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目の前を、厚手のダウンジャケットに身を包んだ男が歩いている。ポケットに手を入れて大股で闊歩する後ろ姿からは、柄の悪さが滲み出ているが、膨らんだダウンジャケットが腰の辺りで半分ほどに狭まっているのを見ると、醸し出す威圧感に似合わず線の細い人のようだ。男はポケットに右手を入れ、左手の指先には煙草が嵌められている。男が息を吐き出す度に、暗闇に白い靄が浮かび上がる。男の身体の中で温められた空気は、外気に触れて水の粒へと変貌し、目に見える空気となる。まるで煙突から出る煙のように、男の口元に広がる紫煙は、続けて吐き出される呼気に押し出され、更に散在し、軈て見えなくなる。吐き出されるガス状成分には、タールやらニコチンやらの粒子状物質が豊富に含まれているせいか、純粋な呼気よりも薄黒く、如何にも身体に悪そうな色をしていると思った。前方を歩く男が吐き出した紫煙は、そのまま僕の鼻腔に入り込み、煙草独特の臭気を感じさせる。僕はその匂いを普段から毛嫌いしているが、不思議と今は、それほど気になることはなく、寧ろ僕の方からそれを肺に取り込んでいる気さえした。僕は歩きながら、男の吐き出す呼気を眺めていた。純粋な呼気と、不純な呼気。白い煙と、灰色の煙。水蒸気と、有害物質を含んだ水蒸気。二つの煙が、いつか混ざり合わないかと期待したが、一服一服を味わうように燻らせる男は、その速度が限りなく遅く、色の違う煙が混じり合うことはなかった。先程まで熱気に包まれて火照っていた身体は、肺内に取り込んだ冷気と、首筋の隙間から侵入する冷気により冷やされ、僕は熱を求めてポケットに仕舞い込んだ手を頰に当てた。熱を吸収しようとした筈が、指の背で触れた頬はまるで氷のように冷たく、感覚が鈍くなっていることに気付いた。先程、熱気が篭る店内の扉を開けた時、頬に触れた冷気が、まるで氷の粒みたいにチクリと頰を掠めたことを思い出した。今、その痛みを感じないのは、既に肌が麻痺してしまっからだろうか。僕が吐き出す呼気が放散されて外気に触れた瞬間、溢れた水分は水の粒へと変容して白い靄となる。口元に広がるそれは、僕の全身の細胞から産生された二酸化炭素を含み、呼吸の生産物として外気へと放り出される。目に見える形で現れる呼吸は、僕身体が、僕の無意識下で行っているとものである思うと、不思議な心地がした。僕の精神とはかけ離れた場所で、僕の身体が僕を生かそうと働いている。それはまるで、僕の精神と、僕の身体が手を取り合っているようにも感じるし、その二つが分離しているようにも感じる。もし、精神と身体が、同じ個体の中に入っている全く別の物であるとしたら、僕の存在は、どちらに帰属しているのだろうか。そんなことを、頭の中でぐるぐると考えていると、不意に男が振り返った。
「お前、何であんなところにいたの?」
「へ?」突拍子もなく投げ掛けられた問いに、あれこれと思考を巡らせていた僕は、間抜けな声を出した。
「お前、あんなところが好きなようには見えないし、楽しんでる感じでもなかったし。男に誘われてふらふらと出てくる感じじゃあ、友達と来てるわけでもないんだろ?」
「別に、ただの暇潰しです」
「深夜二時に?」
「眠れない夜があってもいいでしょ?」
「お前、まだ高校生だろ? 兄貴の保険証でも借りてきたか?」
「そうですよ」
「眠れなかったら、お勉強でもしてろよ」
「息抜きは誰だって必要でしょ」
「親は?」
「多分、家で寝てますけど」
「教育熱心な親の重圧を窮屈に感じたか、複雑な家庭環境に耐えられなくなったか、お前、家出少年か?」
