第1章 終わりの出会い


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 雨の日だった。予報も何も関係なしに降った雨。

 その日が、私の人生に光が差し、後に何もかもが分からなくなるほどの喪失感に苛まれる事となる始まりの日だ。

 当時の私は六歳だった。

 まだ、世の中の事など一切知らない子供。

そんな子供は、いつも長袖のついた服を着ていた。少し脱ぐだけで、辺り一面に青い肌が見えていたからだ。

 その子供の日常は変わらない。ただ母親のストレス発散のために使われる道具。物心つく前からそう教えられていた呪いの言葉は、この小さな子供にとって当たり前の日常でしかなかった。

 父親は知らない。だから、と少女は思う。母親は、父親がいないからストレスを溜めるだけ溜めてしまうのではないか、と。誰かに弱音を吐く事も出来ないで、胸にたまっていくから私にきているのではないのかないか、と。

(なら、仕方がない。私は、お母さんの物だから)

 少女は賢かった。

 母親が保育園に行かせてくれなかったため、外の世界を知らない少女が唯一の救いと娯楽が『本』でしかなかったからだ。

 もっとも、少女にはそれが救いだとは気づいていない時点で、物事を客観的に見るのは得意でも、自分と見つめ合うのは鈍かったのかもしれない。それとも、少女にとって『物になる』そのものが義務と化していたのも原因なのかもしれなかった。

 それは、大人になった今でも答えは出ていない。私にとって、日常こそが当たり前だったからだ。

 いくら本を読もうと私はそれを物語としてしか見ていなかったのと同じように、いくら他の同年代の子供を見ても、それはその家庭だから、そういう日常だからと思い、そうとしか見ていなかった。でも、ほんの少しでも違和感を感じなかったといえば嘘になる。周りを見ても、身体中に青い肌をしている人はいなかった。誰を見ても、感情が分からないという子供はいなかった。

 言うなれば、何も知らないような顔をして、子供の振りをしながら、そうして世の中を渡っていたのだ。人の顔を見ながら、時には笑顔を振りまいて。物語で言うのなら、道化師というべきだろうか。何にしろ、私は醜かった。

 けど、その道化も長くは続かない。

「出て行って!」

 初めて、母親にそう言われた。今まで言われなかったことが不思議なその言葉は、当時の私には何の響きもなく、私はいつものように返していた。

「はい。分かりました」

 六歳の子供とは思えない抑揚を発して、私は外に出る。振り返ることはしない。命じられた事を、ただ達成させるため。私は、あてもないまま歩き出した。

 外に出たのが夕方過ぎだったのを覚えている。

(実を言うと、私が母親に「出ていけ」と言われた理由が分からなかった。学校から帰って、いつも通りの日常がはじまるのかと思えば、ドアを開けてすぐにそう言われたのだ。なんとか、ランドセルだけ置いていけたのが幸いだ。あれは案外目立つ物なのである。まぁ、そうなるように作られているのだから当然と言えば当然なのだが。

(こんな事、初めてだ)

 殴られる訳でも、蹴られる訳でもない。ただ、母親は私を外に出した、それ事態が初めてなのだ。酷く怒っていたはずなのに、私を外に出したという事は一人にでもなりたかったのだろうか。それとも、私が邪魔になったからだろうか。はたまた、別の理由でも……

(……考えても分からない)

 なにしろ、本当に初めてのことだったので、どう対処すべきなのかも分からなかったし、どうすれば正解なのかも知らない。

(物語では、こういう時どうしていたんだっけ)

 なぜか、その日に限って思い出せなかった。今までは、何かを考えているとき……例えれるものがなかったから、本の知識しかなかったから現実と物語を比較していた。それなのに思い出せないのだから、どうしようもない。

「どうしよっかな」

 上を向いて、一向に止まらない思考を振り払うように空を見上げる。

 雨は私を濡らすだけで、何もしてくれない。

(……いや、私は雨なんかに、何を期待してんだろう?雨に何かを求めたって、意味なんかないのに)

 自分でしている行動が分からないせいか、首を傾げてしまう。

 ふと、もう一度空を見てみると、もう夜になろうとしていた。今から家に戻ったとしても、それこそ無駄だろう。まだ出て行ってそれ程経っていない。そんな中帰ったとしても、今度は何をされるだろうか。良くて、また外に放り投げられるかだが、また不足の事態になった時に分からないことを考えるのは面倒くさい。

「もう少し、外にいたほうが最適ってところかな」

 そういえば、と思う。母親は私の普段の声を知っているだろうか。私の普段の口調を知っていのだろうか。

(多分、知らないんだろうな)

