第2章 依存という名の日常


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 少し時が流れ、私は八歳になった。

 私の毎日のルーティンは変わらない。朝は五時に起きて、朝食を食べる。歯磨き顔洗い(朝起きた後もやっているので、計二回)をして、ランドセルを背負って、学校へ向かう。その途中で、遠回りになってしまうが、いつもあの場所へと足を向かわせる。

「――ルイ」

「ワンッ」

 ルイを家の中に入れさせてあげられない私は、少しずつルイに日用品を与えてきた。食べ物はもちろん、毛布に遊び道具のボールに、ブラシまで。少しずつやりくりをして、何とか買ってきたものだ。

「おはよう。ルイ。今日も元気そうでよかった」

 元家育ちのルイには、外の寒さがきついと思っていたので体調の変化に気を付けなければ……と思っていたが、当の本人は風邪?なにそれ?とでもいう風に毎日元気に駆け回っている。

(でも、私としてもそれはありがたいんだよね。もし、ルイが風邪でも引いたとしても、私には何もできないから……)

 病院に連れて行ったとして、この捨て犬を見てください、とは言えない。そもそも、予防接種もできていないのだから当然だ。

「……毎日、元気でいてね」

「ワフッ」

「さては、分かっていないな」

 あれから、私達はさらに信頼関係が築けていた。

私も、ルイの言っている事が分かるようになってきたし、ルイもルイで何となく分かってきていると思う。私は、その感覚を心地よかった。

「それじゃぁ、遊ぼうか」

「ワンッ」

 少しボロボロになったボールを手に取り、朝の時間ギリギリまで遊ぶ。

(やっぱり、ルイといる時間が一番楽しいなぁ)

 どれだけ人といろうと、それは偽りの関係でしかなかった。正直に言うと、私は私の本音を言うのが怖いし、人そのものを信頼できないのが何よりの理由だろう。

(……ずるいよな)

 私は、私を愛してほしい。見捨てないでほしいと思いながら、私は人を見捨て、信じていないのだ。

(多分、それはあちらも気づいているんじゃないのかな)

 小学三年生となると、それなりの賢さが出てくる。それに、子供は鋭い。その過程は知らないけど、結果だけを見据える時があるのだから。

 だから子供はあなどらないほうがいいと、それを分かっている大人は言うのだ。

「さってと。ルイー!おいでー!」

 遠くから離れて遊んでいるルイを呼べば、ルイはボールをくわえながら走ってくる。その一つ一つの動作すら愛おしいと思うのだから、重度の犬バカだ。

「ルイ。私は、そろそろ学校に行かなくちゃいけないから大人しくしているんだよ」

「ワフッ」

 少し不機嫌な声を混ぜているのは無視するとしよう。

 一度ルイに頭を撫でてから、学校へと向かう。

 偽りの笑顔を張り付けて……。


・・・・・


 ルイといる朝とは違い、学校の朝はつまらない。

 そもそも、私は笑顔を張り付けて接するだけで、その他はそんなに器用じゃないのだ。一人でいるならそれに越した事はない。話しかけられたら笑顔で接して、それ以外は本を読んだり、ルイの事を考えているだけだ。

(つまらないな)

 この二年間で、私の価値観は大幅に変わった気がする。ルイといる世界だと、世界が光って見えるのに、ルイのいない世界は灰色に染まっている。

「……早く、学校終わらないかなあ」

 来たばっかだというのに、こんな事を呟いてしまう。一体、この学校にいる何人が同じ事を思っているだろうか。

 私はため息を零し、窓の外を眺める。そこには、雲一つない青空が広がっていた。その眩しすぎる空に、恨めしく目を細める私は腐っているのだろうか。

(いっそ、ルイと私以外皆いなくなっちゃえばいいのに)

 私は醜い。何でもないように見せかけて、裏では人なんか意味もなく嫌っている。知らない振りをしておいて、他人の事なんか見てなんかいない。

(人は誰しも醜い何かを持っていて、それを隠して生きてなくちゃいけない。)