「どっちも違います。多分、僕がこうやって抜け出していることは、親は気付いていませんよ。僕、壁を通り抜けるように家を出てきてますから」
「…まぁ何でもいいけど」男は、僕を値踏みするように一瞥して、へらへらと笑った。僕を振り返りながら歩いていた男の足が、地面に転がっていた小石を踏み付け、バランスを崩した男は「おっと」と言いながら体勢を立て直した。前を向いた男は、手に持つ煙草を咥えたが、既に短くなったそれを見て、指先で弾くように投げ捨てた。僕が呆然とその動作を眺めていると、視線に気付いた男が僕を見た。
「お前も、吸ってみるか?」男はケースから煙草を一本取り出して、色の染まった部分を僕に向けて差し出した。やや強引に渡されたそれを口に咥えると、男はその先端にオイルライターを近付けて火を点けた。ジュッ。金属同士の擦れ合う音が聞こえた後に、焦げたような匂いがして、少し突き出した紐のような繊維に火が灯った。白い繊維の上で、青い炎と橙色の炎が踊る。ゆらゆらと揺れる炎は僕が咥える煙草に移り、先端部分がじりじりと焼けて削がれていく。灰になるばかりで一向に火が灯らない煙草を不思議に思っている僕を見て、男は鼻で笑った。
「まず、口から息を吸うんだよ」言われた通りに軽く息を吸い込むと、橙色の火が灯った。吸入の度合いが分からず、勢い良く吸い込んだ主流煙が、咽頭の彼方此方を刺激し、僕は激しく咽せ込んだ。断裂的に煙を吐き出して行く度に、肺内の酸素が失われて行く感覚に陥り、息が苦しくなった。喉の内側の粘膜を掻き毟りたいような、歯痒い気分だった。
「おい、大丈夫か?」
「…はい」少し荒くなった呼吸を整えながら、再び煙草を咥えようとした時、煙草を持つ手にぴりぴりとした痛みを感じた。ピンク色に染まる手を見ると、冷気に侵されて悴んでいるようだ。僕は逆手に煙草を持ち替えて、強張る手をジャケットのポケットに突っ込んだ。感覚が鈍化した指先に、何かが触れたような気がした。それは尖った金属のようで。僕の手は、まるで磁石に引き寄せられたかのように、ポケットに沈んでいたニードルを握り締めた。この感覚を、僕は覚えている。金属に触れる皮膚が熱を持ち、その下に流れる毛細血管の血流を、僅か二ミリの隔たりを超えて感じているような気がした。呼吸が荒くなり、息苦しさを感じる。収縮運動を繰り返す心臓が、内側から肋骨を押し出しているような圧迫感。それは、僕の全身を駆け巡る血流が、その部分に反映されているように、激しい流れであると思った。欲望のままに、生を貪るような感覚。すっきりとした心地良さ。思わず、はっとした。この感覚が、あの時僕が感じたそれとまるで同じであることに気付いた。僕は、欲しているんだ。あの時のように。何かを求めているんだ。だから、夜の街を彷徨い、そして、見つけたのだ。思わず、笑みが溢れた。胸の底から這い上がってくる欲望を満たす方法を、僕は知っていたから。その手段も、手の内にある。その犠牲も、目の前にいる。いや、これは犠牲なのだろうか? 僕はただ、知りたいのだ。彼の希望を。僕はただ、見たいのだ。彼の絶望を。彼の渇望したものを一瞬に閉じ込めて、彼が掴めなかった光を感じたいのだ。瞼を閉じると、首から両腕にかけて小さな刺激が走り、肩がぶるんと震えた。息を深く吸い込む。ニードルを持つ手に力を込める。僕の意識が整う前に、身体が動き出していた。僕は彼の背中を目掛けて一歩を踏み出し、思い切り手を振り翳した。
重く、鈍い、感覚があった。薄い皮膚と、その下に埋まる筋肉組織や脂肪を掻き分けて臓側胸壁を突き破り、スポンジのような網目の中へと溶けて行くような感覚。
