LEDライトが照らし出す空間は、狭く、汚く、汗と、男の匂いがこびり付いているようだった。あまりにも閉鎖的な空間には、重厚感のある空気が鬱滞し、一酸化炭素中毒にでもなりそうな薄弱した酸素下で呼吸しているように感じる。天井に張り付く蛍光灯の光が届かない部屋の隅には暗い影が差し、埃が付いた卓上ランプに照らされる机上は、眩いほどに白い光に包まれている。瞬きすることを忘れてしまったかのように、まるで蝋人形のように動かない青年は、薄い唇を僅かに開けて、故障した潜水艦の中で助けを待つ要救助者のように、静かに、呼吸運動を繰り返している。

「君は、何でここにいるか分かるかい?」

「…人を、殺したから…」

「そうだね。死者一名、負傷者一二名。君がナイフで滅多刺しにした男性は…救命搬送されて間も無く、亡くなったそうだ。その他にも、君が傷付けた人達は、今も病院で治療を受けて生死の境を彷徨っている。君は人を殺し、また、多くの人に、殺すほどの傷を負わせたんだ。君の手で。このことの意味が、理解できる?」

「…はい」青年はただ、刑事に聞かれたことに答えるという作業を、殆ど無意識的に行っているだけで、彼の臓器や血液や細胞や、細胞液などを除いた、彼を構成する凡ゆる感情が、どこか遠くへ抜け出しているような、空虚な状態で、ただパイプ椅子に座っている。

「なぜ、あんなことをした?」

「…あの人に…勇気をもらったから…」

「…あの人? 誰のことだ?」

「あの人は、僕を…助けてくれたんです。それで、あいつを…あいつを…殺してくれたんだ。僕の代わりに…」

「あいつって、成瀬和純のことか?」予め予想していたように、刑事は聞いた。

「成瀬和純が、日常的に君を痛め付けていたことは分かっている。真面目で温厚な君が、今回の事件を起こしたと分かった時、もしかしたら、君と、君の言うあの人が繋がっているんじゃないかと思ったんだ」

「あの人は、あいつを…殺してくれたんだ。僕じゃなくて。あいつを…。あの人は、ぼ…僕を、選んでくれたんだ」

「君じゃなくて彼を殺した? どういうことだ?」

「あいつは、いつも、僕を殴ったり、蹴ったり、ひどい言葉を掛けられて、お金も…取られて。もう、辛かったんです。辛くて、辛くて…死にたかった。疲れて、もう、死んでしまいたいと思っていたんです…あの日、あいつが…倒れ込んだ僕に、ナイフを渡してきたんです。これで、死ねって。お前なんか、生きてる価値も、殺される価値もないから、自分で死ねって。それで、僕は死のうと思ったんです。これで、楽になれる。そう思ったら、すっと何かが溶けるような感覚があって、心地良くて。もういいや。これでいいんだって、思ったんです。そうしたら、あの人が、僕の前に来て…ナイフを渡せって、僕に言ったんです。それで、それで…君は生きろって、言って…くれたんです…」

青年は、溢れる涙を垂れ流したまま、鼻汁を啜りながら、嗚咽を漏らしている。

「…じゃあ、その人は、ナイフを持ち去ったんだね?」

「…はい」

「君と成瀬和純が話した場所はどこだ?」

「…渋谷駅近くの、フランス料理のお店の裏だったと思います」刑事は、パソコンを打ち込む若手の刑事に目配せした。

「君の言うあの人は、男か?」

「…」

「顔と特徴は?」

「……覚えていません」長い沈黙の後に、青年はゆっくりと答えた。

「どんなことでも良い。何でも良い。特徴を教えるんだ。身長。体格。目の大きさ。唇の形。服装。何でも良いんだよ。そいつを、捕まえなくてはいけない。そうしないと、また新たな人を殺すかもしれない。お前の証言で、捕まえられるんだ!」

