君の香りは、僕の香り
ささたけ はじめ
その距離を超えてよ
大学入試を経て、高校時代から付き合っていた彼女とは離れ離れの場所で暮らすことになった。僕は地元に残り、彼女は関東へと出て行ったのだ。
一昔前ならば、そのまま自然消滅となるような境遇だったが――今の時代はありがたいことに、スマホがあれば毎日でも、顔を見ながらやり取りができる時代だ。だからお互いの生活は別々になっても、僕らの関係はそこで終わることなく続けることができていた。
こっちの生活はこんなだよ。
そんなサークルがあるんだね。
そっちはどうなの?
こっちはだいぶ暖かくて。
都会は色々大変そうだね。
便利で楽しいんだけど――。
スマホを片手に、そんなやり取りを毎日交わした。
この文明の利器のおかげで、顔は見れるし声も聴ける。
距離があってもお互いの存在を、確かに感じさせてくれる。
でも――。
「でも――あなたがいない」
離れ離れになって一か月。
ついに彼女は、涙ながらに口にした。
「寂しい――会いたいよ」
どれだけスマホが優れた機器であっても――相手の温もりまでは伝えてはくれない。
孤独に震える彼女のために、僕にできることはただひとつだけだった。
「会いに行くよ」
折よく季節は、大型連休のある五月。僕はなけなしの生活費を削って、彼女のもとへと向かった。
僕の温もりを届けるために。
*
電車を乗り継ぎ、彼女の暮らす街へと到着した僕は、あまりの別世界ぶりに絶句した。
彼女の暮らす街は、ふたりが高校時代を過ごした
右も左も判らぬまま、押し寄せる人波をかき分けていると、どうしようもないほどの疲労感に襲われた。人に酔うとはこういうことかと実感しながら、それでもどうにか彼女が待つという改札へたどり着く。
するとはたして――約束通り、そこに彼女はいてくれた。
僕が以前、可愛いねと伝えたデニムスカートをはいて。
その姿を見ると、僕の疲労はあっという間に吹き飛んだ。
軽くなった足取りで改札を出て、久方ぶりの彼女と対面する。
「ひさしぶり」
機械越しではない、生の彼女の声が、僕の鼓膜を震わせる。
それだけで会いに来た甲斐があると思えた。
「――会いたかった」
「私も。わざわざ来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「とりあえず、外に出ようか。ここは人が多すぎるから。こっちだよ」
そう言って、僕の手を引く彼女。
柔らかく、小さい手。久しぶりに触れる彼女の温もりに、初めて手を繋いだ時のように胸が高鳴る。
本当は、そのまま立ち止まって抱きしめたかったけれど――人の流れに押されてしまい、それは叶わなかった。
「それにしても、すごい人の量だね――地元とは大違いだよ。こんな中で、よく僕を見つけられたもんだ」
「見間違うわけがないでしょ――そのキャスケット」
僕がかぶる帽子を指差し、彼女は言う。
「私が誕生日プレゼントにあげたものでしょ? すぐに判ったよ。使ってくれて、ありがとね」
「そっちこそ――僕の好きな服装で来てくれたんだね。嬉しいよ、ありがとう」
本来服というものは、己を飾るために着るものだろう。しかし僕らの場合は、身に着けるものが相手への想いの証明となっていた。それは僕らにしか
「ね、お腹空いてない? ここまで来てくれたんだから、ご飯代は私が持つよ。こっちにいる間は、食べたいものは遠慮しないで言ってね」
「じゃあ、さっそく――今日の晩御飯は、君の手料理をリクエストしようかな?」
「うぅ、それは――」
自信なさげに口ごもる彼女が愛おしくなり、頭をなでながら僕は提案した。
「僕も自信ないけど――一緒に作ろうか?」
「うん!」
駅を出ると少し湿った肌触りの、爽やかな風に包まれた。
ここは湘南――日本でも有数の海岸観光地。
その街並みは、海面が反射する太陽の光を浴びて、キラキラと輝いて見えた。
*
彼女の街に滞在中、僕らはたくさんデートをした。
お洒落なカフェに行ったり、
駅ビルのゲームセンターでプリクラを撮ったり、
たこ焼きやたい焼きの屋台をはしごしたり、
ファミレスでご飯を食べたり、
海開きを待つ浜辺を散歩したり。
もちろん男女のことなので、色っぽいことだってあったりした。
たとえばこんなこと。
*
「一緒にお風呂?」
「――ダメかな? 好きな人と一緒に入るのが、夢だったんだけど」
「恥ずかしいから――電気を消したままでいい?」
「やった、ありがとう! それじゃお礼に、身体や頭を洗ってあげるよ!」
「そう言って触りたいだけでしょ。まったくもう――」
あきれたように笑う彼女。
一緒に狭い浴槽に浸かり、女性用ならではの甘い香りがするシャンプーで髪を洗い、きめ細かい泡の立つボディソープで身体を洗い合うと、まるで僕らは同棲しているかのようだった。結局その後は彼女が恥ずかしがってしまい、一緒に入れたのはその日だけだったけれど。
だから。
ひとりで浴槽に浸かった時に、ふと想像してみた。
もしもここに留まることができたなら、この幸せが続くのだろうかと。倍速で減るシャンプーの中身が無くなり、「帰りに買ってきて」と言われ――オレンジ色の
ちくりと痛む胸を抱えながら、僕は浴槽を出た。
*
――そして僕らは、毎晩お互いを求め合った。
触れられる距離に、相手がいる。
手を伸ばせば、その温もりがある。
相手の肌に触れるたび、それが嬉しくて幸せで、その感触を失わないようにとがむしゃらに求め合っていた。
