第1章 終わりの出会い3


3


 母親がいなくなったからといって、私の日常は変わらない。

朝ご飯は抜きでの学校準備。それから少しでも身なりはよくなるよう、洗面所で清潔面を確認する。この時、少しでも母親の及第点がもらえなければ殴られてしまう。

(朝からあざを作るのは少し困っちゃうんだよね。転んだ、なんて毎回そんな言い訳が通じる訳もないから、考えるのも大変だし)

 でも、これも母親の命令の一つだ。母親は皆から愛されるから、少しでもそれに見合う子供とならなければならない。だから、痣などを作ってしまうと、命令に背かないように言い訳を考えなければならなかった。

(でも、今はそんな小さい心配をしている場合じゃない)

 痣なんて、今はどうでもいい。重要なのは、これからどうやって生きていくか、だ。このままお金も無し、食べる者も無しの中育っていったらどうなるだろう。想像しただけで冷や汗が流れる。

 こんなことなら、餓死よりもあの時飛び降りでもすれば良かったのだ。一時とはいえ、苦しいのは嫌なのだからすぐに逝ける法を選べばよかった。

(でも、それはこの家に何もしないで居るって考えた場合。それに、もしかしたらお母さんだって、帰ってこなかったとしてもお金はくれるかもしれないし)

 現に、リビングのテーブルの上にはお金が置いてあった。けして多いとは言えない金額。しかし、うまく使っていけば一週間以上は持ちそうな量だ。

 それと、私がこの考えが浮かんだ根拠がもう一つある。それは、もし、お金も無しに生活させたとしてもそれは母親のイメージが悪くなるだけだろう。

他人から見れば、母親は憧れの人なのだ。そんな人が、子供を一人にして餓死させるような真似はしないはず。

(けど、最悪の事態も考えなくちゃ)

 もし、お金が無くなったらどうすればいいだろう。いっその事、警察や近所の人のところにでも逃げ込んでしまおうか。

(いや。それは絶対にダメだ)

 それは、母親の命令に背くことになる。

 こんな時すら、私は母親の命令が絶対だったのだ。もしかしたら、死んでしまうかもしれないこの状況の中でも。

(それに、本でも読んだ事がある。もし私が一人でこの家に住んでいることがバレたら、養護施設ってところに行かされるかもしれない)

 それこそ、命令に背くどころの話ではない。

 私にとって、命令に背くと言うのは一種の恐怖の対象だ。去年、一度だけ誤って背いてしまった時があるが、あれは酷かった。慣れてしまっていたはずの日常すらも簡単に上回ってしまうぐらいだったのだから。

その日の夜は、今まで言われてきた命令を最初から思い出していたのをよく覚えている。

 でも、そうなると必然的に独りで生きていくことになる訳で。

(それとも、またあの場所で死に行こうか)

 あの時なくしてしまった思いが、また膨れ上がってきた。

 一度そう思ってしまうと、止めるのは難しい。

(今なら家でも簡単に死ねるし。それがダメでも、外出すら簡単にできるのだからどこにだって行くことができる)

 死んでしまえば、罰を受けることもなくなる。それどころか、これから苦しむ事も一切なくなる。

(そうだ。死んでしまえば、すべてが終わってくれる。うんうん。……それが良い。良い、はずなのに……なんで――こんなに胸が痛いんだろう)

 理由はすぐに思いついた。あの橋の下に捨てられていた犬が頭の中に浮かんできたからだ。自分と同じく捨てられているはずなのに、こんなにも違うあの犬の事を。

 あの犬は、きっと誰かに拾われて人生よく生きていくだろう。なのに、私はどうだろうか。こんなにも醜くく、人としての権利もない。それどころか、私はただの人形のような存在。愛されたいなんて、望めるような者ではないのだから。

(でも……もう一度だけ、あの犬に会ってみようかな)

 ただの気まぐれだ。何の関わりもない、たった一回会っただけのあの犬に会いたいなんて、気まぐれとしか言いようがない。

 それでも、

「――会いたいな」

 私はたった一回きりの犬に、心を許してしまったようである。


 記憶を頼りにして、あの橋のほうへと向かう。正直、あんまり覚えていなかったが、何とか見覚えのある風景となっていき、足を止める。

 しばらく迷いながら足を進めていると、見覚えのある場所に来た。そこから少し歩くと、あの橋が見える。

(……あの犬はいるのかな?)

