Phase.7 スペインの雨は主に平地に降る




     7




 リージェント・ストリートの高級服店でリジルに似合う衣装と小物を一揃い見繕ってから、一行は通りで待機していたキャブを拾い、ウィンポール・ストリートへ向かった。

 久しぶりに乗ったブルーム型ガーニーは、以前よりもずっと快適になっていた。室内空間が広く座席に向かい合って座れる上、搭載されている小型の駆動機関は馬の蹄より静かで振動が小さい。十年前までは蒸気機関の振動と排気ガスで息もできなかったというのに。


「むしろ馬車より快適かもしれないな。今度からこっちを利用しよう」


 カネトリは技術革新に満足げに頷きつつ、正面に腰かける半獣人ハーフの淑女を見た。

 ピンクのリボンとフリルがあしらわれたペティコートにアクアスキュータム社の防水肩掛け、黒いエナメル革のバルモラル・ブーツ、中国製の最高級シルクの手袋とハンカチ、ジェーンズ・スミス・アンド・サン傘店の日傘、諸々込みで五十ポンド。

 手痛い出費だが、仕方がない。


「似合う服が見つかってよかった。いい感じだぞ、リジル」

「でも、これ……」


 盛装したリジルは遠慮がちに縮こまり、孔雀の羽飾りのついた帽子をぎゅっと握った。


「萎縮しなくていい。むしろ大変なのはこれからだ。お前は今からそれなりの階級クラスの人間を演じるんだ。まあ、すぐに見破られると思うけどな。……相手が相手だし」

「どこにいくの?」

「クイーンズ・イングリッシュの訓練だ。今から会いに行くのは、俺の発音教師だった人だ」

「――げっ!」


 それを聞き、少女の隣の座席で毛づくろいをしていた白カラスが嫌な声を発した。


「……それってもしかして、あの人?」

「ああ。俺もどうかと思ったが、時間がないから仕方がないだろ」

「まあ、腕は確かだし……。でも、性格がなあ、獣人とか大丈夫なの?」

「いや、あの人は強固な独身主義者で女性に厳しいだけで……亜人差別主義者ではないはずだ。多分。いや、どうなんだろ……ちょっと心配になってきたな」


 カネトリもクローと同じく乗り気ではないらしく、腕を組んでうーんと唸り出した。


「そんなに厳しい人なの?」

「厳しいというか……自己中で、ずぼらな性格? その道では結構有名なんだけど」

「ああ。色々言われると思うが……一切気にしなくていいからな、リジル」

「?」


 そう話している間に、キャブはウィンポール・ストリート27番Aの正面に停まった。

 二人と一羽は駄賃を払って降り、街路に面した二階建ての建物の扉に立つ。ドアノブに手をかけようと近づいたところで、扉が開き、若い男が飛び出てきた。明らかに外国人と思われる毛むくじゃらの顔をした男は「おっと、失礼」と告げ、建物の中へ告げる。


「それでは、マエストロ。また」

「一体、その耳障りなハンガリー訛りはいつになったら消えるんだ? 時間を無駄にしたな。大体、ヒギンズ式普遍アルファベットをお前が覚え……」


 男が扉を閉め、内部からの荒々しい声はそこで途絶えた。男は次の来客に肩を竦めて見せ、「お気をつけて。今日はとくに機嫌が悪いようですから」と忠告して踵を返した。


「一応、来ることは前もって伝えたが……気が重いな」


 カネトリは深いため息を吐いて、何度か深呼吸してから呼び鈴を押した。しばらく待つと、扉が開かれ、家政婦ハウスキーパーらしい女性が出てきた。

 カネトリは山高帽ボーラハットを取って胸に持ち、慣例に従って訪問を告げる。


「失礼。予約していたワイゲルトという者です。ヘンリー・ヒギンズ教授は御在宅ですか?」

「ええ。この怒鳴り声が聞こえるでしょう。少しお待ちください」


 扉が閉められ、やり取りを後ろで聞いていたリジルはクローにそっと耳打ちした。


「ワイゲルト? ……カネトリの苗字?」

「うん。ドイツからきた頃のね。今は違うけど」

「そうだったんだ。……ねぇ、カネトリって名前は本名?」

「…………」


 リジルの問いに、カネトリは一瞬黙り、ふっと笑って告げた。


「どうだろうな。名前は色々あるが、武器商人の俺はただのカネトリだ」

「……?」

「お待たせしました。中へどうぞ」


 扉が開かれ、二人は家政婦の後について階段を上った。

 両開きのドアを開けて中に入ると、部屋には研究室らしく背の高いファイルキャビネットが並んでいた。隅には書き物机があり、蓄音機や音叉、記録用の蝋管、人間や亜人の発声器官の実物模型などが雑然と積まれている。