「って、またどうでもいい事考えてる」

 いつもと違うことをしているせいで、どうにも調子が出ない。

 私は頭を振って、懸念を消した。けど、そう簡単に雑念は消えなくて、私は独りぼっちで思うのだ。

 目に映るのは絶え間なく降り続ける雨で。

 耳に残るのは終わらない水音で。

 肌に当たるのはただの冷たい塊で。

 ふと、一粒の雨が私の目に落ちてきた。ごく自然に。そう意識した時、初めて思った。――まるで、この雨が私の涙みたいだと。それと、

「あぁ、私って――独りぼっちなんだ」

 寄り添ってくれる人もない独りぼっちに、なぜか孤独感が私をむしばむ。それが、悲しいとは思わない。思いたくない。それを認めてしまえば、今までの私の生き方全てを否定するかのようで。

「……早く、どっかにいこう」

 本音を隠すための足取りは重い。誰も見つけてもらえない私は、雨に隠されて誰にも見つからないようにして前へ進む。行く宛てもないし、帰るところもない。六歳の子供とは思えない待遇に、きっと私は疲れていたのかもしれない。

「……疲れた」

 無意識に呟いていた言葉は、誰にも聞かれない。

 それこそ、自分自身も気づいていなかった。


 ・・・・・


 当てもなく歩いた到着地は、橋の下だった。雨宿りができ、なおかつ人の目に触れなさそうなところを考えながら歩いていたらその場所に着いたのだ。まぁ、少しは本の影響もあったのかもしれない。恥ずかしい話だ。

 だが、何かしらあったときは橋の下がある意味都合がいいのかもしれない。すぐ物陰に隠れられるし、川があったら入水できる。人通りが少ないというのも魅力的だった。

「あれ?この考えって、家出じゃなくて自殺にならない?」

 つい言葉に出したその単語は、口調に似合わず重みがある。

 社会は、子供よりも大人のほうに発言力・権利が強いと私は思っている。子供がいくら事実を言ったって、大人にもみ消される事だってあるのだ。

 世界は子供にも権利を与えてはいるが、それを守るための権利であって、それに満たしてなければその権利すらも失われる。

 私たち子供の権利というのは、まるで紙のようなのかもしれない。都合がよければ保管されるが、何か大人にとって都合が悪ければ簡単に破られてしまう。子供の言い分も聞かないくせに……。まぁ、法には簡単な落とし穴があるのだから、仕方がないと言えばそれまでなのだが。

「でも、今の状況は面倒くさいな」

 少女じゃ基本、世の中に無頓着なのだ。それに加えて、面倒くさがりでもある。何かしら、利益や合理的なものがなければ動かないのだ。

 ただし、母親の言う事はどんな理不尽だろうと聞こうとするのだから、母親のが行き届いていると言える。それが良い方向の教育なら……の話だが。

「クシュン!」

 少女は、少し肌寒くなってきた肌を擦ってあたりを見渡す。適当に歩いて着いた頃には、もう空は完全に夜になっていた。

 それに、いまだに雨が降っている。夏は終わってはいるが、まだ気候は温かいはずなのに、それすらも意味がないようだ。

(風邪は引かないと思うけど……)

 去年あたりは、冬の時期に外に放り投げられた事が何度もあった。あの時と比べれば、まだマシな方だろう。手が震えて、寒さでどうにかなりそうだったが、それでも風邪なんてのは引かなかった。

「……いつまで、こんな日常が続くんだろう」

 今の状態では、きっと母親は私を捨てるだろう。

 それこそ、新しい父親が見つかって捨てていくかもしれない。それが明日なのか、一週間後なのか、はたまた来年なのかも分からない。けど、これだけは確信を持って言える。――私は、要らない子なのだ。

 なら、母親は私を捨てる。要らないモノは捨てる。それが基本なのだから。

「そうなると、私は本当に独りぼっちだ」

 一周回って、乾いた笑いしか出てこない。

 他の同年代の子供は、人生を『今』しか見ていない。それなのに、私はどうだろう。人生の先を見据えた振りをして、子供のように甘える事もできない。しかも、母親は私を要らない子だと思っている。

 別に、今の日常に不満などない。不満とすら思っていないのだから、持ちようも無い。

「……なのに、なんでだろうね。私のどこかが、壊れちゃった気がするのは……」

 誰も聞いてくれる人はいない。そもそも、同情すらして欲しくないと言っているのに私は何を思ってこの言葉を言ったのだろうか。

 確かに、この時に私は壊れていた。まともな思考回路ができないで、何が私の本音で感情な

 のかも分からなかった。

 もし、私が独りになった時、私はどうすればいいのだろうか。私の知っている物語ではそんな事は書いていなかった。答えなんてない現実には、物語のように例えるものがないと私はどうすればいいのかも分からない。教えてくれる人がいなかったせいだろうか。それとも、知ろうともしなかった私のせいだろうか。あるいは、両方だろう。

 夜のはずなのに、辺りは灰色に見えてきたような錯覚を覚えた。何も映さない黒と、何かを映したい白。それらが混ぜ合わさって出来たのが灰色。私の目には、何かを映そうとしているようで、何も映したくなかったからなのかもしれない。私は世界が嫌いだ。物語では簡単に追い求めれる『幸せ』が、私には耳障りな言葉に思えたからだ。もちろん、それだけではないだろう。細かく上げたらきりがないぐらい、私は世界が嫌いなのだ。もしかしたら、憎んでいるのかもしれない。

