逢瀬
夏緒
逢瀬
彼女のダークブルーのドレスはちょうど膝が隠れるくらいの丈だ。左ももにスリットが入っており、彼女のほっそりとしたシルエットを強調している。
大きく露わになっている背中には同じ色のストールが柔らかくかけられており、緩く纏められた黒髪からうなじが見え隠れする。
彼女――武藤 沙世は赤くしたくちびるをにこりとさせながらシャンパングラスを片手に、フロアの男たちの脚光を浴びていた。
ヒールに慣れていないわけではないが、やはり長く立っていると疲れる。脚も背中も凝りを覚え始めていた。
沙世は彼らに軽くグラスを上げて挨拶をし、バルコニーへと出た。
バルコニーには先客がいて、彼は煙草を吸っていたらしい。沙世の姿を認めたその男は、「お先に」と微笑むと煙草を片づける。沙世が「ごめんなさいね」と声をかけると、男は「いや、ちょうど吸い終えたところだよ」と、軽く挨拶をしてフロアへ戻って行った。
暗くなった外は晩春の暖かな風を運んでくる。沙世は音もなく静かに息を吐きながら、白く塗られた手すりに腕をかけてもたれた。手すりは装飾が豪華で、所々刺さりそうなほど尖っている。
「檻じゃないんだから……」
沙世が小さく一人ごちると、開け放たれていた一面窓からもう一人がバルコニーへ出てきた。
「やっと一人になったみたいだ」
振り返ると、今夜のもう一人の花形、藤原 倫太郎だった。
「あら、藤原さん」
「倫太郎でいいよ、沙世さん」
倫太郎も片手にグラスを持っていたので、寄ってきたタイミングで挨拶にカチンと心地よい音を鳴らした。そのまま一口シャンパンを飲むと、沙世の残りはほんの少しになった。
「よくあの女性陣から抜け出せましたね」
倫太郎はフロアに入るやいなや、周りを代わる代わる女たちに囲まれていた。それはまるで、色とりどりの砂鉄を吸い寄せる磁石のようだった。
「他の人たちに白い目で見られていましたよ」
「それはきみも同じなのでは? 俺の横にずっと貼り付いていた女の子は、きみを見てあからさまに舌打ちをしていたよ。人気者は大変だな」
「やぁねぇ、それは恐ろしいわ」
倫太郎は沙世のすぐ横で、バルコニーの手すりに背中をつけてもたれた。
倫太郎はすらりとした長身で、長い手足をゆったりと動かす。丁寧にセットされたあまり短くはない髪。高そうな黒い革靴を上手く履きこなしている。
「あまりゆっくり休めそうにはないですね、お互いに」
「おっと、それは困るな。俺はきみを口説く時間をなんとか確保しようと思って、さっきまで抜け出すのに必死だったんだ。すぐに戻らないでくれよ」
「あら、そうなの?」
倫太郎の不敵な笑みをたたえたストレートな物言いに、沙世はくすくすと笑ってみせた。
「俺が相手では、ご不満かな」
「そうですね、あなたと話していたら背中を刺されそう」
「そのリスクは俺も同じだ。さっきから彼らがちらちら見ている。きみを待っているんだろ」
「彼らのもとに返す気はないのね」
「そう。せっかくだから、もう少し独り占めしていたい」
倫太郎はそう言うと、ゆっくりと身体の向きを変え、沙世に半分覆いかぶさるようにして同じ方向を向いた。まるでフロアの彼らの視線から、沙世を隠すようにして。
グラスを持っていないほうの手で沙世の顎を優しくすくい、顔を近づけて囁いた。
「キスをしても?」
「口紅がついてしまいますよ」
「いいさ。きみとキスをした勲章だ。堂々と見せびらかすよ」
それでも沙世はふわりと顔を逸らした。口紅は恐らくつかないだろう。そういう種類のものを使っているし、現にグラスにもついていない。だがそんな誘いに素直に乗るつもりはない。
焦らしても追ってくる。
沙世にはそれが分かっていた。
案の定、倫太郎は沙世の顎にかけていた指を素早く頬に移動させ、沙世がもう一度逃げないようにしてくちびるを重ねてきた。
倫太郎の厚いくちびるが、沙世の小さなそれを軽く吸う。
沙世は、今度は無理に逃げようとはしなかった。
「俺がキスをするのが分かっていた?」
倫太郎がくちびるを離さずに囁く。
「あなたは、わたしが嫌がらないのを分かっていた」
