Phase.29 〈USS モビーディック〉





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「くっ……そんな……そんな馬鹿な話があるか! 人の血肉を啜る大英帝国のハイエナどもが、よくもぬけぬけと……」

「――動くなっ!!」


 カネトリはシグルドの急所にポイントしたままぴしゃりと言った。


「拘束しろ、オコンネル!」

「は、はい!」


 オコンネルはトランクから手錠を取り出し、後ろ手にピンカートンの部隊長を拘束する。


「後悔するぞ、武器商人!」

「いいや、しない。むしろ大手柄だと〈マスター〉も褒めてくれるだろう。大人しくしてろ、今この瞬間からお前は大英帝国の所有物だ。外交交渉の取引材料として有効活用してやる」

「それは……どうかなっ!?」


 瞬間、バーソロミューは空いた足で食卓を蹴り上げた。食器やワインが宙を舞う中、転がるようにして射界から逃れようとするが、それを許す狙撃手ではなかった。

 一発の銃弾が、その胸を貫いた。続く第二射がその心臓を刈り取る。


「かはっ……」


 動揺するカネトリに生まれる一瞬の間を、シグルドは見逃さない。ドスンと音がして傭兵の巨体が床に崩れ落ちるのと同時、シグルドは弾かれるように飛び出していた。


「なっ――くっ!」


 カネトリは慌ててトリガーを引くが、乾いた銃声とともに発射されたウェブリー弾は後方の窓ガラスを割るだけだった。


「――はっ! いい狙いだな!」

「くっ!」


 次弾を撃つよりも先に手を横に蹴られ、取りこぼしたリボルバーが宙を舞った。咄嗟に身を屈めて、シグルドの腹にタックルを食らわせる。


「うぉぉぉおおおおおお!」

「はっ、いいぞ!」


 両手を合わせた槌が背中に振り下ろされるが、カネトリは相手の腰ぐらを掴んだまま壁際の本棚へと突っ込んだ。棚が破壊されて雪崩のように落ちてきた本に埋もれ、さすがのシグルドも、これにはかはっと短い息が漏れた。

 カネトリは少し距離を取って拳を構えるが、シグルドは床に手をついて身を縮め、両脚での蹴りを叩き込んでいた。


「がはっ!」


 カネトリは咄嗟に両腕を上げてガードするが、後ろに突き飛ばされる。受け身に失敗して後頭部を床に打ちつけ、視界が一瞬だけ霞んだ。


「ふっ!」

「ぐっ!」


 そこに立ち直ったシグルドの拳が突き刺さるが、カネトリもすぐに体勢を起こして負けじと拳を打つ。血しぶきが舞う一進一退の攻防だが、相手はピンカートン探偵社にスカウトされた傭兵、戦闘のプロだ。経験値の差は大きく、次第に劣勢の色が濃くなった。

 やがて振り抜いた一撃をボクサー・ステップで躱され、致命打となるカウンターを顎に食らってしまった。


「がっ……」


 急激な脱力感が生じ、視界が歪んだ。ふらふらと足下がおぼつかなくなる。


「終わりだな。口ほどにもない」


 一方的にパンチング・バッグにされ、ダウンするまでに三十秒もかからなかった。

 渾身のボディブローが右のわき腹に決まり、カネトリは力なく崩れ落ちる。服も擦り切れてずたぼろになった身体はビクビクと痙攣しており、その口からは血が混じった涎が大量に吐き出されていた。


「おい、バーソロミュー、大丈夫か?」

「…………」


 シグルドは首筋に手をやるが、男はすでにこと切れていた。無言で十字を切り、床に転がっていたボトルのコルクを噛んで引き抜いて、殉死した上司に注いだ。自らも半分ほどを一気に呷り、まるで鮮血がしたたるように口もとから溢れたワインを袖で拭う。

