何も浮かんでいない空に、一羽の白鷺が悠々と飛んでいる。果てしなく広がる青に、鮮やかな白が驚くほど映える。緩やかに昇る太陽が、冷気を纏うアスファルトを控えめに照り付ける。沿道には、青々と茂る葉を束ねた銀杏並木が並び、まるで蛸足のように畝る太い根で大地をしっかりと掴んでいる。風の流れを感じない今、その葉はじっとして動かない。肌に触れる空気は冷たく、枯渇したそれに水分を奪取されているように、ヒリヒリとした痛みを感じる。一刻でも早く、暖房の利いた屋内に逃げ込みたかったが、寒気により震える足先は思うように動かず、なかなか前に進めていないような感覚があった。からっとした快晴なのは結構だが、恐ろしく乾燥した冷気には、いい加減嫌気が差していた。

 毎週訪れる休日は恐ろしく早く過ぎ去り、また、学校と家を往復する日常が戻ってきた。時の流れを憎々しく思いながら、僕は学校へ向かう。今となっては、開放感に満ち溢れていた先週の金曜日の余裕が、まるで嘘のように感じる。どうして、休日という心踊る期間において、時間の流れはこれほどまでに早いのだろうか。何ともくだらない、怠惰の極みともいえる疑問だが、時に、本気で考えてしまうことがある。不可逆的に、淡々と流れ行く時間とやらは、僕がどんなに祈ろうが、決して抗えないことは火を見るより明らかだ。過ぎ去る時間を思いのままに操ることができないのであれば、過去に遡ることのできるタイムマシンとやらを、開発してくれないものかと、何度願ったことだろうか。

 何の目的もなく、自堕落な生活を送ろうかと思っている時、静かなリビングのソファに寝転びながらテレビをつけると、画質の荒い洋画が放送されていた。画面には、丁度「BACK TO THE FUTURE」という文字が映し出されており、それはまるで、インディー・ジョーンズを彷彿とさせるような色合いのロゴだと思った。余程古い作品なのだろうと思いながら、何となく眺めていた時、颯爽と現れた車型タイムマシンの登場に、まるで雷鳴が轟いたかのような鮮烈な衝撃を受けたことを覚えている。僕が思い焦がれていたことが、現実に近付きつつあることを予感させた。しかし、それが三十年以上も前の作品であることを知った時、急速に膨張した僕の期待に穴が開き、破裂音とともに消えた。三十年の時を経て進歩した科学技術を駆使しても尚、デロリアンを実現化することは困難なのだろうかと、全く以って傍観者でありながら、酷く落胆した。

 今、この瞬間が過ぎれば、全ての物事は過去のものへと変貌し、新しい未来が押し寄せる。もはやデロリアンに抱いた淡い期待は消え去り、過去に遡ることができないのであれば、未来など来なければ良いと、投げやりな気分になった。そうすれば、自分は永遠に、その一瞬を生きることができるのではないかと思った。しかし、未来が来ないからといって、時間の流れが止まることはなく、過去は過去として等しく過ぎ去る。そうすれば、僕はどの時系列にも属さない存在として、時間の流れの中から抹消されてしまうのではないだろうか。普遍的な日常から、僕だけが消滅し、誰もそのことに気付かない。そんな世界を想像したら、途端に恐ろしくなり、全身に鳥肌が立った。

