Phase.11 カネトリのモットー
11
胸もとから湧き出した赤い泉が床に広がっていった。
屋敷の使用人たちが寝静まった深夜、
部屋の中心にはでっぷりと肥えた屋敷の主人が倒れていた。ローブ一枚だけのほとんど裸に近い格好で、すぐ隣には犬の首輪と躾のための
「――それで」
男の腹からズブズブとナイフを引き抜いて、侵入者は鈍く光る切っ先をこちらに向ける。
「
「…………」
ベッドサイドにうずくまる裸のケモノは、色素の違う両の目を見開いて男の顔を見た。
たばこの火の上にある鋭い眼光は、故郷の農園に度々出没する狼を思い起こさせた。野獣はナイフの柄を差し出し、ケモノの少女はそれを震える手で握る。時間が飛ぶ。無数の命を奪い取る断片的な記憶。言われるままに引き金を引き、言われるままに刺し殺した。
狼は言う。
ケモノはその言葉を信じた。
しかし、それを教え込んだ恩人はある日を境にいなくなった。狩りに出たまま狩られたのかもしれない。生死不明のまま、所属していたシンジケートからは除名となり、ケモノは所属する群れを失った。
「あ……」
一人になり、気がつくと、暗い屋根裏に血と硝煙に汚れたもう一匹の獣が立っていた。
「――はっ!」
そして少女は目覚めた。
目を開いて身体を起こした時、ここがダブリン行きの郵便飛行船の一室であると思い出すのに少し時間がかかった。
「リジル、どうした?」
「う、ううん。何でもない」
まだ夜が明けきらぬ時間帯だ。クローはリジルの枕もとでグーグーといびきをかいている。
暖かいベッドから抜け出してカーテンを開くと、眼下に広がるアイリッシュ海は白いもやのような
「夢……」
ずっと昔の夢だ。これまで夢を見ることはあっても、夢と現実の境がわからなくなるまで、今回のように深く入り込むことはなかった。
どうして熟睡できたのか、リジルはベッドの側に腰かけて、灯油ランプの薄明かりを背に読書している男の顔をじっと見つめる。
「…………」
「どうした? なにか悪い夢でも見たのか?」
「うん。……昔の夢」
リジルは揺れる炎をじっと見つめたまま、部屋の隅のソファーの上に膝を抱いて丸くなる。
「私、今までいっぱい殺してきた……だから、時々だけど、夢に見るの」
「…………」
唐突に発せられた告白に、カネトリは小説を閉じて少女に向き直った。
「昔、酷いところに捕まってたんだけど、それを助けてくれた人がいたの。その人は、ロンドン・シンジケートの殺し屋で、私に『生き方』を教えてくれた……。殺すか、身体を売るか、二つに一つだって。……だけど、今になってみると、他の道も」
「――それは、気の迷いだ」
カネトリは殺し屋の言葉を遮り、その瞳をまじまじと見つめた。
「今になってみるとなんて、そんなありがちな後悔は時間の無駄だ。娼婦か殺し屋かなんて、その二択しか選ばせられなかった奴も
「でも……」
「今さら良心の呵責か? 選択には後悔が付きまとう。うじうじ悩んでたらいつまでも過去に囚われるぞ。……お前なんかよりずっと多くを殺してきた俺が言うんだ。間違いない」
「えっ?」
顔を上げてきょとんと首を傾げる少女に、カネトリは肩を竦めた。
「おいおい、俺の職業を忘れたのか? 拳銃、ライフル、機関銃、大砲、手榴弾、ロケット弾、戦闘ガーニー……間接的にだが、俺は何これまでに何百何千、もしかしたら何万人単位で人を傷つけてきた。正確な数は俺にもわからん。神様だって数えていやしないだろう」
「…………」
「商品が売れる度、どこかの誰かが傷つけられる……。自分の手の届く範囲で他人の命と向き合えているお前に比べて、俺のほうはなおさらタチが悪い。なんたって、
ため息交じりに言うカネトリに、リジルはポツリと「産業……」と呟いた。
「虐殺の手伝いをする悪魔の手先、大英帝国の犬、最低な死の商人……新聞は口を揃えてそう書き立てるが、そいつらだって結局、見て見ぬふりをしているに過ぎない。俺たちの文明は誰かの犠牲の上に成り立っているんだ。家族のために必死になって働く兵器工場の労働者や事務職員、貧困から逃れるために入隊した兵士……そんな奴らを責められるか? 中には悪い奴もいるが、基本どいつもこいつも生きるために必死だよ。そんな奴らの十字架を背負って現場に立つのが、俺の職業だ。まあ、お前と同じで時々嫌になるけどな」
「カネトリは……」
リジルはそう言ってはたと口をつぐんだ。少し考えるように黙って、問う。
今まで少女が一番気になっていたことだ。
「カネトリは教えるのがうまい……と、思う。先生にならなかったの?」
「教師か。考えたこともなかったな……。普通の職業に就く選択肢、という意味なら、それもあったんだろうけど……俺を養子に迎え入れてくれたアンダーシャフト家は代々ぺリベールのセント・アンドリューズで大砲工場を経営してる一族でな。俺は彼らに救われたから、まあ、その恩返しだ。経営者や法律屋になるよりは、こっちのほうが性に合ってた」
「私も同じ。恩返しのつもりで、人殺しの手伝いをした。カネトリは……後悔してる?」
「時々はな。だけど、アンダーシャフト家のモットーは『恥じることなかれ』だ!」
カネトリは強く言って、リジルの手を引いた。その腰に手を回し、ワルツを踊る時のように胸に抱き寄せた。抵抗する間もない、一瞬の出来事だった。
その瞳をじっと覗き込まれ、「あっ……」と吐息が漏れる。
「リジル、やっぱりお前はいい目をしている。……色々と思うところはあるだろうが、お前が俺のパートナーである内は、俺のモットーに従ってもらおう」
「恥じること、なかれ……?」
「そうだ。恥じることなかれ! 俺たちはおそらく天国の門はくぐれない……だから、せめてこの世で幸せになる権利があると俺は思う。身勝手だけどな」
「
まさかこのタイミングで質問されると思わなかったカネトリは、虚を突かれ、やがてぷっと噴き出した。「こういう意味だ」と付け足し、ステップを取る。少女もやや不器用ながらも、どうにか歩調を合わせて、見よう見まねのナチュラルターンを演じる。
「私情を捨て、市場に生きる。恥じることなく自分の職にまい進する。これがモットー、俺の武器商人としての生き様だ。俺たちは互いに屍の上でダンスを踊らされているが、それを恥じる必要はどこにもない。……俺はあまりうまくないけど、読み書きができるようになったら、一緒にカドリーユやワルツを練習しよう。いずれは舞踏会に出てもいいかもしれない」
「うん。……カネトリ、ありがとう」
「気にするな。俺たちは一蓮托生だ」
カネトリがそう言った時、ボーっという高度を下げる時の警笛が朝霧の中に響いた。
夜が明けたのだ。水平線の向こうのグレート・ブリテンを超えて
カネトリは飛行船の窓を開けた。朝と夜の境目から新鮮な海風が吹き込んでくる。
「見ろ、あれがアイルランドだ」
「すごい……」
首だけ出してみると、〈しろがね号〉の前方に黒い島の姿があった。晴天の下、水面が白く波打つ海岸線は二人の視界に収まりきらず、南北のずっと先にまで続いている。
かつて意気揚々と
「きれい……」
次第に大きくなっていく島影に、リジルは髪をなびかせて呟いた。
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