瞼を開けた時、ニードルを握り締める手はダウンジャケットに触れ、その先端は、男の背中に深く埋まっていた。狙いを定めずに振りかぶったそれは、肋骨を突破して、するりと男の内側に侵入したようだ。身体を構成する細胞を突き破ったとは思えないほどの滑らかさに、僕は呆気に取られた。
「痛っ…は? お前…何っ――」男は眉間に皺を寄せながら胸部を押さえ、まるで長距離走をしているような大袈裟な呼吸を繰り返す。しかし、男が懸命に取り込んだ空気は、僅かな隙間から胸腔内へ漏れ、沈殿するように溜まった空気は、置きミスを繰り返したテトリスの惨状のように膨れ上がり、肺を圧迫する。軈て、虚脱した肺は、外肋間筋と横隔膜に対する従順を放棄する。
「苦しい…」目を固く瞑り、呻き声を漏らしながら、アスファルトに蹲る男の前に、僕は屈み込んだ。僕の手は、引き寄せられるように伸び、男の胸部に触れた。ザクッ。まるで雪山を歩いているような音と、霜柱に触れたような感触に触れ、ダウンジャケットの上からでも、その部分が少し膨らんでいることが分かった。男の身体から聞こえてくる握雪音を不思議に思った僕は、もこもこと起伏した皮膚に触れながら、妙な心地良さを感じた。不意に、意識が遠のいた男が、後ろに倒れ込みそうになり、僕は咄嗟に手を伸ばし、前傾姿勢になるように支えた。
「お前…何なんだよ」荒い呼吸の中に、断続的に吐き出される細い声が混じる。男は口を開けたまま、虚ろな表情で肩を動かしている。僕は自然に綻ぶ表情を自覚しながら、男に埋まるニードルを掴み、ずるずると引っ張り出した。凹凸のない切っ先は、それが侵入した時と同じように、裂けた筋肉組織と脂肪の間をするりと抜けた。
「うっ」腹部を蹴り飛ばされたような悲鳴を上げ、男は懸命に歯を食い縛っている。その表情は苦痛に歪み、眉間に深い皺を刻ませながら固く目を瞑っている。男の肺を貫いたニードルの切っ先には、男の血液がこびり付いている。血の気が引いたような覗かせて俯く男の額には、じんわりと汗が滲んでいる。その時、一粒の汗が滴り落ちて、地面に伏せる男の手に落ちた。青白い肌がピクピクと動いて見えるのは、男が微かに震えているからだろう。小さな振動は末端に伝わり、男の指先を動かし始めた。
まるで意思を持った生き物のように、不規則に揺れる指先を見た時、いつか見た彼の姿を思い出した。眩いカラーライトの中で、自由に、軽やかに、鮮烈な音楽を奏でる指先。まるで何かの拘束から解放されたような伸びやかさで、この世界の誰も、何も、彼を封じ込めることなどできないかのように、彼の指は一心不乱に動く。そんな状態で、冷静な感覚を保っていられる筈がない。もはや何が、彼の指先を動かしているのかさえ分からない。視覚? 聴覚? 触覚? 嗅覚? 味覚? 留まることなく伝達される、無限に膨れ上がった感覚刺激を、彼の脳は対処しきれずに、軈て考えることをも放棄してしまうのだろうか。思考回路が停止した脳内で、彼の才能が生み出す感覚と、僅かに保っている感情を携えて、動く。まるで全身の力が、その指先にのみ降り注がれるように、奏でる。初めて彼を見た時の衝撃が、ハンマーで頭をかち割られたような鈍い打撃とともに、強烈に僕の心を支配した。汗を撒き散らしながら、狂ったように踊る若者の中心で動く彼は、美しく、この世界で生きる上での理性や、道徳、人権、規律、規則、法律などという堅苦しい物を全て取っ払ったような身軽さで、どこまでも激しく、本能のままに、何かを渇望し、溢れそうなほどに膨れ上がった欲望を抱えているような貪欲さがあった。
目の前で蹲り、静かに震えている男が、その時の記憶と重なった。小刻みに揺れる指先は、淡い紫色に変わっていた。
「楽しいですか…?」あまりにも脈絡のない突飛な質問だと思った。しかし、僕に鮮烈な衝撃を与えた男を見ていたら、聞いてみたくなった。
