Phase.22 ピンカートン探偵社
22
「――はっ! こ、ここは……」
「起きたか?」
リジルが再び意識を取り戻したのは揺れる馬車の中だった。ちらりと窓の外に目をやると、月明りのない夜空の下、コールタールのような黒いダブリン湾が横たわっている。
ヘッドランプを点した馬車はやがてダブリンの郊外、ホウス半島に延びる街道に出た。
「私……一体……」
「リジル。どうやら、お前の行動は無駄ではなかったようだ」
席の向かいに腰かけるシグルドに手渡されたユニオン・ジャック柄の手旗を見て、リジルは不思議そうに首を傾げた。
「お前の相棒は脱出に成功した。機関銃を積んだ馬車をダブリンの町中に持ち出すとはな……まったくもってふざけた野郎だ」
「カネトリ……よかった……」
「…………」
少女の反応に男はテンガロンハットの下で沈黙を保つが、やがて時期を見て口を開いた。
「お前はピンカートン探偵社の傭兵を八人も無力化した。……〈
「で、でも……」
「お前に拒否権はない」
シグルドは問答無用でリジルを抱きすくめ、耳もとで小さく囁く。
「……今まで一人にして悪かった。
「もう、遅いよ……」
「遅くはない。時間ならたっぷりある。……お前の選択肢は二つだ。このまま人質でいるか、俺の部下になるかだ。ピンカートン探偵社はお前を歓迎する」
身勝手な二つの選択肢だが、それを告げる男の口調はいつの間にか昔に戻っていた。しかし納得がいかない少女は、せめて抵抗を示そうと身を捩る。
「たばこくさい……」
「落ち着くだろ?」
「……別に」
リジルもこの時ばかりは自らの獣人としての嗅覚のよさを憎んだ。懐かしい匂いと温もりに抗うことができない。スーツの裾をギュッと握り締め、自然とその身体が丸くなる。まるで本物の子犬のように。過ぎ去った思い出にすがるように。
「髪が伸びたな。切れよ、邪魔くさい」
「……うん」
「…………」
「…………」
馬車がアジトに着くまで、二人はずっとそうしていた。
一時間もすると馬車は街道から外れて薄暗い山道に入った。
ダブリン湾に面したホウス半島は中心にかけて小高い丘になっており、港と
普段はローレンス家の一族と少数の使用人がいるだけの静かなものだが、屋敷前の広場には煌々とかがり火が焚かれ、ライフル銃を構えた男たちが歩哨に立っていた。
「エンジェル・アイズ軍曹! あれだけの犠牲を出してカードの奪還に失敗したんだ。覚悟はできているんだろうな!」
到着して馬車を降りるなり、屋敷の入口から出てきた初老の男から怒号が飛んだ。
「……アイズ軍曹?」
「ピンカートンでの俺の名前だ。エンジェル・アイズ……一応、ここでは北軍の退役軍人ってことになってる」
「そいつには八人もやられたんだ! こっちに来い、このアマ! 豚の餌にしてやるぞ!」
「……っ」
その言葉にリジルはビクッと身を縮ませるが、それを庇うようにシグルドが一歩前に出る。
「こいつは人質だ。現場判断でそうした。……俺はあんたの部下だが、現場における指揮権はエンジェル・アイズに一任される。そうだろ、バーソロミュー?」
「
部隊を取り仕切るバーソロミュー・ボーグは悪態をつくと、高ぶる感情を落ち着けるように貧乏ゆすりをしながら深く息を吐いた。
「おい、ギルドはどう動く? IRBとの取引までにカードは揃うんだろうな?」
「それは相手の出方次第だ」
シグルドは言って、周囲の男たちに目をやった。
「それにしても……取引とは名ばかりだな。ピンカートンがすべてのカードを手に入れたら、こんな島に用はないんだろ?」
「実際に会って信用を得るまでが重要なのだ。彼らは我々からの武器供与、そして英国からの独立を希望している。アメリカ合衆国は民族主義を応援し、IRBの武装蜂起を支持すると、トマス・クラークに信頼してもらわねばならん」
「民族主義を応援か。……キューバの独立はスペインと組んで鎮圧してるくせにか。ホワイトハウスの『正義』は随分と都合がいいな」
ふと痛いところを突かれ、バーソロミューは思わずニヤリと笑った。
「……政治とはそんなものだ」
「嘘で塗り固めた白い家、か」
「言ってくれるな。ピンカートンはそれでも星条旗に仕えねばならん。……ここは狼の巣だ。せいぜい、人質を食いちぎられないよう見張っておくんだな!」
バーソロミューはリジルを睨みつけると、踵を返して屋敷の中へ消えた。
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