 だけど、それ以上に私は自分が嫌いだ。それは、多分成長してからも変わらない。私は一生、人生を終える瞬間まで、自身を嫌うのだ。

 それこそが、今までの言葉で言う通りの『義務』であり、『常識』なのだから。

 私は、橋の下にある芝生で寝そべる。少し濡れた草は冷たくて、けど、何も感じていないように感じた。

「人生。幸せ。愛」

 自分とは程遠いそれは、別世界の言葉のようで。

「嫌われ。人形。道化」

 人から程遠そうなものほど、私を映しているようで。

「………」

 目を瞑って、六年という短い人生の中を思う浮かべる。

(……生まれた時、お母さんは私を見て笑ってくれていたのかな?顔も知らないお父さんは、私を抱きしめてくれた時があるのかな?)

 想像をしようとして止めた。何もわからない想像は、空白のようにそこから考えることができなかったから。

「私はいつから、笑うってことを忘れたのかな。いつから、泣くってことが出来なくなったのかな。私はいつから――」

 数えだしたら止まらない疑問は、浮かんでは消えていく。人形は壊れたらこうなるのだと、教えてもらった気分だ。そうして、尽きることのない疑問の途中で私は気付いた。今更、こんな風に思ってしまうのなら、こんな風に分からない事で苦しめられるのなら、いっその事――

「うん。そうだよ。死んじゃえばいいんだ」

 幸い、ここは人の目がない。死ねる場所も、目の前にある。今が絶好の機会だ。壊れた道化

 にはお似合いの選択だろう。それしか残された道がないように見えて、私はその道しか見えて

 いないのだから。

 私は立ち上がり、川に向かって迷う事無く歩く。初めて、何かしらの縛りから解放される。そう思うと、胸の高鳴りは止まらなかった。

 『死』というのは一概もなく、何かしらの恐怖や不安によって捕らわれているように感じた。少なくとも、私の知っている物語ではそんな風に書かれていたのがあった。なのに、いざ本当に自分が自殺しようと行動に移すとどうだろうか。何にも縛られず、何かしらにも捕らわれない。今の私にとって『死』は一種の希望で、何かを信じられるモノとなっていた。

(身体が軽いって、こういう事を言うんだな)

 家から出て、初めて色んな事を知れた。

 最後の最後で、久しぶりに楽しいという感情が分かった。

(今の私には、それで十分)

 後、たったの一歩。それだけで、私は楽になれる。

 その一歩を踏み出そうとしたところで――


「クゥーン」


 どこからか分からなかったが、確かに聞こえた動物の声が私の一歩を止めた。

(何?)

 思わず目を凝らしてしまう。すると、ゴミだと思っていた段ボール箱が倒れ、中から何かが出てきた。

 私は恐る恐る近づく。もし、これが変なモノだったら逃げるついでに死のうと思った。が、近づいていくにつれ、それが茶色い何かが犬だというのに分かってしまった。茶色い何かは、私の気配に気づいたのだろうか。近づいた私を見て顔を上げる。嬉しそうに後ろについている尻尾を振っていた。それはもう、はち切れんばかりに。

「……犬?」

「ワンッ!」

 見るからに捨てられているはずなのに、割と元気のいい犬だ。それを見た私は、毒気が抜かれましたと言わんばかりに犬の近くにしゃがみ込む。犬も犬で、「警戒心などありません!」という風に、私に近づいてくる。

「おまえ、どこから来たの?」

 手を差し伸べ、匂いを嗅がせる。そうする事で、犬は警戒心を失くすという。この犬の場合、最初から警戒心など無かったのだが。

「まったく。お前のせいで死に損なったじゃん」

 手を舐めてくる犬の頭を撫で、そう非難するかのように言う。そう言っている割には、犬を

 撫でる動かし方や見る目は優しいのだが。

 犬は首を傾げ、知らないという風に鳴く。タイミングもよく、なかなか空気の読める犬のようだ。

「お前も独り?」

 答えれない犬に話しかけているのはなぜだろうか。独りではなかったという安心感からか、死に損なった気持ちを隠すために言っているのか。

(でもまぁ、どちらでもいいか)

 人と接するよりも幾分マシなきがした。安堵とは違う、心の温かさがそこにある。見てると、この犬は本当に元気な犬だ。人でなら良い意味で人懐っこく、悪い意味で遠慮がないというべきか。これが犬でなければ、あまり関わりあいたいとは思わないタイプだ。それでも、動物というのは案外凄いものだ。苦手なタイプのはずなのに、そこが動物――犬となれば癒しへと変わる。

「まったく、もう。お前は私の何なの?」

 少女は気付かなかった。自分すらも忘れていたはずの笑みが、自然とほころんでいた事に。

 そしてこの出会いこそが、少女の人生を大きく変える事となることに。

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