第16話

 あの酔いは幻覚のせいでも、酒のせいでもなかったらしい。夜間救急で受けた血液検査の結果、私の血中からは記憶にない向精神薬の成分が検出された。朝岡のポケットからは、それと思しき薬が見つかった。知らないうちに一服盛られていたのだ。もちろん朝岡の本意ではない。朝岡は、こんなことができる卑怯な人間ではなかった。

――俺、警察官になりたいんです。小さい頃からずっと憧れてて。人を守れる仕事、社会を守れる仕事って格好いいし、すごいじゃないですか。自分ががんばれば、困ってる人が減るんですよ。

 実際にはそんな簡単な仕組みではないだろうが、その単純さと清潔さを含めて朝岡らしいと思った。

――警察官になったら、会いに行ってもいいですか。

 あの時は確か「いいよ、楽しみにしてる」と答えたはずだ。卒業前の、最後のやり取りだった。もしかしたら、あの言葉は私が思うよりずっと複雑なものを含んでいたのかもしれない。警察官になれないまま、会いに来た理由も。でも全ては今更だ。もう、全てが遅いのだ。

 支離滅裂な言い分を繰り返した朝岡は、私と離される際に警察官を殴り公務執行妨害で逮捕されたらしい。そのあと、収容された留置所で夜のうちに首を吊って自殺していた。

――誰よりも助けてくださった人に対して、なんてことを。

 今朝、病室に姿を現した朝岡の両親は土下座で詫びた。悲痛な声で額を床にすりつける二人に事実を打ち明けるべきか迷ったが、やめた。あまりに不確定要素が多すぎる上に、幻覚だの呪いだのと非現実的な内容だ。受け入れられないどころか、冒涜と思われても仕方ない。


「これでもまだ、BRPのせいじゃないって言うの?」

「先生は、これまでBRPでこんな被害が出たことはないから祈が原因だって」

「『被害が出たことはない』の根拠は? 来なくなった人の足跡をちゃんと辿って、全員無事生きてるのを確かめたの? 三人も死んだんだよ!」

 苛立ちをぶつける私に、助手席の吉継は黙った。そんなその場しのぎの言葉にそそのかされて、まだあの男を信じようとするのか。

「まあ、その辺にしてやってくれないか。寺本氏とは話し合って、その施術は休止することで合意を得たわけだし。もう下手にいじらず黙っていればいい」

 聞こえた擁護に、運転席へと視線をやる。明将はバックミラー越しに私を見た。

 連絡は昨晩の内にしたが、吉継が病室へ姿を現したのは今朝になってからだった。警察が絡んだと分かって、対策会議をしていたのだろう。明将連れなのは、運転手をしてもらうためだけではない。

「警察もバカじゃないですから、黙っていても共通点に気づきますよ」

「大丈夫だよ、気づかないから。もし気づいた警察官がいたら、何も話さず名前を聞いておいてくれ。俺が改めて話をする」

 不穏な返答に、明将を見据える。顔立ちは吉継と似ているものの、背格好やまとう雰囲気はまるで違う。杼機の長男なのだからお坊ちゃんには違いないが、吉継のような鷹揚さはない。視線が鋭く冷ややかで、怜悧な人だが昔から好きではなかった。

 今日は質の良さそうな紺のスーツに、グレーのレジメンタルタイを締めている。私達の四つ上だが父親の貫禄か、もう少し年上にも見えた。

「祈のとこは、おじいさんおばあさんももう高齢だろう。ご両親も町役場に勤められて長い。これから引っ越して一からやり直すのは大変だ」

「脅しですか」

 吉継には到底思いつかないであろう台詞だ。吉継が驚いたように明将を見る。さすがに、そこまでは打ち合わせていなかったらしい。

「実は、祈を吉継の嫁にと一番推したのは俺なんだよ。祈ならうちの財産を有効利用することはあっても、食い潰すことはない。考え方も堅実だしね。吉継の資産が増えても仕事を辞めることに反対したのは、さすがだと思ったよ」

「あの仕事は、吉継さんにとっては幼い頃からの夢でしたから。お金の問題ではないと思ったので」

 視界の端で確かめた吉継は、分かりやすく頭を垂れる。素直で純粋で、人を陥れることなんて考えられない。そういうところが好きだったのだ。

「一つ引っ掛かってたのは、そういうところでね」

 明将は薄く笑いつつ、ウインカーを出す。

「ちょっと、一本気すぎるんだよ。小学校の頃にはいじめられっ子を庇ってたし、高校の時にも似たようなことしてたよね」

 そんな昔から、動向を逐一チェックされていたのか。高校の方は朝岡達の話だろうが、明将は大学進学で県外にいたはずだ。

「杼機にとってありがたい要素ではあるんだけど、身内にまで適用されると窮屈で困るんだよ。とはいえ、吉継に祈の手綱を握れる度量はないしね。どうしたものかと眺めてたけど、予想どおり俺に泣きついてくる結果になった」

 明将は優雅にカーブを曲がりながら、蔑みの視線で吉継を一瞥する。

――警察に先生のこと、言ってないよね?