「覚えていません」

「おいっ! 嘘を吐くな!」

「…覚えていません」

「お前っ、人を殺しておいて、そんなことが言えるのか!」

「…あの人のことは、話したくない。何も。僕はあの人を、守りたい。僕を、守ってくれたから」

「お前、守るの意味を履き違えてないか? お前は、何を守ってるんだ?」

「…」

「…もういい…分かった。お前は、明後日には送検される。時間はまだあるから、まぁ、ゆっくりやろう。それで…なぜお前は、あんな事件を起こした。動機はなんだ? お前の話だと、お前の言うあの人は、お前を助けるために殺人を行ったんだろう? しかし、お前はどうだ? お前は、何の罪もない人々を殺めたんだ。お前が、あの人に感化されて事件を起こしたんだとしたら、矛盾していないか? 彼は、何のためにお前を助けた? お前は、彼に救われた命で、一体何をした?」

「僕は、解放されたかったんです。僕自身の呪縛から。僕を縛り付けている何かから。足枷のような。僕は…自由になりたかった」

「足枷? 呪縛? 自由? さっきから何を言ってる?」

「もう、何も怖くない。それを、証明したかった。もう誰も、僕を止めることなんてできない」

「まるで宗教染みてるぞ」

「宗教? そうかもしれないですね。僕にとって、あの人は教祖なのかもしれない。あの人は…僕に何かを語るわけではなかったけど。あの時、あの瞬間、僕はあの人から何かを、授けられたのかもしれない」

「直接何かを言われたわけではなく、全くの思い込みってことか…」刑事は溜息を吐きながら、パイプ椅子の背凭れに体重を掛けた。

「お前の動機は何だ。なぜ、罪のない人を狙った? 狙うなら、お前に苦痛を与えた奴等を狙えば良かっただろ」

「何を言っているんですか? 言ったでしょ。僕はあの瞬間、僕自身を取り巻いていた呪縛から解放されたと。今更、あいつらに復讐することなんて、何の価値もない」

「宗教染みた話は苦手だ。はっきり言えよ。人を殺すことに、興味があったのか? それとも、誰かを殺したい衝動に駆られたのか?」

「興味? そんなものは特にありませんでしたよ。ただ、気付いたら車を走らせていて、気付いたら、ナイフを手にしていた。赤信号の交差点を走る子供がいたから、思い切りアクセルを踏んだら、子供にぶつかる直前に誰かが飛び込んで来て。凄い衝撃と音がして、頭が揺れて、視界が歪んで…反射的にブレーキを踏んで車から降りたら、頭から血を流した男が倒れてて、僕はなぜだかよく分からないけど、その男に近付いて、その首筋に、手を伸ばしたんです。体重を掛けると、どこまでも、深く、沈んでいって。男の呻き声が聞こえて、そうしたら、後ろの方から、誰かが叫びながら走ってきたから、反射的に振り返ったんです。そしたら、持っていたナイフが、おじさんのお腹にすっと入っていったんです。おじさんは、目をいっぱいに見開いて、引き笑いみたいな呻き声を出して、ずるずるって、僕の足元に崩れ落ちて。そしたら、金切声みたいな叫び声が聞こえて、女の子が目に入って…そこからは、あまり、記憶がないんです。衝動的、というか、本能的、というか、とにかく僕の意識とはかけ離れた力が働いて、僕を動かしたっていうか。覚えているのは…赤い、凄く赤い血が、舞っていて。血飛沫っていうんですか? それが、凄く綺麗で。僕はもう、夢中になって…はは、はは…」そう言うと、青年は俯きながら、静かに笑った。