 あんなに人懐っこいなのだ。もしかすると、どこか別の人に拾われているのかもしれない。

(そうなると、本当に私とは違うくなっちゃうな)

 初めて会えた、私と同じような境遇に立っているあの犬を見て私は心のどこかで安心していたのかもしれない。今まで一人だと思っていた私の心に、仲間ができたのだと錯覚していたのではないか。

 そんな、自分でもなぜそう思ったのか分からない考えが浮かんでは消えていくうちに、あの橋へと到着した。平日のせいか、周りには誰もいない。それが、私にとって独りだということの安堵となっていた。

(でも、独りは嫌だとも思っているんだよね。確か、これって矛盾って言うんだっけ?)

 私の笑顔が偽りで出来ている仮面だとしても、それにだって限度がある。途中で休ませなければが割れてしまう脆い私の仮面だって、何度剥がれ落ちていっただろうか。

 その度に愛されていない事を自覚して、でも愛されたくて。止まることのない思うが、私の存在の一つとなっていた。

「そういえば、サボったの始めてだ」

 今更ながら、学校の事を考える。

母親のイメージ通りのためだけに毎日行っていたその場所は、母親はいないだけで簡単に破れるものだと気が付いた。

(それとも、最後だからかな)

 最後だからだと、諦めているから実行できるのか。

 最後だから、自由になりたいと思ってあの橋へと向かっているのか。

「これが私の意志だなんて、信じられないなぁ」

 人は最後だと、こうも大胆な事ができるのか、なんてどうでもいい事を知ったが、どんなに考えたって一つだけ分からない事がある。

「あんなに会っていて、しかも急に居なくなったお母さんよりも、あの犬の事しか考えられないのはなんでだろ」

 私の世界の中心では、母親しかいない。それしか、教えられなかったからだ。その世界に、あの犬が入ってきた。何の変哲もない、捨てられた犬が。

(仲間だと思ったから?それとも、死のうとしたところを引き留めた印象で?でも、そしたら私はなんであの犬に会いたいと思ったんだろう?今から死のうとしている癖に。また邪魔されて困るのは私だ。なのに、なんで――)

「グルゥゥゥゥゥ‼」

 あの犬の声が聞こえてきて、思考が途切れる。その代わり、反射的に声のする方へと目が向いた。

 そこには、あの犬と、その周りに三~四人の男の人達がいた。それを見た時、私は「あぁ。やっぱり」と思った。あの犬は愛されるべき存在なんだって、私とは違うのだと思い知らされた気分だ。なぜか裏切られた気分になって、私はその場から逃げようとした時、

「あれ?」

 その犬の雰囲気が可笑しいのに気付いた。昨夜みたいに人に近づいていこうとするどころか、威嚇いかくなんてしている。

(……なんで?)

 混乱している私をよそに、男の人達は犬に近づいていく。

「ほらほら。おいで~。怖くないよ~」

「ガゥ‼」

「うわっ!あぶねっ!」

 手を伸ばした一人の男の手のひらを噛もうとしているこの犬は、一体どこの犬だろうか。

 その時の私は、うまく思考が動いていなかった。

本当に、この犬は私の知っている犬なのだろうか。それとも、あの犬は誰かに拾われてまた似たような別の犬を捨てて、その犬が威嚇しているのではないか。

 私としては、前者の方がよかった。そう思えば、あの犬が私を裏切っていないのだと、仲間だと思っていたかったのだ。それがエゴだと知ってもなお。

(……最低)

 自分でも思ってしまう。その考えが、どれだけあの犬を貶めているのかを知っていて、そんな考えが浮かんできたのだ。

「この犬!せっかく優しくしようとしてあげたのに、噛もうとしやがって‼」

「キャウン!」

 男の人達はあの犬を殴り始めた。それは、そこかで見たことのある光景だった。

(……そうだ。昨日の私と一緒なんだ)

 弱い私は、ただ殴られ、蹴られるだけ。物だからだと、割り切っていた昨日のことが鮮明に思い出せる。その記憶が、今のあの犬と重なっているような錯覚を覚えた。

 この時、私は見て見ぬ振りも出来た。過程はどうあれ、結果的にあの犬は見れたし、関わりあいたくないと言えばそうなのだ。だから、早く逃げてしまえばよかったのに――私はあの犬を助ける選択をしてしまった。