 不意に追い風を感じて、身体が前に押されるような感覚を覚えた。はっとして顔を上げると、いつの間にか信号が変わっていたことに気付いた。信号待ちをしていた人々が、僕を追い越して交差点を渡る。彼等の後ろ姿を呆然と眺めていた時、一粒の水滴が頬に張り付いた。驚いて空を見上げると、もこもこと広がる積乱雲が青空の一角を覆っていた。つい先程までは雲一つなかったのに、一体いつの間に発達したのだろうか。燦々と輝く太陽に寄り添うように広がるそれは、まるで夏の台風を想起させるようだと思った。冬も深まり、街全体が冷気に満ちた季節、青空と太陽という言葉だけなら心嬉しくなるが、それに積乱雲が加わると、何とも不思議な心地になる。冬場にも、積乱雲は見られるものなのかと、ふわふわと不気味に漂う巨大な雲を眺めながら思った。そういえば、家を出る時にちらりと見た天気予報で、太陽と雨のマークが付いていたことを思い出した。僕は、激しい雨は降らないだろうと思い、傘を持ってこなかったことを少し後悔した。雨に濡れると、堅苦しい制服が更に重くなるため厄介だ。早く学校へ向かおう。眼前に悠然と広がる積乱雲を見上げながらそう思っていると、視界の端に、チカチカと点滅する青い光が見えた。はっとして前を見ると、僕が渡ろうとしていた信号が、青い光を点滅させていた。青に切り替わったことを確認しながらも、不意に頬に触れた雨に動揺して、渡ることを忘れていた。急いた僕が駆け出そうとした時、僕の横を誰かが通り過ぎた。少年が、丁度赤信号に切り替わった交差点に飛び出していった。少年の背中を見送りながら、僕は視界の奥から侵入する自動車を捉えた。その瞬間、胸騒ぎのようなものを感じたのは、決して僕に、未来を見通せる予知能力があったわけではなく、ただ、胸がざわざわするといったくらいのものだった。速度を落とさずに、加速する勢いで迫り来る自動車。迷いのない意志の如く真っ直ぐに進むそれが、スローモーションのように見える。全速力で走る小さな少年。自動車の存在に、気付いていないのだろうか。圧倒的に速度の違う両者から、僕は目が離せなかった。見えそうで見えないフロントガラス。ただ、大袈裟なほど強くハンドルを握る指先と、大きく開いた口元が見えたような気がして、僕の指先が微かに震えた。自動車と少年を捉えて離さない視線。異様なまでの口渇感。立ち竦む足元。花火のように激しく、胸を叩き付ける鼓動。じっとりと額に滲む汗。大きく口を開いたが、声が出なかった。少年の背中を見る。気付け! 止まれ!

 僅かに汗をかいたTシャツの感触。確かに感じる少年の体重。そして――。ふわっと浮くように、身体が舞い上がる。視界が歪む。太陽が僕を黄金色に照らす。思わず目を瞑る。太陽の光が暖かく感じる。寒い筈なのに。今日はやっぱり、不思議な天気だな。それにしても、何だか身体がじんじんする。熱いような、痛いような。何でだろう?

「うっ」身体が、硬いアスファルトに叩き付けられたような感覚。金属バットで殴られたように、全身がピリピリと痺れている。鈍い痛み。うっすらと目を開けると、傘を持った人々が、九十度反転して見えた。何が起きたんだろう? 少しずつ、自分の状況を確認しようとする。右手を道路に付けて力を入れる。しかし、力を入れている筈なのに、身体が全く動かない。あれ? どうしたんだろう? 筋肉の振動を感じるのに、驚くほどに、微塵も動かない。軽く息を吐くと、胸部に痛みを感じた。そういえば、少し息が苦しいような気がする。上手く吸えないし、上手く吐けていないような感覚。呼吸しているのに、肺から空気が漏れているような感覚。もしかしたら、肺に穴が空いているのかな? そんな戯言が思い浮かんで、僕は笑った。しかし、上手く笑えなかった。胸部に感じる痛みのせいで、思うように息ができない。苦しい。胸に手を当て、身体を丸めた時、視界の中に、ふらりと黒いスニーカーが現れた。肩幅程度に開き、僕の横に佇んでいる。僕を、見下ろしているのだろうか。顔を上げようとしたが、力が入らなかった。遠くの方で、女性の悲鳴のような声が聞こえる。その声が、徐々に明瞭に、大きくなって聞こえる。怯えたような、震える声。どうかしたのだろうか。悲鳴を上げる女性は、どうやら僕の近くにいるようだ。それにしても、胸が痛い。背中が痛い。足が痛い。身体中が痛い。あの少年は、どうなっただろうか。思い切り突き飛ばしてしまったから、転んでしまっただろうか。不安に思ったが、少年を探す気力がない。ふと、視線を上に上げる。傍に寄り添うスニーカーの奥に、灰色の雲が見える。先程よりも大きく、黒ずんだそれを見て、家を出た時には、確かに晴れていたことを思い出した。熱した光を放っていた太陽は、微かに覗く切れ間から、仄かな橙色を漏らしている。ぽとり。淀んだ空から落下した雨粒が、頬に触れた。思ったよりも大粒で、冷たかった。続け様に垂れてくるそれが、アスファルトの彼方此方に染み込み、独特な臭気を漂わせる。雨の匂いだと思った。その香りに誘われて、僕は首を動かす。スニーカーを辿り、頭上から燦々と注がれる視線を探す。胸の痛みに堪えながら顔を上げると、僕を見下ろす二つの瞳と、目が合った。小さくて、円らな瞳だと思った。僅かに開いた薄い唇は、僅かに振動しているように見える。長い前髪に若干隠れているが、艶やかな黒髪の隙間から、じっと僕を見つめている。真っ直ぐに向けられる鋭い眼光に、ぞくぞくとした悪寒が走る。僕も、彼のことを見つめた。その瞳から、視線を背けることができなかった。そのまま、お互いが動かないまま、時間の経過を感じながらも、まるで自分達の空間のみ時の流れが止まっているかのように、僕達はただ、見つめ合った。不意に、彼が笑ったような気がした。目を細めて、右側の口角を上げながら、微笑んでいる。また、誰かの悲鳴が聞こえた。彼は笑みを漏らしながら、震える唇から、乾いた声を出した。過呼吸のような、発作のような、断裂的な、笑い声。その様子を眺めていると、軽い目眩を覚えて、視界がぼやけた。歪んだ景色の中から、細い腕が真っ直ぐに伸びて、僕に触れる。冷たい手が、僕の首筋を撫でる。最初は優しく、慰るように、そして少しずつその力を強め、僕の首筋を滑る。僕は彼の瞳に囚われたまま、徐々に呼吸ができなくなっていることを自覚した。皮膚を掴む指が、首の内部に通る筋を押し退けて深部へと埋まり、その重みが鉛のように感じる。苦しい。息が、できない。