「生きるって、楽しいですか? 生きる意味って、何だと思いますか?」
「…何だよそれ。お前、自殺したいの?」男は荒い呼吸とともに、僅かに口角を上げながら言った。
「そういうわけじゃないけど」
「それを…俺に聞いてどうするんだよ」漆黒の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめた。
「…生きる意味? そんなの俺にだって分からない。…人生は、生きるためにあるんだろ? お前は、何を心配しているんだ? もっと、気楽に生きろよ…」僕を見下すように、男は笑った。僕は、男の言葉が理解できず、その言葉を反芻した。人生は、生きるためにある? 生きることは、人生を歩むことにのみ付属する理由になる? 生きる意味を問うことは、全くの愚問であるということだろうか。生きることは、この世界に生まれた者の使命であり、義務であり、そこには理由など存在しない。この世界に生まれ、この世界から消え去るまで、僕達は「生きる」ことを理由に人生を歩む。彼は、何を言っているのだろう? 男の言葉を理解できず、僕は混乱した。男の言葉が、頭の中でぐるぐると廻り、目眩を覚える。人間がこの世界に生まれようとする時、これから訪れる全ての出会いに心浮かれている時、まず「生きる」という枷を取り付けられる。それは、手足を上げるには重く、呼吸をするには何の障壁にもならない。「生きる」という目的の元に生み出された僕の細胞は、その言葉には何の疑問を持たずに、自らの機能を、自らの生命が果てるまで全うする。しかし、面倒にも素直に納得できずに、疑問を持ってしまうのが精神というものなのだろうか。ひょっとすると、男は細胞について語っているのだろうかと、強引にも納得しようとする。僕を混乱させる男の言葉は、エメンタールよりも遥かに風通しが良く、食べても具に有り付けないおにぎりのように狡猾で、アイスの無いモナカのように中身のない言葉のように聞こえた。バタン。物音にはっとして前を見ると、アスファルトに倒れ込んだ男が、引き攣ったような表情で笑っていた。
「お前は、何のためにこんなことをする? もしかして…生きるためか? はは…」乾いたような笑い声が、妙に胸に響いた。嘲笑うように僕に向けられた瞳を見つめる。男に対する怒りの感情は、一切なかった。男の言葉が、正論だとも、異論だとも思わなかった。ただ、それ以上、何も言ってほしくないと思った。男の言葉は、僕の心臓をじりじりと握り潰すようで、息苦しさを覚えた僕は、胸の底から込み上がる何かを感じた。瞬きをする度に、強膜を覆う潤いが増し、全身に、鳥肌が立つのを感じる。僕は鼻腔に流れ落ちた鼻汁を啜り上げ、地面に転がるアイスピックを手に取った。激しい咳嗽に悶える男を見つめる。僕は引き攣ったように笑う男に覆い被さり、喉元にそれを突き立てた。微かに触れる男の皮膚から、血液がすっと漏れる。呼吸が乱れ、手元が震えている。こんな気持ちは初めてだった。アイスピックを掲げた瞬間、男の瞳孔が広がった。その瞳に、恐怖の色が映ったように感じた。男が唾液を飲み込むと、薄い皮膚を隆起させる甲状軟骨が動いた。
「お、おいっ…俺を、殺すのかよ…何で…」男は咄嗟に周囲を窺った。人気のない夜道で、逃げる隙を窺っているのだろう。しかし、自らが仰向けになった状態で、体格差もない男に馬乗りになられては、逃げるに逃げられないのだろう。尤も、肺に穴を開けられ、十分に酸素が巡らない身体では、逃走は絶望的だろう。