 まだ声変わりもしていない幼い声を誤魔化すために、息を大きく吸う。そして──

「お巡りさん、こっちです!こっちで、動物を虐待している人達がいます!早く来てください!」

 物陰に隠れ、男の人達に見られないようにして言う。私が子供だと分かってしまったら、助けるどころの話ではなくなってしまう。

「なっ、警察⁉」

「おい、逃げるぞ!」

「クソ!どこのどいつだよ、サツ呼んできたやつ!」

 物陰に隠れていたのが幸いして、男の人達は急ぎながらも私が叫んだ方向の逆へと走って行ってしまった。

(よかった……)

 私は胸に手を当て、ホッと一息つく。いくら慣れているとはいえ、知らない男の人達から暴力を振るわれるのは少し嫌だった。

 多分、これが最初の目に見える変化だったのだろう。

こんな私でも、誰かを助けれたのも誰かに嫌だと感じれたのも、母親がいなくなって、この犬と出会えたからだ。

 けど、子供の私は気づかない。ただ、目の前の傷ついた犬にしか、意識が向いていなかった。

「大丈夫?」

「クゥーン」

 犬は私を見て、少し笑ったような気がした。

 男の人達に見せた、あの警戒心はない。

「……傷だらけ、だね」

(もっと早く来ていれば、こんな風に傷つかなくてもよかったのかな)

 心の中で「ごめんね」と呟く。元凶が私ではないとしても、私がこの犬を守ればよかったのだ。この犬を最初に見つけた私が、だ。

「もう……。もっと愛想よくしないと嫌われるぞー?」

 冗談めかして言っても、本心では離れてほしくないと思っていた。

「犬の手当てって分からないけど、人間と一緒?それなら、独学で少しなら分かるから、家からとってくるよ」

 そう言って戻ろうとした私を、犬はじっと見つめる。まるで、「本当に行くの?」とでも言っているかのようだ。

(うっ……)

 そんな目で見られてしまうと、行きづらくなってしまう。

「分かった。分かったよ。行かないから、ほら――おいで」

 橋の奥へと行き、人から見えずらそうなところを探して私はそこに座る。そこから膝を叩いて犬を呼んだら、犬は尻尾を振りながらこちらに歩み寄ってくる。先ほどまで威嚇していたとは思えない。あの男の人達も、これを見たら驚くだろう。

 その時、私は初めて生き物の重荷と暖かを知った。

(……温かいな)

 昨日も同じ事があったのに、心の重みが全然違う。それが不快に思わないのも、不思議だった。

 世間では、癒されるものを見ると幸せになれるだとか。

(って事は、私は今幸せを感じているって事なのかな)

 だけど、先程の罪悪感を思い出すと、気が抜けるのもそうだがそれもそれで大変そうだなと思った。犬は、人よりも感情が雄弁とはよく言ったものだ。

 私は、慣れない手つきで犬に触る。生きているとはこういう事を言うんだな、と今更ながら思った。そして、いつの間にか、私はまた死のうと思っていた気持ちがなくなっているのに気付いた。

「全くもう。お前は私を生かしてどうしたいの?」

 目を細めながらも、撫でる手つきも全てが優しさで溢れている様に見えた。この犬は、一体何なんだろうか。

「クゥーン?」

 首を傾げるというあざとい仕草でこちらを見ているのに少しイラついたので、撫でる手を止める。すると、犬はさらに首を傾げ、私の手を舐め始めた。

「⁉」

 驚く私をよそに、犬はひたすらに手を舐める。それを少し続けていると、次は頭で私の手の平をのせ、撫でさせようとする。

「………ふっ、あはははははっ‼」

 耐えきれなくなった私は、生まれて初めて大声で笑ってしまった。

 私の笑いに驚いたのか、今度は犬が硬直する番だ。

「はー……笑った、笑った。こんなに笑ったの、初めてだよ。お前はそんなに撫でられたかったの?」

 そう言いながら、腰辺りに手を当て、犬も毛を撫でる。ストレートの長い毛が、今は気持ちよかった。

(でも、この毛の汚れ方を見るに、そんなに長くは捨てられていた訳じゃぁなさそうだなー。昨日とか、一昨日らへん?でも、まぁ最近っていうのは変わらないか)

 餌もなく、信頼する人もいない中、暗い段ボール箱に入れられていた犬は一体どんな思いでいたのだろう。

 寂しかった?

 心細かった?

 それとも、人が嫌いになった?