夜ごと体力が尽きるまで、何度も何度も交わり合い、互いに愛を確かめ合った。甘くささやき合い、相手の名前を呼び、普段は出さない嬌声をあげることで、僕らは互いに誤魔化し合った。
――いずれまた、離れる日が来ることを。
*
そうして迎えた湘南最後の夜。
その日は満月が煌々と輝いていた。
夕飯の食材を買いに行った帰り道、そのことに気付いた僕は、思わず声をあげた。
「うわぁ――きれいな月だなぁ」
夜の都会は星が見えないほどネオンの灯りが眩しくて、それだけに闇がより濃く姿を現した。
見たこともない風体の人物。
先の見通せない路地。
聞きなれない言葉。
笑い声。
喧騒。
それらに彼女が飲み込まれてしまうような気がして、僕はしっかりと彼女の手を握っていた。
そんな中に差し込む白い月光は、暗い闇を照らし僕を勇気づけてくれた。
「――それは、愛してるって意味?」
夏目漱石の逸話になぞらえて、僕をからかう彼女。
「ち、違うよ――ただ、そう思ったから言っただけで」
「え、違うの?」
「あ、いや――違わなくない、けど」
「――冗談だよ。本当にきれいな月だよね」
だがその笑みには、いつものような明るさはなかった。
「だけど私、本当は――星のほうが好きなんだ」
「どうして?」
「宇宙の星々は、全部自力で光ってるからだよ。自分ひとりじゃ心細くて、あなたに照らされないと光ることもできない、月みたいな私と違って」
「そんなこと――」
「――でも」
曖昧に否定しようとする僕の言葉をさえぎって、彼女は続けた。
――ひどく、寂しそうな声で。
「
彼女も繋いだ手に力を込める。
今までは、僕がそばにいればいいと思った。
彼女が心細くなるのなら、何度でもここへ訪れて、その都度こうして手を繋ぎ、抱きしめてあげればいいのだと思っていた。そうすることで彼女を孤独から救えるのだと、僕は本気で思っていた。
それがどれだけ間抜けな考えかも気付かずに。
「わざわざ遠くまで呼びつけちゃって――ごめんね」
「――何度でも来るよ。これからも、何度でも。だから謝らないで」
「――ありがとう」
月明りに照らされた彼女の表情は、泣いているのか笑っているのかも判らなかった。それでも、ただひたすらに美しかった。
*
最後の夜も、彼女と同じ布団に入り、それまでと同じように彼女を求めた。
けれどこの日だけは、それまでと違う想いに囚われていた。
いっそこのまま、彼女とひとつになってしまえればいいのに。
彼女の皮膚を超えて、奥の奥、心の奥底までたどり着くことができたらいいのに。
そうやっていつまでも彼女の中に、居続けられたらいいのに。
そうすれば、もう二度と離れることなんかないのに――。
そんな想いが、僕の胸を締め付け続けた。
彼女を求めるたび、いくら身体が繋がることはできても、決してひとつにはなれないことが、心の底からもどかしかった。
彼女に会うために何百キロもの距離を超えてきたのに、こんなにも薄い、わずか数ミリの皮膚一枚を超えられないことが、あまりにも歯がゆかった。
彼女をその腕に抱いたまま、悲しさか口惜しさかも判らない涙が、頬を伝うのを感じた。
「――泣かないで。これで最後みたいじゃない」
「なら君は――どうして泣くの?」
いつしか僕らは、お互いの温もりを失うまいと抱き合うだけとなっていた。雪山で遭難者がそうするように、寒さから身を守るために抱き合っていた。孤独という名の寒さから。
カーテンの隙間から光が差し込み、明日が別れを連れてこの部屋を訪れるまで、胸元に抱いた彼女の頭を、僕は優しくなで続けた。そのたびに、彼女の髪からはシャンプーの甘い香りが漂った。
*
いよいよ朝が訪れると、僕らはどちらともなくベッドから身を起こした。
お互いに下着を身に着け、支度を整える。僕が上着を着て最後にキャスケットをかぶると同時に、彼女は無言で両手を広げ、抱擁を要求してきた。
黙ってそれに応え、力強く抱きしめると――そのまま彼女は泣き出した。
つられて僕も泣きそうになったけれど、それでは彼女は、よりいっそう心細く感じてしまうかもしれない。
そう思って、僕は必死に涙をこらえた。
*
帰りの電車に乗り込むと、僕は進行方向に背を向けて座った。せめて少しでも、彼女と向き合っていたかったからだ。ホームで見送る彼女があっという間に見えなくなると、それまで我慢していたものが一気にあふれ出し――彼女のいない世界は涙で何も見えなくなった。
泣いていることを他の乗客に悟られぬよう、つばを下ろし帽子を目深にかぶる。彼女のくれた、大切な
その瞬間――彼女の香りがした。
夜通し感じた、彼女の香りが。
それに気付き、涙があふれだした。
――そうだ。
僕も彼女と同じシャンプーを使ったのだ。
その香りは僕の髪を染め、そして帽子へと移っていたのだ。
ならば昨晩、僕の腕の中にいた彼女も、同じ匂いを嗅いでいたに違いない。
そして今、枕元に残っているであろうその香りを嗅いだ時。
彼女はそれを、僕の残り香と思って涙するのだろう。
いまや、彼女の香りは、僕の香りになっていた。
離れ離れになってやっと、僕らは同じになれたと気付いた。
だからこそ――。
最後に抱き合ったあの時。
一緒に涙を流せなかったことを、強く強く後悔した。
*
オレンジ色の容器に入った、普通のシャンプー。
決して高価ではない、誰でも手の届く、甘く切ないその香り。
それこそが、僕の初めての、失恋の香りだ。
君の香りは、僕の香り ささたけ はじめ @sasatake-hajime
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