 事態を報告した私に吉継が発した第一声は、寺本を心配する言葉だった。

 警察に保護された時は朝岡の行動を「酔いの仕業」で片付けたくて、寺本については何も話していない。こんな結果になると分かっていたら、全部ぶちまけていたのに。

 それはさておき、たとえ身内だろうと我が夫を蔑まれるのは癪に障る。不快を視線で伝えると、明将は鼻で笑った。

「もちろん、俺だって寺本氏が刺し殺したとか殴り殺したとか、明確な悪意で誰かを殺していたのならむしろ積極的に通報するよ。ただ、今回の件は特殊だろう。CD音源がどうとか施術がどうとか……おまけに最後には呪いだと」

 うんざりしたような息を吐きつつ、マンションの敷地に車を滑り込ませる。

 その気持ちは分かるし同意したいが、残念ながら幻覚は本当だ。怪しげな施術のせいで三人亡くなったことも嘘ではない。

「まともに取り合いたくもないけど呪殺は不能犯だし、音楽が人を殺すなんて、吉継はともかく祈が主張するとは思わなかったよ。ともかくそんな怪しげで立件できるか分からないものに警察を関わらせて、杼機の名を落とすわけにはいかない」

「それなら明将さんもBRPを受けて、警察の介入が必要かどうか確かめてみられたらどうですか。身の毛もよだつ幻覚を味わえますよ」

「遠慮しとくよ。俺は他人のために体を張るタイプじゃないんでね」

 あっさりと辞退したあと、明将は今更の品定めするような視線をバックミラー越しに向ける。

「誤解しないで欲しいんだけど、今も変わらず祈のことは買ってるんだ。俺が町長になったら秘書にスカウトしたいレベルでね。敵になりたくないし、敵に回したくもない。だからもう、大人しくしてて欲しいんだよ」

 その要求を飲まなければ、家族を町に住めなくするつもりなのだろう。卑怯すぎて吉継にはできないやり方だ。

「吉継さんが言うには、彼らが亡くなったのは私が呪いを撒いたからだそうです。それが事実なら、その気になれば明将さんも呪い殺せるってことですよね。大人しくはしていますが、もし私の家族に危害を加えるようなことがあれば、一族郎党根絶やしにしますのでそのおつもりで」

 見据えた私に、エントランス前で車を止めた明将は振り向いて苦笑する。

「そういう、シャレにならないことを平気で言ってのける胆力が吉継にもあればね。整田とのださんのところもさぞや『祈が長男なら』と……口が滑ったかな」

 わざとらしく言い添えて、じゃあね、と一方的な別れの言葉を口にした。

 吉継と車を降り、美しく設えられたエントランスへ入る。入院は一泊、薬物の影響以外は打ち身程度だからすぐに退院許可は下りた。職場には体調不良で連絡してある。まだ新聞を確かめていないが、朝岡の一件と結びつけられることはないだろう。

 黙ったままエレベーターへ乗り、いつものように私が最上階のボタンを押す。

「昨日、仕事の飲みって言ってたのに」

 ぼそりと聞こえた言葉は、詫びとは程遠いものだった。振り向くと、苛むような視線と結びつく。これだけずたぼろになっているのに、そこを責めるのか。

「朝岡くんもBRPに不信感を抱いてたの。でも、主催者である吉継には相談しづらいでしょ」

「そんなの、口実だよ。彼はただ祈に近づきたかっただけだ」

 今更の取ってつけたような嫉妬に、思わず眉を顰める。寺本に社会的制裁を与えるつもりがないのなら、せめて悼む気持ちくらい持ったらどうなのか。

 不快を示した私を、吉継はまた不満げに見た。似合わない表情が日に日に増えていく。そうさせているのは私、なのだろうか。

「本来の目的がどうであろうと、不安だったのは事実だよ。大事な後輩を見捨てられないでしょ。今回は、守れなかったけど」

 化け物に胸を突かれた姿を思い出すと、視線が落ちる。どうすれば、守れたのか。あの黒い影を引き剥がして、穴を塞げば良かったのか。

「祈は彼のこと、どう思ってたの」

「『大事な後輩』だよ。高校の時もここで出会ってからも一緒。もし気持ちが動いてれば、朝岡くんとどうこうなる前に離婚してる」

 揺らぐ余地があるなら、あの問いにもそそのかすような答えを返していた。

「私が今も杼機の嫁でいるのは、吉継が好きで一緒にいたいからだよ。ほかに、なんのメリットもない」

 以前はもう少し、違うメリットもあったはずだ。

――杼機先輩は、先輩を守るつもりがないみたいですから。

 脳裏にちらつく朝岡の言葉を眠らせ、最上階へ向かう数字を眺める。不意に天井へ向けた視線が、ありえないものを拾った。あの、黒い化け物が張りついている。楕円形の体は黒い羽根に覆われ、烏のような翼が見える。鳥のような脚に、人のような腕。三本の指には長く鋭い爪が生えていた。頭がないのかと思っていたが、そうではない。フクロウのように胴体に埋もれているから、気づかなかったのだ。くるくると左右に揺れる頭を見据えると、黒々とした丸い目がまばたきをするのが見えた。鋭いくちばしまで黒い。

「いのぉりぃぃ……」

 黒い羽根を散らしながら、掠れる声で私を呼ぶ。なんの反応もないところを見ると、吉継には聞こえていないのだろう。やっぱり私にしか見えていないし、聞こえない。

――どこで憑かれたのか、心当たりはないですか。

 これは挫折と恐怖が掘り起こされただけで、幻覚で、間違いないはずだ。それでも、やはり可能性は潰しておくべきだろう。もう犠牲を出すわけにはいかない。几帳面に一人ずつ消していくところをみると次は私か、吉継だ。

 吉継を喪うわけにはいかないし、私だって大人しく死ぬつもりはない。おくれぇぇ、とねだる声を振り切って、開いたドアをくぐった。

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