 暗闇の中、この犬がどう思っていたのかは分からない。犬は話さないし、私は犬と話せるすべなどないのだから。

(けど、も私と同じ『無』だったら、それはそれで嫌だな)

 この優しい犬が、短い人生の全てを諦めているのは嫌だと、なぜかそう思ってしまった。

 だけど、私は知ってしまった。この犬が、私以外の人という存在を怖がっている事を。

 人は自分を強く見せるのには、二つ理由がある。

 一つは、その人が甘く育てられていたか。

もう一つは、自分を弱く見せないため。特に、後者はその傾向が強く感じる。

本を読んでいた時に出てきた主人公なんかは大抵そうな時もあったし、偽りの関係の時だって、自分はそうだと思っているし、上級生なんか見ていると強がっている人が多かった。小学生――たとえ、一年生だって、見ている人は見ているのだ。

(だけど、やっぱり年上の方がその感覚は強いかな)

 歳を重ねるにつれ、人は賢くなっていく。いい方向へ行くのも当然だが、悪い方向へ行く方が強い。だから、犯罪なんてものがある。

 それは、人から『悪』を取らなければ終わらない負の連鎖だ。虐待。盗み。殺し。小さい物から大きい物まで、それは終わる事のないもの。

 先程までこの犬が受けていたのもそうだ。動物を虐待するのも、『悪』そのものなのだから。

 「そうなんだけど……それを私が考えている時点で変なんだよなぁ」

 虐待そのものを『悪』と言うのなら、私が母親にされていたのも、『悪』なのではないか。『日常』なんてものじゃない、それこそ『虐待』に繋がっているのではないか――

(でも、私によってあれが『日常』なんだ。それは変わらない)

 自分に言い聞かせるその言葉は、もはや呪いだ。母親しかいない私には、それしか道が残されていないとでもいうかのように。

 でも、第三者から見た私は『洗脳』であり、『依存』とでも言うだろう。成長した後、それだけ恐ろしい物か分かった。生まれた時から自分しか見えていないようにするというのは、悪意の塊でしかない。

「……お前はどこまで私と一緒なの?」

「ワンッ!」

 尋ねたとしても返ってこないこの言葉は、たった一つの返事で終わってしまう。しかし、何を言っているのか分からないそれは、果たして会話とでもいうのだろうか。

 それでも、私たちはどこかで通じ合っていたのだろう。私はこの犬を見て何となく表情で分

 かるし、犬も犬で私たち人間の感情に敏感だ。

「私、独りぼっちになったんだ」

 なぜか、気付いたらそんな事を口走っていた。

 もしかしたら、本当は心のどかで誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。けど、それは『命令』で出来なかった。

 だけど、今この場には私とこの犬しかいない。しかも、聞いているのは犬だ。それなら、誰かに言ったうちに入らないだろう。

「ただ愛されたかっただけなのに。一度だけでも、笑った顔を見せてくれれば私はそれでよかったのに……。私が望んでいたのって、一体何だったんだろう。それしか望んでいなかったのに、それすらも叶えられなかった私って……。ねぇ。私って、何のために生まれてきたんだろね。……もう、分かんなくなっちゃった」

 いうなら、私は迷っているのだ。一生答えの出ない迷路で、明るい光もなく、手探りで永遠と。同じ所だけを何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――

「⁉」

 すると、乾は私の手の甲を舐め始めた。

「きゅ、急にどうした、の……」

 見ると、私の手の甲にはいくつもの水があった。

 それだけじゃない。私の頬にいくつも伝っていた。

「あ、あれ?なんで……?今、雨降っていない、よ……?」

 一番縁遠いと思っていた“それ”は、止まる事を知らないとでもいうかのように流れては落ちていく。

 その水を、犬はずっと舐めていた。まるで、私の存在を肯定しているかのように。“それ”を気にしないで、とでも言っているかのように。

 いつまでも、そばにいてくれた。

(ありがとう)

 心の中でしか言えない言葉は、この水が止まったら口に出そう。

 私は、この止まらない水に名前を付けられない。だからこそ、この暗い感情が分からなかった。けど、それでもいい。同時に、心地よい温かさもそこにあったから。

(ありがとう。ありがとう)