「誰だ? 私は今忙しい。できればお引き取り願いたいものだな!」


 奥の革張りの安楽椅子に腰かける男は、入ってきた紳士を訝しげに睨みつけた。


「お久しぶりです、ヒギンズ教授。以前、アンダーシャフト卿のご紹介でお世話になりましたワイゲルトです。覚えてらっしゃいますか?」

「知らんな。……いや、待てよ。その声に聞き覚えがあるぞ。アンダーシャフト卿というと、あのアンドリュー・アンダーシャフトのことか?」

「そうです。教授には大変お世話になりました。当時は移民してきたばかりでドイツ語訛りを矯正するのには苦労しましたが……お陰様で、この通りです」

「ドイツ語訛り……」


 そう呟くように言って、男――ヘンリー・ヒギンズ教授は、後ろの少女が抱える白カラスに視線を移した。クローと目が合い、パチンと指を鳴らして立ち上がる。


「ああ、その鳥で思い出した! ワイゲルト少年! アンダーシャフト家に拾われた、日系ドイツ人の珍しい出自だったな! ……うむ。今でも鼓膜にこびりついて離れない。お前のはとくにクソみたいな英語ブラッディ・イングリッシュだった」

「相変わらず手厳しい……ですが、すべては教授の教育の賜物です。感謝しております」


 カネトリは苦笑し、ペコリと頭を下げた。その謙虚な態度に気をよくしたのか、ヒギンズはふっと口もとを緩め、後ろ手に忙しなく部屋の中を歩く。


「日本か。行ったことはないが、キモノ! あれはいい。私も何枚か持っているが、まさにジャポニズムの神髄だ! ……うむ。今度、日本語を研究してもいいかもしれん。どうだ?」

「すみませんが、日本語は話せないんです。ドイツ語なら……」

「ドイツ語ならすでに三方言話せる。……まあ、いいだろう。早く要件を言いたまえ」

「ええ。じつは先生の素晴らしい指導を受けさせたい者がいまして……」


 カネトリは頷き、背後に隠れるようにしていた少女の肩を掴んで前に突き出した。


「この娘なんですが。……リジル、ヘンリー・ヒギンズ教授だ。挨拶を」

「は、初めましてアウデー・ユー……」

「――ドゥルーリィ・レーン!」


 ヒギンズは唐突に指を指し、目を丸くするリジルの前で胸を張って見せる。


「どうだ当たっているだろう。私の特技でな、その人の発音を聞けば六マイル圏内で出身地を特定できるのだ。ロンドン訛りなら二マイル以内では特定したいところだが、まだまだ修行が足りないようだ。リジルとか言ったか? お前はコヴェント・ガーデンの訛りで間違いないが……変だな、発音に違和感がある。出身はどこだ?」

わからないアイ・デン・ノー

「ふむ。じつに奇妙だ」

「それもそのはずです」


 カネトリは頷き、リジルの帽子を取った。頭の上に獣の耳が現れ、ヒギンズは両手を叩いて狂喜する。


こいつは驚いたブラッディ・シット! 半獣人ハーフか! これは珍しい検体サンプルだ! 亜人との子どもはできにくいはずだが……不道徳・・・の塊だな、この娘は! けしからん! だが、いいぞ! 半獣人ハーフの音声データはまだないからな!」

「教授が喜ぶだろうと思って……連れてきてよかったです」

「ああ、大喜びだよ、ワイゲルト君! ……だが、一つ気になる。発音から察するにこの娘は下層階級の出だろう? なぜクイーンズ・イングリッシュが必要なのかね?」

「その、じつはですね……」


 カネトリはヒギンズに状況をかいつまんで説明した。〈マスター〉については一切触れず、社交界で知り合ったとある貴族との賭けだということにしておいた。

 大筋を話し終えると、音声学者は子どものように目を輝かせてぐっと拳を握る。


「つまり、この獣人の娘を淑女レディに仕立てようというのか! 面白い!」

「ええ。私自身、そうでしたので。音声学の科学的な手法に乗っ取ったよい教師が教えれば、誰でも発音は正せると、そう信じています」

「うむ。その通りだよ、ワイゲルト君! 他の発音教師ならば匙を投げるところだろうが、このヘンリー・ヒギンズは違う! 文明の力が、この野蛮な人間もどきビースティ・マンを社交界で通用する令嬢に仕立てるところを見せてやろう! よし、早速始めるぞ!」