 少なくとも、私はそう思っている。

 この世界に、本当の善人がいるのだとしたら私は何を思うのだろうか。

(信頼している『人』がこの世に一人もいないことに驚く?それとも、同情でもして、友達にでもなりたいとでも言うのだろうか)

 そう考えると、存在しないその人に敵意を向けてしまう。

――なら、あなたも私と同じ立場になってみても、そんな事を言えるのだろうか?と、多分、恨みながらでも言うのだろう。

 結局、人が嫌いだとかなんだと言いながら、一番嫌いなのは――

(……自分、なんだろうな)

 手元にある本に目を落とし、ルイに触るようにしてそっと撫でる。

この本は気まぐれで買ったものだが、案外、私とルイの関係をいびつに例えたものかもしれない。

 内容はこうだ。人が嫌いな少女は、ある男性に出会いそのまま一緒に住む事となった。それは、世間で言う所の誘拐だが、少女にとっては違った。少女が人を嫌ったのは、周りの大人達のせいで、ただ寄り添える相手がいなかったから。少女は、救ってくれた男性に好意を抱くようになり、必死に人にバレないように住んでいくお話だ。

 私はこれを見たとき、まるで私とルイみたいだと思った。それと同時に、私は恐怖を感じてしまった。私とルイは、『信頼』関係で一緒にいると思っていたが、もしかしたら、それは違うのかもしれない、という事に。私達の関係もっと歪で、他人とは分かり合えない関係――『依存』なんかじゃないのかって。

(けど、それは少なくともルイには当てはまらない。当てはまるのは……私だ)

 ルイは好意的に私を接する。人とは違い、動物は直球で感情をぶつけてくるので分かりやすい。損得で動かないのは、犬の、ひいては、動物の美点だ。

 だが、人はどうだろうか。動物とは違い、裏表で人と接して、何が得なのか、何が損なのを考えて動く。欲に忠実で、一度道を踏み外したらそれまで。

もし、動物が人と同じ言葉を話せていたとしたら、動物は人に呆れ、絶滅させていたかもしれない。それこそ、逆の立場になって。

 私は本を見つめる。その本の存在が、まるで『罰ゲーム』かのように、私達の関係を表現していた。

(あの時会ったのが、ルイじゃあなくて人間だったとしたら、私はそっちを選択していたのだろうか。ルイという犬に会う事もなく、そもそも存在すら知らなくて、全然今とは違う生活を――)

 それを想像しようとして気づいた。私はもう、ルイのいない世界を考えられない事に。

「……ハハッ」

 乾いた笑いしか出てこない。

 私は今、何か考えて、何を思った?

「……これが依存じゃあないのなら、他になんて言うんだろうね」

 私の独り言は、周りの喧騒で聞こえなかったのだろう。聞かれなくてよかった、と思う。こんな独り言を言うクラスメイトなんて、誰だって嫌だろう。

(人をどうでもいいと言いながら、虐められるのが嫌だなんて、ね)

 逆に、それがいいよ思っていた時期もある。好かれる人間じゃないからって。私は、嫌われる人間だからって。

(でもなー。私、面倒くさいのは嫌いだからなー)

 なら、嫌でも少しは人と関わって極力面倒くさいのを減らせばいい。

「――はい、朝の会を始めますよ」

 担任が入ってきて、愛想笑いを浮かべながらそう言う。

(この人の笑顔も、嘘なんだろうか)

 疑心暗鬼になって、人を信じられない人間には必ず何か思うのかもしれない。神様は残酷だと、私は何度も思うのだ。

 結局、嫌われ者は嫌われるしかないのだと。

 私は、それをもう少し先になってから知る事となる。


・・・・・


 学校が終わると、各自好きな事をして過ごす。ある人達はグループを作って遊んだり、またある人は一人で過ごしたりと、様々だ。

 私はいつも、誰かに声を掛けられる前に学校を出る。そうしないと、早くルイに会えないから。

(やっと学校が終わった。早く行かないと)