「こいつ、狂ってやがる」目を見開きながら笑う青年を見て、刑事は言った。常軌を逸していると、刑事は思った。しかし、そもそも刑事の思う常識が、青年に当て嵌まる筈がなくて、それは『常識』という言葉で括った、単なる刑事の価値観でしかなくて、青年は、真っ当に己の信念とやらを語っているに過ぎなくて、ただ、それがあまりにも世間の思う『価値観』から外れているだけに過ぎなくて。不意に思うのは、常識とは何なのか? ということ。常識とは何で、価値観とは何なのか? 何が悪で、何が罪になるのか? 生命を殺めることは、そもそも罰に値するのか? するに決まっている。なぜ? なぜって、それは…全世界において、殺人は罪だと決められているから。だからなぜ? だからそれは…法律で、尊い命を殺めることは罪だと、定められているから。では牛は? 豚は? 鶏は? 魚は? 植物は? みんな、等しく尊い命である筈なのに、我々人間は、その生命を食物として奪取しているではないか。それは…食物連鎖の頂点が、人間だからであって、仕方のないことで…生き物が生きるためには、いつだって犠牲は付き物だろ? ではもし、ある人間を殺すことが、その人に残された、この世界で生きるためのたった一つの方法だったとしたら、それは仕方のないことなのか? それは違うだろ? なぜ? それは…だってそれは、生理的な問題ではないだろう? 人間が殺人を犯す理由は、どれも精神論だ。至って明快な正当防衛以外はな。他人に対する怨恨、衝動、純粋な殺人への興味、窮地から逃れる為の突発的な打開策。殺人の動機など、客観的に見れば、どれもくだらないものだ。本人には、確固とした正義が存在していたとしても。本当にそうか? どういう意味だ? 動物は、時に友を襲う。縄張り争い、交尾相手の争奪戦、仲間の生殖の妨害、言ってしまえば、これらも精神論で説明できる筈で、殺傷の動機は人間よりも本能的で、罪から逃れようと奔走する厭らしさがないことを思えば、遥かに清々しいだけじゃないのか? 脳の機能が著しく発達した人間が、より複雑な感情で殺人を犯すのは、特段可笑しな話じゃない。科学者でない限り、両者の明確な境界線は分からないし、そもそもそんなものが存在することも定かではないが。人間の世界では、殺人を犯した者には裁きが加えられることは言うまでもないことだ。命は尊い。そんな極めて陳腐で、だが原点ともいうべき理由で、先任達は、人が、人を殺すことを罪とした。他人の行為を、客観的な判断で裁きを下すなど、それこそ動物の持てる本能を取っ払い、皮肉を込めて人間らしいともいえる、他者理解とお節介の為せる業であり、動物的な視点から見れば、どうしようもなく愚の骨頂であり、もはや動物の域を超えて永久ともいえる変化を追い求める人間的な視点で見れば、素晴らしい決定事項なのかもしれない。この世界は、食物連鎖が全てだ。その頂点に君臨し続ける人間は、何の躊躇いもなく他の動物を殺し、生きる。同じ生命なのに。そこに矛盾を感じつつも、至極常識的なことだと理解することはできるが、やはり矛盾していると違和感を拭い去れない者もいるだろう。今、冷たいパイプ椅子に座る青年は、その矛盾を無意識的且つ強引に取っ払い、生命の価値を判断できないまでに麻痺してしまっているのかもしれない。そして、人間の世界で生きる宿命として、ここにいて、人間が作り出した常識によって、裁きを受けることになる。もし、この世界の常識を作り出した者が、今に置ける『常識を逸脱した考えを持つ者』だったとしたら、この世界の常識は反転していただろうか? いや、そうではないだろう。きっと、淡々と過ぎ行く時間の流れの中で、様々な人間が争い、奪い合い、多くの物を淘汰した末にこの世界ができたのだとすれば、先任達の知恵と生命が吹き込まれ、現在に生きる『常識』は、尊いものなのかもしれない。

 青年が殺人を犯した理由は、そもそも、そこに明確な理由などないのかもしれない。青年は、彼の言う「あの人」に手を差し出された時に、ナイフを渡した時に、何らかの刺激を受けて。新しいスタートラインに立ったつもりで、まるで新学期のクラス替えのような、まるで大学デビューに胸踊らせるような気持ちで、青年の心が何かに働き掛けようと疼いたのかもしれない。それは、想い焦がれていた女子に恋心を伝えようとするものかもしれないし、冴えない眼鏡男子が勇気を振り絞りコンタクトレンズに変えようとするものかもしれないし、興味や恨みがあるわけではなく、突発的に湧き上がった衝動に駆られるままに犯したものだったのかもしれない。


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紫煙 心之丞 @kokorotohana

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