか」

「ええ。そもそも私の任務はあなたがたを回収することですから。たとえ……」


 グリッドレイはそこで言葉を切り、姿勢を正して男を真っ直ぐに見据える。


「たとえ、我々がポーンの一つに過ぎないとしても、それでも私は星条旗オールド・グローリーに忠誠を誓いました。兵士は戦争という巨大な産業機構の歯車を演じなければなりません。常に国家のため、大儀のために行動する。……違いますか?」

「そうだな」


 シグルドは頷き、短くなった葉巻を揉み消した。


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