「やめて」先程からずっと聞こえていた悲鳴のような声が、突然明瞭に聞こえた。何かに覚え、恐怖に慄くような声が、澄んだ空気を抜けて僕の耳に届く。その時、僕を眺めていた人混みが乱れ、その中から、痩せた男性が飛び出した。男性は酷く動揺した表情で、一心不乱に僕の方へ駆けてくる。その顔が、どこかで見た顔と重なる。

「遙っ」その声が、どこかで聞いた声と重なる。男性から伸びた手が寸前に迫った時、それまで僕を捉えて離さなかった視線が外れ、長い前髪が揺れた。彼の視線が、男性へ向けられた瞬間、何かが光ったように見えた。

「うっ」鈍い声と、それに続く引き笑いのような呻き声が、不気味な余韻を残しながら消える。地面に尻餅を着いた男性の上に跨った彼は、がむしゃらに、まるで何かに取り憑かれたかのように、懸命に、細い腕を振り上げる。骨が軋むような、鈍い音が聞こえる。何が、起こっているのだろう。ぐしゃぐしゃと、不気味な音が響く中、僕は乱れた呼吸を整えながら、その動作を眺めた。彼の振り被った拳に合わせて揺れる男性は、鼻がへし折れ、瞼が重く腫れ、その顔に血液を散りばめながら、ぴくりとも動かなくなっていた。男性が静かになったことに気付いたのか、もしくは疲れただけなのか、彼はふらふらと立ち上がりながら、男性の腹部に沈み込むナイフを引き抜いた。鋭い切っ先が裂いた切れ目から、まるで溶岩の隙間を流れるマグマのように、どろどろとした血液が噴き出した。止めどなく溢れ出るそれは、男性の衣服に染み込みながら地面へ流れ、アスファルトを染めていく。ぼんやりとした視界の中で、男性の歪んだ表情が浮き出て見えた。激しく乱れていた呼吸が、落ち着きを取り戻していく。僕の全身に張り巡らされた血管に流れる血球が、欠乏した酸素を充足させていくような感覚を覚え、薄れていた意識が、徐々に明瞭になってきた。男性が、倒れている。顔をくしゃくしゃにして。僕を、助けようとしたのだろうか? なぜ? 男性の傍に力なく佇んでいた彼は、俯いたまま、静かに胸郭を動かしている。彼が、大きく息を吐き出した時、その前髪に隠れる眼光が、ぐるりと周囲を見渡した。それまで、無我夢中に男に跨っていた青年の視線が、初めて周囲に向けられた瞬間、地面を踏み締める足音が重なった。逃げる隙を伺う冷静さを欠き、恐怖のあまり叫び声をあげる心理状態さえも忘れてしまうほどの混乱。彼らはただ、目の前で一人の人間が惨殺された事実と、その牙が、自分に向けられるかもしれないという仮定の中で錯乱し、目を見開きながら、青年を見つめている。その場にいる誰もが、呼吸を忘れ、乾いた喉に唾を流し込んだ時、群衆に紛れる一人が、足の力が抜けたように、アスファルトに頽れた。まるで獲物を探すような瞳が、尻餅を着いたように地面にへばり付く女子高生を捉えた瞬間、青年は走り出した。真っ直ぐに、恐怖に縮み上がる瞳を捉えたまま、青年は駆ける。