 ヒギンズは上機嫌で手を叩き、卓上のエジソン式蓄音機に戸棚から取り出した新品の蝋管をセットした。リジルを発声管の前に座らせ、スイッチを入れる。


「まずは音声データを取る。アルファベットを順に言ってみたまえ」

「わかった。……アーイ、ベー、セー、デー……」

「……っ!」


 その発音を聞く内にヒギンズの額に青筋が浮かび上がる。蝋管が無駄にならないよう記録が終わるまでは辛抱強く聞いていたが、やがてリジルが『ゼー』を言い終わったところで荒々しくスイッチを切り、両手で宙を掻きむしるように怒鳴った。


「ああ、やめろ! その腐ったキャベツみたいな声をやめろ! 耳障りだ! いいか、お前のようなクソったれの発音をする獣人に生きる権利はない! これに関しては亜人だろうが白人だろうが黒人だろうが同じことだ! 我々は魂と聖書、そして言語という高尚な能力を神から授かった! これ以上、そのどぶ板に汚水を注ぐような発音で、シェイクスピアやミルトンが生まれた国の言葉を侮辱するんじゃない! 次やったら叩き出すからな!」

「……っ」


 思わぬ罵倒の嵐に、リジルはすっかり萎縮した様子だった。これはいけないと見て、カネトリはヒギンズとの間に割って入り、なだめるように言う。


「教授、お手柔らかに。まだ最初ですから……」

「むっ、そうだな……。いいか、よく聞けよ! エイ、ビー、スィー、ディーだ!」


 ヒギンズは受講者の縮こまる獣耳をむんずと掴み、正しい発音を告げた後で、「言ってみろリピート!」と手を叩いた。リジルは必死になって聞いた発音を修正する。


「……え、エイ! ビー! シー! ディー!」

「ほう、すぐに発音を修正できたか。やはり獣人は耳がいいな! 見込みがないようならその毛皮を剥いでやろうかと思っていたが……」

「っ!」

「いいだろう。ご褒美だ」


 ヒギンズは歯を見せて笑うと、グランドピアノの上に置いていた菓子入れから、アソート・チョコレートの包みを一つ掴んでリジルに放った。


「えっ……?」


 受け取った菓子をどうしていいかわからない様子の少女に、教授は不愛想に告げる。


「食べろ。喉の滑りがよくなる」

「…………」


 リジルに戸惑いがちな視線を向けられ、カネトリはヒギンズに見えない位置でグッと親指を立てて頷いた。それを見て、リジルは頷いてチョコを口に運ぶ。


「甘い……っ!」

「ほう。チョコを食べるのは初めてか? まあ、無理もないな。その階級で食べられる菓子と言えば、何が入ってるかもわからない混ざり物がほとんどだろう。だが、今食べたのはウィリー・ウォンカ社の高級チョコレートだ。ちなみに、一つ一シリングもする」

「! 一オグ……!?」

「オグか。一般的なロンドン・スラングだな。……よろしい、ではこうしよう。今からお前が正しい発音を一つマスターする度にチョコレートを一つやろう。見事、クイーンズ・イングリッシュを覚えた暁には、お祝いにチョコレートの食べ放題に連れて行ってやる。どうだ?」

「わかった!」


 学べば学ぶだけ、このおいしい物を食べられる。断る理由もなく、リジルは力強く頷いた。


「よし。その調子だ。今度は難しいからよく聞けよ、『スペインのザ・レイン・イン・スペイン雨は主に・ステイズ・メインリー・平地に降るイン・ザ・プレイン』! リピート!」

「ザ・イン・イン・スイン……」

「ああ! もう、まったく違う! クソったれの獣めブラッディ・ビースト! お前の耳は飾りか!? それとも獣毛が詰まって聞こえんのか!? ザ・レイン・イン・スペインだ!」

「……っ! ザ・レイン・イン・スペイン!」


 耳がいいと褒めた直後に手のひらを返して罵倒しだす音声教授に再び萎縮しつつも、少女は一息ついて見事に指摘に応じて見せた。


「……情緒不安定」

「……っぷ」


 肩の上の白カラスから漏れた呟きに、カネトリは少し噴き出した。

 この光景は以前受けたレッスンとまったく変わっていない。訓練を受けている当人からすればたまったものではないが、傍から見ている分にはタチの悪い笑劇ファルスそのものだ。


「こればかりは慣れるしかない。頑張れよ、リジル……」


 カネトリは必死に訓練に励む少女にエールを送りつつ、邪魔にならないよう研究室を出た。





―――――――

星の数ほどもある物語の中から、本作をお読みいただきありがとうございます!

この先も『UNDERSHAFT』は続いていく予定ですが、やはり反応が皆無だと小説が面白いのかどうかも判断がつきませんし、モチベーションに繋がりません。

なので、もし小説を読んで面白いと感じた方がいれば、いいねやフォロー、コメント、評価などよろしくお願い致します!

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何卒、よろしくお願い申し上げます。(*- -)(*_ _)ペコリ

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