第1章 終わりの出会い2


 2


 日付が変わる頃。それは、私にとって母親がそろそろ落ち着いてきた頃合いだろうとしか思わなかった。

「私はもう戻るけど……お前はどうするの?」

 犬は寒いからか、私の膝の上で丸くなっていた。

「まったく。犬なのに、猫みたいだね」

 ここで私はこの犬を捨てなかったのが、いけなかったのだ。まだ、そこまで情が移っていなかったこの時に。でも、当時の私はそんな選択肢などなかった。

 もしかしたら、少しだけ優劣感を感じていたのかもしれない。こんな私でも、誰かの――誰かと一緒にいてもいいのではないかと、そう錯覚していたのかもしれない。

「……もしかしたら、またここに来るかもね」

 ぽつりと呟いた言葉は、耳の良い犬には聞こえていただろうか。

 心配そうな顔をして私を見上げる犬は、一体何を思っているのだろうか。

(そういえば、本でこんな事書いてあったな)

『犬は人の感情や表情に敏感』だという。そうなれば、この犬は一体私の何に反応したのだろうか。

 少しだけ興味が湧いてしまったのを隠して、私は立ち上がる。

「バイバイ」

 意外な事に、犬は立ち去る私を見ているだけで、吠える素振りすら見せなかった。あそこまで人懐っこい犬が捨てられていたのだから、それなりに寂しいと思うはずなのに、だ。だが、反応しなかった事から見るにもしかしたら、捨てられしまう事に慣れてしまっているのではないか。

(それなら、私と一緒だ)

 異常なはずの行動が、いつの間にか日常となっている。なら、今日みたいな不足な事態も、きっとすぐに慣れるはずだ。

「そうなると、私はまたあそこに行くのかな」

 まるで散歩しているかのように、軽くステップを踏んでいるかのように、私は歩く。そうしながらも、人に見つからないよう細心の注意を払いながら。

 一度立ち止まって、来た道を振り返る。

 橋の下で、あの犬はどうやって生活しているのだろうか。

 あの犬は、どういう感情を持って元主人が去っていくのを見ていたのだろうか。

「……いや、どうでもいいよね」

(私には、関係のないことだ。……なのに、)

 一向に進まない自分の体に、私は首を傾げる。

(本当、今日はどうしたんだろ)

 慣れない事ばかりで、疲れてしまったのだろうか。

 空はまだ暗い。時折吹く風の冷たさに、私は何度もあの橋の下にいる犬の顔がチラついてしょうがない。そうしている間に、遠くから雷の音がした。

(早く戻らなきゃ)

 今頃、母親はどうしているだろうか。

 早く戻らないと、また叩かれるだろうか。

(――それでいい)

 それが、私の日常だから。

 私が、『物』なのだから。

 頭では言い訳してみるみたいに自分を正当化かせ、それが当たり前だと言い聞かせる。これ以上、かき乱される訳にはいかない。そう思わないと、“私”は“私”ではなくなってしまう。そう確固たる予測が、私をダメにさせているのに気付かず。

 それでも、自然と目は橋の方へと、来た道に後ろ足を引かれるように歩いていた。


・・・・・


「遅かったわね」

 恨みがましい眼で、帰ってきた私を見る母親。濡れている私を見る目は、汚らしいとでも思っているのだろうか。汚物を見ているかのように目を濁らせている。

「どこまで行っていたよ」

「すみません」

「それが答え?」

 そう言って、母親は私の頬を叩く。答えが気に入らなかったのだろう。いつもより、力が強かった。

 母親は濡れた自分の手を見て顔を歪めさせた後、ため息をつきながら言葉を並べていく。

「ハァ……もういいわ。さっさと風呂にでも入って寝なさい。風邪でも引かれたら、私の品位も下がるしね」

 母親の外見は、きっと誰が見ても口をそろえて言うだろう。『綺麗』だと。そして、母親は外見を抜きにしても他の人に愛される。私は、それが母親の凄い所だと思っている。ほかのだれかが言えそうな言葉をサラリと褒め、いつも笑顔で接する。他の女性が妬みそうなスペックも最大限に生かし、男女共に愛されるようにしているのだ。

 そんな母親の最大の過ちであり、汚点が『私』だ。

 要らない子を産み、母親はどう思ったのだろうか。

 だから私は今日も母親に従う。“要らない子”は、それにならって動かなければいけないのだ

 から。

「はい。分かりました」

 母親の監視の中、私はできるだけ急いで準備して、お風呂に入りながら心の中で自嘲気味に笑ってみる。まるで、それしか言えない人形のようだと思った。それしか、言葉を与えられなかった道化のように。

 今の私を見て、他の人は何というだろう。

 同情する?