「ひっ」女子高生は、臀部に鳥黐が付いてしまったかのように、腰を悶えさせながらも、動けないままでいる。その眼前に、彼が迫った時、彼女の瞳が、大きく見開かれた。また、光のようなものが見えた。それと同時に、銀色の残像が見えた。刹那に現れたそれは、軈て朱殷を纏い、空間を彩る。彼女の首筋から噴き出した血液は、銀色に絡まりながら血管を飛び出し、外世界へ放たれる。激しい血飛沫を全身に浴びた彼は、ぐったりと倒れ込む彼女を静かに見下ろした。そして、その手に握られたナイフを掲げ、周囲を取り囲む人々に飛び掛かった。俊敏な動きで、人混みを縫うように進む。恐れも、戸惑いも、哀れみも、後悔も、一切の妥協も許さないように力強く、強引に、逃げ惑う人々の皮膚にその切っ先を突き立てる。まるで、最初に男性の腹部を抉った時に何かが吹っ切れたように、もしくはコツを掴んだかのように、もしくはさらなる快感を求めるように、彼の握るナイフは、自身の意思を持つ生き物のように、地面に転がる人々を容赦なく切り付ける。裂けた皮膚から血飛沫が舞い、彼に降り掛かる。空間を這う朱殷の粒が、踊るように燦々と降り注ぐ光景は、生々しくも幻想的で、非日常的なおどろおどろしさを生み、僕の網膜に克明な像を刻む。不意に、静寂を感じた。まるで、鼓膜を震わす一切の雑音が排除されたかのような、静寂。荒い、彼の息遣いが聞こえる。激しく乱れた吐息が、静まり返った空間に響く。気付いたら、僕を取り囲んでいた人々はその場に倒れ込み、周辺に転がる幾つかの傘の手前に、彼の姿を見た。まるで落下隕石により消滅した地球を見て愕然としているかのように立ち竦む彼は、華奢な肩を上下に震わせながら、乱れた呼吸を繰り返している。時々激しく咳き込みながら、肩を揺らしている。彼は、笑っていた。苦しそうに、腹を抱えて、笑っていた。静寂に響く、囁くような引き笑いは次第に大きくなり、狂ったように、乾いた声を漏らす。しかし、何かに刺激されたのか、今度は激しく咳き込み始めた。胸を押さえ、俯きながら悶える彼は、少しずつ落ち着きを取り戻したのか、深呼吸を繰り返しながら、虚な視線を僕に向けた。どこか寂しげで、今にも泣き出してしまいそうな悲壮感が漂うその視線に、先程までの鋭い光はなかった。どうして、そんな顔をするのだろう? 思わずそう感じてしまうほどに、深い悲しみを背負い込んだような瞳が、目前に迫った。漆黒の瞳に、僕が映る。首筋に冷たい感触があり、ナイフが突き立てられているのだと気付いた。反射的に、呼吸を止める。かたかたと揺れる切っ先が皮膚に触れ、僅かに裂けた毛細血管からじんわりと温かいものが滲み出る。彼は、震えていた。感情のない、どこまでも深く沈むような瞳に光が見えた瞬間、首筋に当てられていた切っ先が大きく空に掲げられ、垂直に落下してきた。鋭くて、短い痛みを感じた。それは、指先を紙で切った時のような、慣れない剃刀で皮膚を抉った時のような痛みに似ていた。再び振り上げられた切っ先を追うようにして舞い散る血飛沫が見えた。裂けた皮膚が外気に触れ、ひんやりとした感覚を覚える。痛い。怖い。何が、起こっているのだろう? 激しく、混乱していた。状況が理解できない脳内に冷気が吹き込み、悶絶するほどの痛み刺激がなだれ込む。胸、腹、大腿に痛みを感じる。今までに感じたことのないほどの痛みに、更に混乱する。痛くて、痛くて、痛くて。死にたくなるほどの、痛み。全身の筋肉を収縮させて、少しでも痛みを紛らわせようとするが、全く力が入らない。痛みと恐怖に囚われ、視界が滲む。彼が、笑っているのが見える。僕を見て、口角を引き上げて、笑っている。狂気に満ちた笑顔。視界が狭まる。痛みさえ、感じなくなっている。痛みも、恐怖も、感じない。遠退く意識の中で、ただ、彼の瞳に映る、僕を見ていた。