 胸の内でっまんども同じ言葉を繰り返す。

 光を一つもささない空は、灰色に染まっていた。

 あの夜の黒が、少しだけ晴れたみたいに。


・・・・・


 私が落ち着いた頃には昼が過ぎていて、少しだけおなかが減ってしまった。

「……今日の給食って何だったけ?」

 頭がうまく働かない。目も熱いし、鼻も少し痛い。水を出した後は、皆こうなのだろうかと、少し不思議がってしまった。

「………」

 私は無言で犬を見下ろす。泣き終えるどころか、最初から辛いとまで隣にいてくれたこの犬は、嬉しそうに尻尾を振りながら私の膝で丸まっている。

「……ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」

 心の中でしか言えなかった言葉を、口に出す。私は、やっと言えた、という満足感でいっぱいだった。

(誰かに本心からお礼を言うのって、こんなにも気持ちいいんだ)

 終始声を出していたので、喉はカラカラで不格好だけど。それでも、本音を出して言うお礼は、偽りとは全く違うような気がした。

「不思議だなぁ……。お前と一緒にいると、自分が自分じゃなくなっていくような、そんな気分になるんだよね」

 正直、それが怖くないと言われれば嘘になる。今までの自分ではなくなるというのは、今まで生きてきた土台をすべて壊しているようで怖い。

けど、それだけじゃない。

「怖いのもそうだけど……うん、何て言うんだろうね」

 私がいつも例えにしていた本では、何と書いてあっただろうか

(確か……あ、これだ)

「わくわく……しているのかな?」

 答えを見つけたはずなのに、疑問形になってしまったのは後から何度だって笑ってしまう。せっかく分かったというのに、疑問形なないだろう、と。

「うん。多分、そうなんだよね。それが、一番しっくりくるもの」

「クゥーン?」

「あ、ごめんね。話の途中で。……もう、今だから言えるけどさ。私、お前に会えてよかったって思っている」

「ワンッ!」

「お前の一緒なの?……真似してない?」

 冗談交じりに言う私を、犬は嬉しそうに顔を綻ばせた様な気がした。私が楽しいという感情を読み取っているかのように。

「……私達って凄く似ているよね。一人でいるってところも、捨てられたっていうところも、全部諦めていたのも……。でも、一番似ているって思うのはさ、私達が私達しか信頼できないってところじゃないかな?」

(今なら分かる)

 私は、母親を信頼していた訳じゃなかった。けど、どこかで信頼したいと、信頼してほしいって思っていたのも本当だ。

(でも、お母さんは私に何を望んでいたのだろうか)

 いなくなって欲しかったのだろうか。

 死んで欲しかったのだろうか。

 そもそも、何も望んでいなかったのだろうか。

(……なんか、どれもしっくりこないんだよね。でも、これだけは分かる。私達は結局、何一つ分かっていなかったんだ。私は、お母さんの事を知ろうとしたけど知れなくて、お母さんは私を知ろうとしないまま終わった。っていうか……この関係に名前を付けるとしたら何なんだろう)

 私の言葉じゃ、どれも当てはめれないようで少しもどかしい気持ちになった。

(……名前なんて、どうでもいっか。もう終わった事なんだもん。……大人になれば分かるかもしれないし、名前何て付けない方がいいかもしれない。どっちにしろ、『今』の私が考えても答えなんて出ないんだから)

 それよりも、と考える。

(これからの事を考えなくちゃ。お母さんが出て行ったって事は、私はあの家にいてもいいはず。そこに、この犬も連れていく?……ううん、それは駄目だ。もし、お母さんがあの家に一歩ではいればこの犬の事がばれてしまう。下手すれば、殺される可能性だって……)

 想像しなくてもよかったはずなのに、一度考えしまった頭は止められない。

(私が死ぬのはいい。だって、要らない子なんだもん。でも、この犬だけはダメ。きっと、私がいなくても必要としてくれる人がいるはずだから。この犬が死ぬのは……死んじゃうのは――)

 そこまで考えて気づいた。この犬が必要なのは、誰かなんかじゃない。他の誰でもない、自分なのではないかと。

(だって、この犬が死ぬなんて、嫌だと思っているのが何よりの言葉なんかじゃないの?痛いって、苦しいって、思っているのが、何よりの証拠なんじゃないの?)

 そうして気づいたとき、私は自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった。

(そうやって、自分は関係ないです、とでも言うように言い訳して、自分はつらくありませんって言うように知らない振りして……。私は、どれだけ馬鹿なの?)