 可哀そうだという?

 それとも、憐れとか醜いとか、そんな私の存在を卑下する言葉を使うのだろか。

(だとしたら、なんだろうね)

 何も行動に移せない癖に、一体何にに怯えているのだろうか。

「……愛って何だろうね」

 およそ六歳の子供が考えるとは思わない言葉の重みを、私はポツリと呟きながら考える。

 母親は愛されている。

 けど、私へ向けられる愛はすべて偽りだ。友情も、家族愛も、何もかもだ。当然だと思う。

 なにせ、私が人に向けている愛すらも、偽りで出来ているのだから。そんな人に、人は本当の愛を向けてくれるのだろうか?

(ううん。そんな事を望むのすら、私にはあり得ない事なんだから)

 けど、

(あの犬は、私に好意を振りまいていた……のかな?)

 嬉しそうに私と接してくれたのだから、それなりに好意はあるのだろう。

 けど、本来その好意は私じゃなくともよかったはずなのだ。たまたまあの場所に行って、たまたまあの犬を最初に見つけたのが私であって。これが他の人ならば、あの犬は私ではなく、そっちに尻尾を振っていただろう。

(私じゃない、もっと誰からも愛される人とかに)

 そう思うと、なぜか苦しいと思ってしまった。

(もう。あの犬とあってから、可笑しい事しか考えてない)

 また会えるのが楽しみなんて、そんな感情を私は知らない。いや、正確には知らない振りをしていたというべきか。

「ねぇ、まだ入るつもり?」

 少し怒気を含んだ声で、母親が言う。少し長く入りすぎたようだ。

「すみません。今、上がります」

 急いで上がろうと立ち上がると、少しだけ立ち眩みを感じた。

(…ッ。ちょっときついな)

 考えすぎるのもよくない。特にお風呂場では今度から気をつけておこう。

「もっと早く上がってきなさいよ」

「すみません」

 お風呂から上がって洗面所から出てきた瞬間、殴られた私は床に転がり込む。それを見下しながら言う母親は、いつも通りだ。

「すみません、すみません、すみません。貴方はそれしか言えないの?いい加減、もう聞き飽きたわよ‼」

「……すみません」

 そう言うと、母親は私のお腹を狙って蹴る。

 私はお風呂に入っている間に、何かあったのだろうか。明らかに、出て行けと言われた時よりも苛ついているのが分かる。

(それとも、私が愚図だったから?)

 早く入って寝ようとしなかった命令を守れなったのがいけなかったのだろうか。

 そう考えている間にも、母親は何度も何度も同じ場所を蹴っていく。だんだん、それが息苦しくなってきた。

「ゲホッ…!ゲホッ、ゴホッ!」

「あんたが……!あんたが私を…!私の――!」

(……お母さん?)

 母親が何か言っている。けど、私の意識が朦朧もうろうとしてきたせいか、聞き取れなかった。

 もし、私がここでそれを聞き取れていたら何かが変わっていただろうか。どう行動すればいいのか、分かっていただろうか。

 けど、もう終わった事だ。

 私はあの時に、母親の声を聞ける事はないし、その時の戻る事もできない。それどころか、私に二度と暴力を振るわれることはなかった。

 この言葉から察してほしい。

 そう。私は見切られたのだ。最初から最後まで、母親の笑顔が見れなかったのが残念だ。

(私は、どこで選択を間違ったのだろう)

 誰もいない朝日に目を細めて。

 初めて何もない朝を迎えて、

 こうして、私の日常は大きく崩れた。

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