Phase.6 イタ・ダキマ・ス
6
最後に母の温もりを感じたのはいつだったか。
記憶にあるのは、いつも虚ろな目で暗い部屋の隅に腰かけ、余った布で誰も使う予定のないおむつを縫っている、そんな母の姿だ。
ウンテル・デン・リンデンの鐘の音が鳴り、痩せこけた母は椅子から立ち上がる。
幼い少年が差し出した手は空を切った。傍らを通り過ぎ、母の代わりに入ってきたのは家で飼っている一匹のシェパード犬だった。失われた温もりを求めて、少年はその首筋をギュッと抱き締める。
「お母さん……」
そう口に出したところで、カネトリの意識は覚醒した。
そっと目を開くと、朝の光が差し込むベッドの向こうに屈み込むようにして、赤と銀の瞳が興味深そうに顔を覗き込んでいた。
「お母さん……?」
「おわ!」
少女の口から洩れた言葉に、カネトリははっとして飛び起きた。
「どうしたの、カネトリ?」
「ああ、そうか。えーっと、リジルだったか。おはよう……」
「おはよう」
遅れて昨日の出来事を思い出し、気恥ずかしそうに頭を掻く。
「えーっと、もしかして俺の寝顔をずっと観察してたのか?」
「うん」
「そうか」
そう端的に答えられ、カネトリは何も言えなくなった。ひとまず起きることにして、共同の洗い場で顔を洗い、ひげを剃ってよそ行きのフロック・コートに着替える。朝の支度を済ませ、一階から二人分の朝食を取ってくる間にも、相棒は鼻提灯を作って爆睡していた。
「相変わらず寝起きの悪いやつだ。野生の本能はどこにいったんだ、まったく」
「どこかにいくの?」
「ああ。リジルも用意して……って、そうだった。それ以外の服はあるか?」
「ううん」
「オーケー。まずは服を買いに行こう。教授の家はそれからだ」
カネトリは白カラスを起こすのは後にして、ひとまず朝食をとることにした。
「いただきます!」
「イタ・ダキマ・ス……?」
唐突に手を合わせて奇妙な呪文を唱えるカネトリに、リジルは目をしばたたかせた。何かを言おうと迷った末に諦め、朝食のパンとベーコンを切り分け、スープを啜って口を閉ざす。
カネトリはそれを見逃さず、諭すような口調で言った。
「……リジル、それじゃダメだ。教養は自らに強要するもんだ。これから学ぶと決意したなら、好奇心を刃物のように研ぎ澄ませろ。わからないものをそのまま放置せず、常に『なぜ?』と問う姿勢が武器になる。これからはすぐに質問するんだ。俺は必ず答える」
「わかった」
「よし。約束だぞ」
リジルは深々と頷き、不思議そうに両手を合わせる。
「
「いただきます。前に日本人の船乗りに教えてもらった言葉だ。ま、
「少し。……日本って?」
カネトリは手帳に挟んであったタブロイド判の世界地図を机の上に広げた。以前、正確かつ緻密な行程スケジュールを組むことに定評のあるシティの旅行代理店、フィリアス・フォッグ商会を利用した時に貰ったものだ。
「ずっと遠く、アジアの片隅にある島国だ。世界地図を見たことはあるか?」
「ううん。初めて」
「ここが俺たちのいるロンドンだ。グレート・ブリテン島の東側にある。それで、この範囲がヨーロッパ、その下のデカいのがアフリカ大陸。今では列強に分割されてしまったが、獣人のルーツにあたる場所だ」
「私の
「そうだ。そして日本はそれよりずっと遠く、ユーラシア大陸の端っこにある。ああ、それとアジアってのは大体、この範囲のことを指す」
カネトリは鉛筆でユーラシア大陸のほとんどを円で囲い、リジルは目を丸くした。
「大きい……」
「ああ。大英帝国もデカいが、アジアはもっと大きい。中央統計局の発表だと今の世界人口が大体、二十億人ぐらいと言われているが、その半分以上がアジア人だと言われている。獣人のほとんどはアフリカ系だが、アジア系も多いんだ。インドとか
「へぇ……あ、でも、カネトリはイギリス人なのに、なんで日本の真似をするの?」
「…………」
その素直な問いに、カネトリは押し黙るが、やがてポツリと語り出すように言った。
「前に俺がドイツからの移民だって話はしたよな? じつはな、俺もお前と同じ
「そうだったんだ……」
「父さんは日本からの留学生で、母さんはベルリンの小劇団に勤める踊り子だったらしい。きっかけは知らないけど大体予想はつく。しばらくして母さんは俺を身ごもった。が、父さんはそんな母さんを捨てて帰国した」
「……ひどい」
「よくある話さ。それから、母さんは少しおかしくなってな……。俺がまだ小さい時に病気で亡くなっちまった。結局、俺は父親の顔も知らずじまいだ」
カネトリは苦笑し、幼き日を追憶するように遠い目をした。
「亜人ほどじゃないが、小さい時にはそれなりに差別されてきた。……だけど、そんなことは問題じゃない。たとえ、父親似の
「学ぶこと?」
「そうだ。だからお前も偏見なんかに負けずに賢くなれ。質問は、賢くなる第一歩だ」
「わかった」
「よし。じゃあ、さっさと食おう。今日は忙しいぞ」
カネトリは少し冷めた紅茶を啜り、パンを片手にロンドン・タイムズの朝刊を広げた。
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