沙世が囁き返すと、倫太郎は気分をよくしたのか舌を這わせてきた。
沙世はそれをくちびるで甘噛みしながら、スリットからはみ出ている左ももにシャンパングラスが滑らされるのを感じていた。
頬にあった手が首筋を辿って腰まで降りる。ぐっと引き寄せられたところで、沙世はくちびるを離した。
「時間が足りないな。俺は今夜、上に部屋を取ってあるんだ。きみもだろ」
「部屋番号は教えませんよ」
「いいさ、調べるよ」
「有紗にだけは聞かないでくださいね。彼女はあなたを好意的に思っているし、わたしの部屋番号を知っているので」
「それは良いことを聞いた」
倫太郎は、いつの間にかはだけていた沙世のストールを肩まで上げて直してやると、
「では、後で」
とひとこと耳許で囁いて、フロアの彩りの中へと戻って行った。
沙世は、口紅がよれていないかを心配して一面窓のガラスを覗き込んだ。
沙世は部屋に戻ると一番にヒールを脱いだ。
長く爪先立ちをしていた足は、床にかかとをつけると違和感が酷い。そのままドレスも脱ぎ、化粧台の前でアクセサリーを外し髪も下ろし、それから立ち上がってシャワーへ向かう。
ぬるま湯でスタイリング剤と化粧とボディクリームを洗い流しシャワーを出ると、濡れた肌を丁寧にタオルで押さえてからバスローブを羽織る。
化粧台の前に座って乳液をつけていると、ドアブザーが鳴った。
沙世がバスローブ姿のままドアの前まで移動し、チェーンをかけたままほんの隙間を開けると、そこにはワインを片手に持った倫太郎が立っていた。
沙世は一度閉めてからドアチェーンを外し、もう一度今度は大きくドアを開ける。
「こんばんは。手土産は、これで良かったかな」
倫太郎はにこやかな表情で部屋に入ると、沙世の代わりにしっかりとドアチェーンを施錠した。
「本当に来たんですね」
「来ると思ってなかった?」
「ええまったく」
沙世は部屋の奥まで戻ると、ベッドに置いたままにしていたドレスを拾い上げ、ハンガーにかけた。
ワイシャツにスラックス姿の倫太郎は、窓際に設えられた丸いテーブルへ持参したワインを置き、備え付けのグラスをふたつ、勝手に用意した。
「俺に部屋番号を教えたのはきみだ。ああ、ここの部屋は夜景が綺麗だな」
「違いますよ、教えたのは有紗です」
「同じだろ。彼女はきみの部屋番号を聞かれて怒っていたな」
「彼女に悪いことをしてしまったわ」
「ちゃんとフォローしておいたから、恐らく大丈夫だよ。それにしても、随分と扇情的な姿をしているな。俺を待っていた?」
冗談混じりに話しながら淀みなくコルクを開け、グラスに少しずつ注いでいく。
沙世はそれを受け取ると、「ありがとう」とまたさっきと同じようにグラスを鳴らした。
「さっき言ったじゃないですか。本当に来るとは思ってなかった。シャワーから出たばかりで、まだ髪も乾かしてないのに」
責めるような困ったような声で話す沙世に、倫太郎は控えめに笑みをこぼす。
「それは急いで来た甲斐があったな。確かに濡れてる。しかし風呂上がりが別人じゃなくて良かった。……さっきの続きをしても?」
「性急なんですね」
「沙世」
倫太郎は沙世の名前を優しく呼び捨てにすると、渡したばかりのワイングラスをその手から奪い、テーブルに戻した。
そうして、沙世の濡れた髪に指を這わせ、手櫛を通すようにして毛先を弄ぶ。その手は毛先から段々と登っていき、耳をくすぐり、頭を撫でる。両手で包み込むように髪を撫でていたかと思うと、次にはその両手を頬に添えた。
近づいてくる顔に目を伏せると、先程と同じようにくちびるが重ねられる。少し舐めてから倫太郎は一度くちびるを離した。
「にがい」
「ああ、さっき乳液をつけたから」
「綺麗な肌は大体みんなにがいんだよなぁ」
倫太郎は楽しそうにそう愚痴をこぼすと、そのにがいくちびるを堪能し始めた。
運営さんに怒られたくないのでカットしました!
ほんとは続くけど続かない。ここまで!!
逢瀬 夏緒 @yamada8833
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