 一連の『送り』の儀式を済ませた後、茫然と立ち尽くしているオコンネルに言う。


「おい、あんたはRICの警部なんだよな?」

「え、ええ。一応……」

「なら、こいつの葬式を頼む。神は信じてないらしいから宗派はどうでもいい」

「わ、わかりました……」

「…………。……リジル、いくぞ。脱出する」


 シグルドは自分の拳銃と床に散らばるカードを回収して、踵を返そうとして、


「はぁ、はぁ……。ま、まだだ……」


 掠れかけた声とともに、その足首を掴まれた。

 一時的とは言え、戦闘能力は奪った。まともに動ける状態ではないはずだ。今ならまだ再起可能だが、これ以上やれば内臓出血で確実に死ぬ。

 シグルドは手を振りほどき、襟を掴んで力づくでカネトリを組み起こす。


「勝負はついたはずだ、武器商人アームズ・ディーラー。お前、死にたいのか?」

「お前の……話は、聞いてるぞ。読み、書きすら教えなかった……く、くせして、保護者づらしやがって……っ! リ、リジルは渡さないぞ! お、前な、ん……かに、な!」


 立っているのがやっとな男は、それでも拳を握るのを止めなかった。まったくダメージにもならない拳で敵を打つ。傍から見て、それは哀れですらあった。


「……そうか」


 シグルドはもどかしそうに奥歯を噛み締め、両脇に吊ったホルスターからコルトM1895自動式拳銃を抜き、


「それなら、ここで終わらせてや……」



「――やめて! カネトリを傷つけないで!」



 少女の悲痛な叫びを聞いた。


「私ならついていくから、シグ! だから……だから、カネトリには……っ!」


 か細い声で言う少女の瞳には、大粒の涙が滲んでいる。


「…………。……俺は悪役か」


 シグルドは唇を噛み締め、小さく呟くと、やがて諦念のため息をもらした。


「リジル、お前にとってこいつは何者だ? 恋人か?」

「な、仲間……だけど、シグと同じぐらい、好き。だから……その、死んでほしくない!」

「ああ、そうか……。俺と同じぐらい好き、か。お前はそれでいいんだな?」

「この人を守る。これが、私の仕事、だから……」

仕事ビズ、か」


 シグルドはふっと微笑み、スライドを一往復。



「見ない間に大きくなったな、子犬パピィ



 銃声。銃口がひらめき、発射された弾丸は寸分狂わずカネトリの脇腹を貫いた。


「がはっ!」

「カネトリ!」


 カネトリが膝を突き、少女から悲鳴が上がった。


「そ、そんな……カネトリ……」

「手当しろ、リジル。今なら間に合う。……悪かったな、今まで」


 シグルドは銃を収め、トランクごとカードを回収した。崩れ落ちる少女の頭を撫で、シガレット・ケースからたばこを一本取る。


「第二次南北戦争は新世紀の始まりだ。これから先、アメリカは統一され、大英帝国は崩壊に至るだろう。英国の時代は終わり、新たに幕を開けるのは『アメリカの世紀』だ。……お前も身の振り方を考えるんだな、カネトリとやら」

「う、うぐぐっ!」


 戦闘後に一服する男を睨みつけ、カネトリは脇腹を抑えたまま立ち上がる。


「お、お前は包囲されている……。に……逃げられると、思うなっ!」

「さあ、それはどうかな?」


 シグルドは大きく煙を吐き出し、ダブリン湾に面した窓を開いた。

 数十メートル下では切り立つ岩肌の間に黒い海面が渦巻いており、ごうごうという音が夜風とともに吹き込んできた。この高さから飛び降りれば、たとえシグルドと言えど、岩礁に打ちつけられてまず助からない。


「脱出用の縄はあらかじめ結んでおいた。まあ、もしものためだ」

「ぐっ、だが、そこから飛び降りたところで……」

「……カネトリ、娘を頼んだぞ。不幸にしたら殺す」


 シグルドは窓枠に結びつけたロープの張りを確かめ、断崖絶壁にひらりと身を乗り出した。懐から一挺の信号拳銃ベリー・ピストルを抜いて、夜空に向かって放つ。


「な、何を……」

「アイリッシュ海にはマーメイドが出るらしいな。俺を助けてくれるかもな」


 打ち上げられた色鮮やかな信号弾は、数十秒間の瞬きをもって海面に飲み込まれる。

 直後、渦巻く海面に無数の泡が出現した。


 岩の間、ブイに偽装され、ただ一つだけ波に揺られていた光学潜望鏡ペリスコープ、その周囲から大量の気泡が噴出し、黒い海面がせり上がったのだ。海水が滝のように流れ落ち、楕円形のそれが水面に浮上する。

 その時、月が薄雲の合間から顔を出した。さざ波にたゆたう白い幻影。月光を受けて底光りする乳白色の巨躯は、かつて四十年代に捕鯨界を震撼させ、捕鯨船ピークオッド号の悲劇からただ一人生き残った鯨獲りのイシュメールが証言した伝説の白鯨そのものだった。

 同時に水中から強力なサーチライトが照射され、窓枠に掴まる男の姿を照らし出す。



「――モビーディック級一番艦、〈USS モビーディック〉。待機させておいて正解だった」



「ま、待てっ!!」


 カネトリが叫ぶのと同時、シグルドは飛び降りた。ロープを伝って減速し、白い甲板に着地して艦橋ブリッジに駆け込む。


「カネトリ! しっかり!」

「アメリカ海軍の新型潜水艦! く、くそ……っ!」


 カネトリはリジルに支えられながら何とか窓まで歩くが、顔を出した時にはすでに気密蓋ハッチが閉じられた後だった。シグルドと目的のカードを腹の中に収めたモビーディックは探照灯を消し、すぐに潜航を開始する。

 ほんの一分ほどの出来事。潜水艦に気づいた他の〈ワルキューレ〉たちが小屋に駆けつけた時には、もう何の痕跡も残っていなかった。



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