「おい…はぁ…何なんだよ」男の声は、震えていた。徐々に冷静さを欠き、混乱を見せるその姿を見ていると、次第に僕の中で何かが高まっていくのを感じた。それは、忘れていた感情を取り戻すような、失われた輝きを取り戻すような感覚だと思った。胸がざわつき、僕は瞼を閉じた。腹部を下降する血管の振動を感じる。腹の底から、地響きが鳴っているような感覚に、違和感を覚えた。吸気を取り込み、再び瞼を開けた時、僕の眼下で震える漆黒の瞳が、その首元に感じる鉄の香りが、か細くなった息継ぎが、首とダウンジャケットの隙間から侵入してくる冷気が、唐突に感じる口渇感が、僕を取りまく全てのものが、強烈に僕を刺激しているように感じた。爽快で、生まれ変わったような心地だった。こんなに新鮮な空気を吸っても良いのだろうかと、よく分からない物に対する謙遜さえ覚えた。すっきりしたような気分で男を見つめると、衰弱した男は、喃語のような、呪文のような言葉を唱え始めた。
「も…もうすぐ警察と…きゅ、救急車が…来る…ぞ…」男の声は、殆ど耳を澄まさなければ聞き取れないほど小さく、断裂的になっていた。そんなこと、今、この状況下で言う必要などないのに。寧ろ、それは自らに牙を剥こうと凄む僕を急き立てるトリガーとなりかねないのに、冷静な判断力を失った男は、必死に僕を脅そうとする。焦点の定まらない瞳を、僕は真っ直ぐに見返した。
アイスピックを握る手に力を込める。男の瞳孔が更に広がり、瞳が見開かれた。瞬間的に、動いた。彼の首元に赤い線が糸を引く。眼下から悲鳴が聞こえる。右頸部を抑え、長い足を激しく動かしながら悶える。良く焼けた小麦色の指間から、血液が流れ出る。僕は、くねくねと動き回る男を見て舌打ちをし、全体重を掛け男を押さえ付けた。片手で男の胸を強く押さえ、掲げた手を、心臓目掛けて思い切り振り下ろした。がつん。コンクリートに拳を打ち付けたような衝撃。骨に響くような鈍痛が、握り締めた金属を通して伝わる。重く、沈み込むような衝撃だった。僅かに、骨が軋むような音が聞こえた。皮膚を貫いた切っ先が、肋骨を掠るように削ったのだろうか。その瞬間、引き笑いのような吸気音が聞こえた。大きく見開かれた瞳は、まるで全てが瞳孔であるかのように一色に染まり、大きく広がっている。僕達を包み込む冷気に、僕の呼吸音と、不規則に吐き出される白い靄だけが浮かび上がる。見開かれたままの瞳を見ると、充血したそれが、僕を見つめ返しているように感じた。その瞳には、恐怖や恨みなどの感情よりも、何故? という純粋な疑問を抱いているようで、力なく仰向けになる男が、首を傾げているように見えた。
遠くから、何か耳に触れるような、危険信号のような音が、断続的に鼓膜を振動させていることに気付いた。徐々に大きくなり、けたたましく響くそれにはっとした瞬間、一気に視界が開けた。音の鳴る方向を見ると、どこまでも続く暗闇の奥から、点滅する赤い光が近付いてくるのが見えた。強く握り締めるニードルの切っ先は、彼の首元に軽く触れているだけ。男は声を殺し、泣いていた。その瞳に映る僕が、歪んで見える。徐々に大きくなる音を認識して、僕は反射的に腰を上げた。そして、方向感覚を掴めないまま、サイレンから逃れるように駆け出した。静かに震える男から視線を外し、僕は一直線に走った。足の感覚が、上手く掴めなかった。力が入らず、少し蹌踉めきながら、必死に足を上げた。只管に、真っ直ぐ、僕は走り続けた。酸素が、足りない。喉が、痛い。乾燥を潤わすように、唾液を飲み込む。暗闇の中を、街灯の薄明かりと、ぼんやり開けた視界を頼りに、走った。一体どこへ向かっているのか、分からなかった。しかし、足を止めてはいけない。決して、立ち止まってはいけない。火の付くような苦しさを押し殺し、無我夢中で走り続けた。
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