 そんなのでは、ダメだ。そんな風に言い訳ばっかりしていたら、私はどうなってしまうのだ

 ろうか。

(想像はできない。けど、ダメだって事は分かる。それこそ、お母さんみたいにこの犬に手を上げる事だってあるかもしれない。言い訳して、それが正しいって思うかもしれない)

 強く生きなければならない。

 幼い私は、その漠然とした言葉を胸に刻むしかなかった。

(この犬は、私が守るんだ。この犬が私のそばにいてくれたみたいに、私だって、この犬を守りたい)

 幼い私にとって、守るというのが恩を返すのと同義だった。

 この判断には、後悔していない。私にとって、この犬が全てで、母親なんてもう思いだせないくらい、心を占領していたのだ。

 今思えば、これは『偽善』だったのだ。やらない善よりやる偽善、という言葉がある。だが、私の偽善はそんな『善』ではないのだ。結局、偽善は偽善でしかないように。

 その事を、幼い私は理解できなかっただけで。

「私にはお前しかいないから……お願い。離れないでね。もう一度、私を独りにしたら、それそこ、私はもうこの世界に入れなくなっちゃうから」

 私は犬を抱きしめる。もう,離さないとでもいう風に。いなくならないでと叫ぶように。

 この犬の温もりが、今だけは悲しく思えた。


・・・・・


「……そろそろ、戻らないとなぁ」

 この犬と出会って、私の居場所はここのように感じてしまっているが、私にだって家というものがある。学校だってあるし、戻らないと、母親と会ったときに何されるか分かったもんではない。

(おかしいな。そんなの慣れてたし、どうでもよかったはずなのに、今はちょっとだけ、嫌だなんて思っている)

 昔から根付いているものはそう簡単に変わらない。けど、こんな風に思えたのは私がこの犬に会えたからだと分かっているので、自分の変化が少しだけ嬉しく感じる。

 私が、この犬に与えられるのは少なかったのに。

「そういえば、私、いつもお前の事“お前”ってしか呼んでいなかったね。いい加減、そんな仲で呼び合う関係じゃないし、名前とかつけていいかな?」

「ワンっ!」

 意味が伝わっていないはずなのに、この犬は毎度毎度嬉しそうにするから厄介だ。そんな顔をされると、私まで嬉しく感じてしまうから。

「それじゃぁ、何にしよっかなー」

 私が唯一信頼できる相手なのだ。適当な名前なんて、付けたくない。

(でも、私とこの犬の共通点を名前にしたら、それこそこの犬が可哀想だし……。うーん、あっ!)

 私が思いついたのは、あの“水”の事だ。

 私に入らないモノだから、名前なんて付けたくなかったけど、この犬にはピッタリだ。雨から始まって、“水”で終わる。昨日も今日も、私の心はそれで、でも晴らしてくれたのはこの犬で。

(でも、あの“水”は不快じゃなかった。それどころか、この犬は私に初めて教えてくれたものだ。私は、それを大切にしたい)

「うん。決めた」

 私は犬を持ち上げ、笑って言う。

(あっ。私、笑ってる)

 自分でも分かるぐらい。それは嬉しい事だったのだろう。何かに名前を付けるのが、こんなにも楽しい事だったなんて、知らなかった。

「お前の名前は、今日から『ルイ』ね。漢字だと、『涙』だよ。……ルイが私に初めて教えたのだそれだから、ピッタリでしょ!」

 『ルイ』は少し首を傾げてから、またいつもの様に嬉しそうな顔で

「ワンっ!」

 と言った。

「それと、私の名前も言わないとね。自己紹介ってやつだよ。私の名前はさち。幸せって書いて、幸っていうんだ。似合わないでしょー」

 けど、それは昨日までの事だ。ルイと会えた私は、この時点で幸せ者なのだから。

「知ってる?私達って、二人合わせて『幸せの涙』なんだよ。……私はもう、あの水なんて出したくないけど、それでも、ルイと幸せを感じていたいから、今日からよろしくね」

 もう忘れてしまった笑顔。

 苦しみ。

 心地よさ。

 それから、初めての涙に名前付け。

 本当に、こんな幸せな事が多くて良いのだろうかと、少しだけ不安になってしまう。

(だって、神様は不公平だから)

 本当に神様がいるのなら、私にとって神様はルイだ。だけど、ルイは神様じゃない。

「……ルイだけは、何があっても守るから……」

 それが、私にとって唯一できる恩返しだと思うから。

 幼い私には、それしか頭になかった。

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