 今日持ち帰るのに必要な物だけをランドセルに入れて、帰ろうと足を向ける。はやる気持ちを表に出さないよう、我慢しながら行こうとすると、

「あ、幸ちゃん。ちょっといい?」

 一人のクラスメイトが話しかけてきた。

(げっ。運がないなあ)

 その子は当時、クラスメイトの中でも苦手なタイプの子だった。我がままで自己中。自分が一番正しいと思っている、社会を理解していない子供。

 私は、この子の傲慢さが嫌いだった。

(それに、なんで『ちゃん』付けなの?私、あなたと全然話したことないのに、もう友達面ですか?正直に言って、気持ち悪いんだけど)

 嫌いなものに嫌いなものを加えられたら、人はどういう事を思うのだろうか。ぜひとも教えてほしい。ちなみに、私の場合は、心の中で罵倒する、だ。表に出さないだけ、まだマシだと思う。

「うん?どうしたの、松井さん?」

「えっーとね。私、幸ちゃんとあまり話した事ないなあって思ってね。いつも幸ちゃんと友達になりたいと思っていたから、もしよかったら今日一緒に帰らない?」

「へ?」

(なんで、そんな面倒くさそうなものを持ち込んでくるのかなー‼)

 心の中で舌打ちをする。

 この返答は一歩間違えば、異常に面倒くさいものになる。まず、このクラスメイトの松井凛まついりんは自己中な性格である。しかも、そんなのがクラスのリーダー的存在を獲得しているのだ。そんな人の反感を買ってしまったら、どうなるのかは明白だ。

(朝に考えていた事が、現実になっちゃう)

 でも、ここで私が松井さんと一緒に帰ったとして何があるのか分からない。この人の機嫌を取るためにいちいち神経を使うのも嫌だ。

何より、こうやって悩んでいる時点で、ルイと会う時間が減っているのも事実。

(早く断らないと。でも、どうやって――)

 必死に頭を働かせながら、私は言葉を紡いでいく。

「ごめんね、松井さん。私、今日お母さんに頼まれ事されちゃって、早く帰らないといけないんだ」

「え、そうなの?」

「うん。本当にごめんね!あっ、明日の給食で何か好きな物とか出る?」

「え?そういえば、明日は私の大好物のプリンがでるけど……」

「じゃあ、今日の埋め合わせは明日のプリンをあげるよ」

「え?いいの!?」

「うん!お詫びの品ってことで。それじゃあ、バイバイ!」

「あ、うん。バイバイ。幸ちゃん」

(……不自然にならないよう、会話のスピードに気を付けて話をするのも疲れるなー)

 廊下を歩きながら、そんな事を考える。

 そもそもの話、いくら傲慢なクラスメイトだって、欲には忠実なのだ。しかも、育ち盛りの年頃で、まだ「太ってるから、ダイエットしなきゃー」とか、そんな事もあまり考えない年齢ならなおの事。

(さっ。上手く切り抜けられたし、早くルイの所に行かないと)

 今日はいつもより周りを気にしながら、と強く思いながら、私は歩くスピードをだんだん早めていったのだ。


・・・・・


 一度家に帰り、邪魔なものだけを中に放り投げてまた外に出かける。特に、今日はランドセルが目印になる可能性もあった。

ランドセルは、高校生の制服とよく似ている。いくら私服で登校していたとはいえ、ランドセルがあればそれを背負っている子供は小学生という肩書にて分類されるからだ。赤く見栄える大きいバッグは、秘密の場所に行くときには不便すぎる。

(はあ……。時間とりすぎた。早く行かないと)

 さすがに小さい子供が走るのには体力が追い付かない距離なので、早歩きで急いでいく。

(それにしても、この通りっていつ見ても人がいないなあ)

 本来、私みたいな子供がこんなに人がいない所を見ると不安とか恐怖に駆けられるだろうが、私は何も思わない。そもそも、私はその感情に慣れているから、もし私がその感情に捕らわれているとしたらそれはルイに何かあった時だけだろう。