 がたん。何かがぶつかったような音が聞こえて、それと同時に自分の身体が揺れたことに気付いた。うっすらと瞼を開けると低い天井が見えて、白色の閉鎖的な空間にいることが分かった。口元に違和感を覚えて見てみると、鼻と口がシリコンのような素材で覆われており、僕が呼吸をする度に白く濁っている。その先には緑色の風船のような物が繋がっており、マスクとヘルメットを装着した男性が一定の間隔でそれを押し潰していた。風船に圧を掛けられる度に、僕の口の中に大量の空気が押し込まれ、口腔内へ強引に侵入した空気は、否応なしに横隔膜を肝臓の方へ追しやり、肺を膨らませる。強引に押し込まれるそれを少し苦しく感じたが、楽にも感じた。全身の感覚があまりにもなく、呼吸の仕方も分からなかった。もはや、自力で呼吸をする自信がないように思えた。だから、無理矢理にでも僕の呼吸運動を保ってくれていることを有り難く感じた。呆然と男性のことを見つめていると、唯一隠されていない瞳と目があった。男性ははっとしたような表情をして、僕に向かってパクパクと口を動かした。男性が何を言っているのかが分からずに、ただその様子を眺めていると、軽く肩を揺さぶられた。ゆらゆらと揺れる視界に酔ってしまい、眉間に皺を寄せると、男性は少しだけ安心したような表情を浮かべた。時折、背中がガタガタと揺れ、視界が歪んだ。幾度も感じたことのある感覚だと思った。これは、車だろうか? 僕は今、車に乗せられているのだろうか? あぁ、なんだか身体中が重い。感覚が鈍く、指先がピリピリと痺れている。唐突に、眠気を感じる。少しずつ、意識が薄れていくように感じる。油断すると、意識を手放してしまうのではないかと思うが、それを危惧するのも面倒に感じる。何も、考えが浮かんでこない。考える気力さえ、起きないことに気付く。ただ呆然と、白い天井を眺める。風船に圧を掛け続けている男性は、時折僕の顔を覗き、何かを言っている。薄れ行く意識の中に、漠然とした恐怖のような感情が混じる。不意に感じる死という言葉。自分は、死んでしまうのだろうか。そう思った。唐突に、死への恐怖が、まるで底なし沼のように、深く、深く広がっていく。死という現象が、間近に迫っているような気がして、怖くなった。なぜ、僕はここにいる? 僕に、何が起こっているのか? 僕はこのまま、死んでしまうのだろうか? 目尻に溢れた涙が、重力に引っ張られて頰を伝う。男性は、僕の肩に手を置き、必死に何かを言っている。激しく揺れる視界が、閉じそうになる瞼を懸命に引き上げる。まるで、男性が複数人いるような残像を見る。ずっと、そうしてほしいと思った。そうでもしないと、僕の瞼はいとも簡単に閉ざされ、そして、再び開かれることがないような気がした。まるで昼食後の授業のような、じんわりと広がる暖かい空気感に包まれ、強烈に迫り来る睡魔に吸い込まれていくような感覚だった。

 車がゆっくりと減速し、軈て停車した。勢いよく開かれたドアの先には、青いスクラブに身を包む複数の男女が見えた。また少し身体が揺れた後、彼等はぐるりと僕を取り囲み、どこかへ移動し始めた。

「血圧85/40、脈拍160、体温36.1、SpO2 89%、血圧下がってきてます」夢現に、そんな声が聞こえた。凛としていて、芯の通った声に、やや緊張感が混じっている。狭まった視界の中で、手前にいる女性が、僕に向かって何か話し掛けているのが見える。

「十代男性…で数カ所を負傷しています。救急隊到着時JCSⅡ−20、現在Ⅲ−200まで低下して…」

「輸血と輸液全開で、RBC10単位追加オーダーして…ナイフが…所は止血してるから後回し…から縫合するよ。…先生、麻酔お願いし…」

 意識が遠退いていく感覚。徐々に、周囲の声が聞こえなくなっていく。彼等は、何を話しているのだろう? 思考が、回らない。上手く、考えることができない。考えるって、どうすればいいんだっけ? ここは、どこ? 僕は、何をしているのだろう? 少しだけ、首と腹と、太腿の辺りが痛いような気がする。息も、苦しい。自分の意識とは無関係に、定期的に大量の空気が送られてきて、横隔膜が下がり、肺が膨れていくような感覚。何だか、眠くなってきた。まだ、眠くない筈なのに。先程から、僕の意識とは別に、外側から何らかの力が加えられているような感覚がある。これは、なんだろう? 僕は今、何をしているのだろう? 只管に眠い。もう、眠ってしまいそうだ。しかし、今はまだ、眠ってはいけないと、本能的に感じる。今だけは、意識を手放すことが怖い。もう一生、目を開けられなくなる気がしたから。直感的に。だけど、僕の願いとは裏腹に、意識が薄らいでいく。強引に。離れてしまう意識に向かって、手を伸ばす。何とか、片手で掴んだ筈なのに、それを手元に手繰り寄せることはできなくて、指の間から、まるで煙のように、ふわりとすり抜けていく。そして、僕は深い眠りに落ちていく。


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