第15話

 ふらつく視界に、顔をさすりあげる。梅酒ロックに切り替えて何杯目か、とはいえ何杯目だろうといつもは大して関係ない。どちらかと言わなくても、ザルだ。

「先輩、大丈夫ですか」

 気遣う声に視線を上げた瞬間、固まった。朝岡の後ろに、黒い影が張りついているのが見える。そして、その手が。黒い手が、朝岡の胸を貫いていた。

「おく……れぇ……」

 掠れた声を漏らしつつ、影は招くように手を動かす。人の手のように見えるが、血に塗れた黒い指は三本しかなかった。長く尖った爪の先から血が伝い、滴り落ちる。スーツも血で色を濃くしているのに、朝岡はまるで構う様子がない。もわりと血の臭いが鼻を掠める。これも、幻覚なのか。

「ごめん。ちょっと回ったみたいだから、帰るね」

 財布を出し、視界を揺らしつつ五千円を差し出す。ああ、だめだ。家ならともかく外で、後輩の前でこんなに酔うなんて。

「俺も出ますから、一緒に帰りましょう」

 いつの間にか傍にいた朝岡が、脇を支える。でもその胸には相変わらず手が突き刺さっていて、私を誘うように蠢いていた。

「朝岡くんは、なんともない?」

「俺は大丈夫ですよ。強い方ですし」

 酔い具合を尋ねたのではなかったが、説明するのは憚られる。このふらつきは多分、幻覚のせいなのだろう。

 支える朝岡を頼りつつ腰を上げ、どうにか支払いを済ませて店を出る。

「ごめんね、大通りに出てタクシー拾うから」

 こんな泥酔状態で帰ったら吉継は驚くだろうが、仕方ない。ただ、離れようとした肩を朝岡の手は強く引き寄せて抱いた。驚いて見上げた朝岡の顔が、ネオンの灯りに黒く歪む。影はまだ、朝岡におぶさるように背に張りついている。黒い羽根が、肩先で散った。

 行きましょう、と歩き始めた朝岡に、足をもつれさせながらついて行く。でも、大通りとは逆方向だ。

「もう一軒は、無理だよ」

 控えめに伝えてみるが、朝岡は足を止める様子がない。小さく影が笑う声がして、ぞくりとした。

「ちょっと、待って」

 角を曲がってすぐ、足を踏ん張って止まる。一息ついて見上げた視界に、派手なネオンが揺れた。ホテル街を抜けて向こうの通りからタクシーを拾うつもり、と考えるのは人が良すぎるだろう。

「ごめん、帰らせて」

「好きなんだよ」

 逃れようとした私の腕を掴み、朝岡は突然の告白をする。

「どうして、俺から逃げたんだ。逃げて、あんな男に」

 苦しげにぶつけられたが、そんな記憶は一切ない。逃げてはいないし、そもそも付き合ったことすらない。キキ、と猿のように笑う影の声が、また背筋に冷たいものを走らせた。

「朝岡くん、落ち着いて。その考えや記憶は偽物なの。BRPが作ったものだから、事実じゃ」

「何を言ってるんだ。今帰ってくるなら、全部水に流すから。もう一度夫婦でやり直そう」

 ああ、だめだ。完全に飲まれている。

 朝岡の挫折した夢は、警察官だ。おかしくなるとしたらその向きだと思っていたから、完全に油断していた。どうすればいいのだろう。

 不意に、朝岡の胸の辺りで蠢いていた手がこちらへ伸びる。触れようとした指先を、思わず弾き返した。また揺れる視界に荒い息を吐き、足を踏ん張って耐える。

「祈、おいで。仲直りしよう」

 再び伸びた二本の腕を振り払おうとしたが、かわされて道路に引き倒される。鈍い痛みを感じきる間もなく、朝岡は私を引きずって歩き始めた。手首を掴む力は強く、私に気を配る様子はまるでない。絶対に違う。朝岡は絶対に、こんなことができる人間ではない。でもこのままでは、ホテルに連れ込まれるどころでは済まない惨事が起きるかもしれない。もう二人、死んでいるのだ。

「助けて! 助けてください!」

 あてもなく叫んだ時、少し荒れた若者達の声がした。おっさん、と呼ばれた朝岡は足を止めて、駆け寄った彼らと言い争い始める。私はすぐに救い出され、朝岡から距離を取った。

 大丈夫すか、と掛けられた声に痛む腕をさすりつつ、礼を言う。

「旦那さん、酔ってますよね」

「いえ、夫ではないんです。恋人でも。高校時代の、後輩で」

 震える声で事実を告げると、彼は絶句する。それはそうだろう。今も朝岡は彼の仲間に向かい、「夫婦の問題に口を出すな」と猛ったばかりだ。

 背中にはまだ、黒い影が張りついている。でもあれが見えるのは、私だけなのだろう。あの手が胸を貫いた時に、おかしくなるのかもしれない。朝岡は、これからどうなるのか。

 ぐらりと揺れる視界に、額を押さえる。遠くで、サイレンの音がした。

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