 あの日から、私の感情は前に進んでいるようで止まっている。

 私はルイが大切で、ルイに対してしか感情が動かない。もし他人に何かあった時、私はそれに対して何も思う事はないだろう。

私にとって、人はそういうモノであり、ルイと比較しようとするのがおこがましいのだ。

(なのに、あの松井さん。馴れ馴れしく話しかけてきたと思ったら、ルイといる時間を無駄にさせて。しかも、何が一緒に帰ろうなの?あなたと関わろうだなんて、一ミリたりとも思っていないのに)

 もし気に入れられたら、毎日が面倒くさいことになる。逆に気に入られなければ、こっちもこっちで面倒くさいことになる。結論、どちらにしろ面倒くさいことには変わらない。

(それにしても、なんで私なの?他にも一人の子だっているじゃん。明るいことでも話せばいいのに、なんでよりにもよって私なのかな?)

 独りでいるのが哀れに思えたから?それだったらいい迷惑だ。私は、私の意志で独りでいる。

『人』そのものと関わりたくない私にとって、松井さんみたいな嫌いなタイプは化け物と同義だ。

(気持ち悪い)

 あんな人と関わるのを想像したら、気持ち悪すぎて吐き気がした。人のテリトリーを簡単に踏みにじる化け物は、いつか今の私の日常を壊しそうで嫌いだ。

(……早く、ルイに会いたい)

 この気持ちをなくして、ルイと会いたい。

(……こんな気持ちじゃあ、ルイにばれて心配されちゃうかな)

 ルイは人の――私の気持ちや感情に敏感だ。それこそ、他の犬よりもだろう。理由はすぐに思い当たった。『捨てられた』からだ。捨てられた犬は、人を怖がるのが常だが、それはルイも例外ではなかった。

 では、動物だけなのかと言われると、それは違うと思う。人は年をとるにつれ、お互いが何を思っているのか分かるらしい。

だけど、それは幼い時からすぐに身に着けられる方法がある。それは――『虐待』、または『捨てられる』か、あるいはその両方かだ。一度、その恐怖を味わってしまえば、その子供は人の顔色ばかりうかがって生活してしまう。

 現に私がそうだ。両親に捨てらる前の私は、愛されたくて必死になって母親の顔色ばかり見て接してきた。それも、いつしか無理だと分かった今でも人の顔色を窺ってばかりだ。

(面倒くさい事から逃げ出したいっていうのも本音だけど、本当に心からそう思っているって断言できないのも事実)

 自分の気持ちを完全に分かっているわけではないけど、私は多分、普通の人より自分の気持ちが分かっていない。もしかしたら、欲もそこまでないのかもしれない――ルイ以外には。

感情も欲も、全く知られず育てられた子供が、たった一つの大切なものを知ったらどうするだろう。

(私だったら……独占したくなる)

 あの本を読んで、私がルイに抱いてる気持ちにぴったりな気持ちがあった。

 ――『独占』。それは、自分一人だけのモノにしたいという欲求の事。

 私は、ルイが誰かに拾われたとしたらもう平静ではいられないだろう。それどころか、最悪の場合取り戻そうと躍起になるかもしれない。

(私はもう、ルイがいないと駄目なんだ)

 もし、ルイが突然この世界からいなくなったら、私も喜んで後を追うだろう。例え、ルイにその気がなかったとしても……。

 本来、普通の子供が……しかも、まだ十にも満たない子供がそんな負の感情を持つのは間違っていると他人は言うかもしれない。けど、その時の私は、そんな考えを否定するのが私の存在を否定されているかのように感じていたのだ。それは、今でも変わらない。だけど、変わらないのは考えだけで、実際に行動に移すことはできないのだから。

「ルイ?」

 声が震えてしまった。

 自分では気づかなかったが、私は少し怖かったらしい。今日考えていた事が、もしかしたら二年前のあの日より恐怖に感じていたのかもしれない。

(もしかして、ちょっとだけトラウマにでもなってるのかなあ)

 そう思うと、私もまだまだだと思う。強くなりたいと思いながら、未だに過去に引きずられているのだから。

「ワンッ」

 声がする。

 それだけで、今日も私は生きていく。

 ルイはいつもより来るのが遅かった事に怒っているのか、少し拗ねている様に見えた。

「……フフ」

「ワフッ!」

「ごめんね。ちょっと面白くて」

「……フン」

「あぁー。本当にごめんって。からかいすぎたね。ほら、ボールで遊ぼう。今日は遅れた分、

 ちょっとだけ長くいるから」

 怒っていたのに笑ったのが嫌だったのか、さらに拗ねたり。ちょっとだけ長くいると言っただけで、機嫌を直してくれたり。そんな一つ一つの行動も表情も、私は好きだった。

(これじゃあ、依存じゃなくて執着だ)

 でも、あながち間違ってはいない言葉だ。依存だろうが、執着だろうが、独占欲だろうが、私とルイはかけがえのない存在同士としてここにいる。それだけは絶対に変わらないと、信じている。

「ほら、とっておいで」

 二年前のあの日から、私は犬の事について調べた。犬に食べさせてもいい食べ物や、寒さに強い犬か、犬の行動まで、細かく調べて最適に考えながら私なりに育てている。それから、これは育てている時に分かったことだが、ルイの犬種はダックスフントというらしい。結構人気のある犬で、可愛がられる犬だとか。

(……それなら、最後まで育てればよかったのに)

 多分、私はもしも元ルイの飼い主に出会ってしまったら、私は最高の殺意も持ってその人を殺してしまうかもしれない。こんなにも人を嫌う前に救うどころか、見捨ててしまうその人を。残酷な方法で。

(だから、人は嫌い)

 他人も、クラスメイトも、母親も、自分すらも、全部ひっくるめてが嫌いだ。

「……ルイ」

「ワンッ」

 名前を呼ぶだけで、こんなにも嬉しそうにするルイが好きだ。

(私が、ルイを嫌う日は絶対に来ない)

 これは確信であり、誓いだ。何があっても、ルイといるという。何があっても、私はルイの味方であるという。

(他の事なら、嘘だろうが卑怯な手を使おうが別に構わない。私だけが嫌われてもいい。それが、ルイのためになるのなら、私は喜んで地獄に行く)

 権利を持たない私は、どんな手を使ってでもルイと一緒に行こう。

 毎日毎日同じことを考えては、胸に刻み込む。忘れないように、揺らがない様に。

 いつまでも変わらない『日常』がそこにあることを願って。


・・・・・


『家』という、私が住む場所に行くのは、どんなに経っても嫌だとしか感じない。

(もしも、ルイが私の家にいるのなら、今にも駆け出すのに)

 だが、残念ながらルイがいるのはあの橋であり、私の家ではない。家にも入れてあげられないのだから、仕方がないだろう。

(あの人が家の中に入ってこなければ、まだ望みはあるのに……)

 二年前。少しのお金を置いて出て行ったあの人は、定期的にお金を置いてはいなくなる。時間は分からないが、置いていく日はいつも決まっていた。毎月の最後の金曜日に来ていて、もしその日が祝日なら来ないが、その分は用意してあるからかその前の金曜日に置いている。二年前よりもお金が少し多くなっているのは、罪悪感でも感じているからか。それとも、ただ単に会いに来てほしくないからか。

(ま、いいか。別に会いに行くことなんてないし、会う事も無いだろうしね。……こっちの日常をこれ以上崩されないのなら、私も関わろうとは思わない)

 この二年で、私が呪いをかけられたかのように育てられたあの価値観は、もうない。愛されたいと思っていた感情なんてない。それどころか、私にとってもう母親は『敵』同然となっていた。

「ただいま」

 声を出すこともあまりなかった家に、母親がいないだけでこうして「ただいま」も「行ってきます」もう言えると思わなかった自分が懐かしい。

 私はリビングに移動して、昨日の残りのご飯を温めて食べる。それが終わったら歯磨きとお風呂だ。

(ルイがいないだけで、まるで機械みたいな日常になる)

「……おやすみ。ルイ」

 この家にはいない犬の事を思い浮かべて、目を閉じる。

 これが、私の変わらない日常だった。

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